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Posted by vietnhat at

2012/07/30

InvoiceとVAT





ベトナムの新聞を読んでいて思い出したのですが、ベトナムではVAT( Value Added Tax 付加価値税)制度があり、物品を購入すると購入価格をベースにVATが課せられます。日本の消費税と同じような性格の税金だと理解していますが、現在の料率は原則10%(物品の種類によって若干異なるようです)ですが、当時も10%だったかどうかは覚えていません。もう少し低かったような気もしますが定かではありません。おそらくベトナム独特の制度だと思いますが、Invoiceは税務当局が発行した法定の様式でカーボン形式の用紙に取引の金額を記載したものでVATの金額等も記載するようになっていたと思います。取引の都度対価を受け取る側が必ず発行し税務申告等の手続きの必要書類として非常に重要な書類でした。個人の細かい取引でも例えばレストランで食事をしたときに金額がある程度大きくなると貰っていたような気がしますが、当初それが何か意味も分からずに内容もよく見ないで捨てていました。個人ベースでは特に関係がなかったと思いますので実害はなかったと思います。VATについては大雑把にいえば日本の消費税と同じく(仮受VATー仮払VAT)がプラスの場合は納付マイナスの場合は還付ということだったと思いますが、申告を毎月行っていたような気がします。合弁会社設立後はChief Accountantが毎月集計していたものを見ていたような記憶があります。申告の際にはInvoiceを証拠書類として添付していたのではなかったかと思います。逆にいえばInvoiceがなければ仮払VATの申告が出来ないということで、とにかく無くては困る重要書類ということだったと思います。私の仕事には殆ど関係ありませんでしたが、VATに関しては当時輸出入に係る物品には優遇・免除の特典がある等かなり複雑だったと思います。これはずっと後になって合弁会社を清算する際の話ですが、非居住者である日本側の株主が指名したベトナムの弁護士事務所や会計事務所からの請求書にVATが含まれていたので確認したのですが、同じVAT制度がある欧州等とは異なり、ベトナムではこういうケースでもVAT課税取引になるとの事でした。ということは非居住者でも還付請求が出来るのかというと、実際に試していないので何とも言えませんが、現実的には手続面で難しかったと思います。とにかくその時は清算の手続きを進めるのに精一杯でとてもVATの還付まで手が回りませんでした。ちなみにその時Invoiceを貰ったかどうか定かではありませんがもしかしたら貰わなかったかもしれません。仮に還付請求が出来るとしてもそのためにはベトナムの会計事務所に委託せざるを得ずまたそのフィーにVATが課税されるのでいつまで経っても終わりがありません。  

Posted by tsukuma at 23:40Comments(0)

2012/07/30

バッチャン(Bat Trang)















ハノイから川沿いの土手を車で30分ほど行ったところに焼き物で有名なバッチャン村があります。小さな村ですが村全体が焼き物作りに従事していたような印象を受けました。約800年の古い歴史があるそうで「安南焼」として安土桃山時代の日本にも渡り千利休にも珍重されたとネットには書いてあります。手作りによる独特の工法を今も守っているそうです。家の壁のようなところに黒い粘土を塗り込んでいておそらく乾燥させていたのだと思いますが、一度手で触って確認しようとしたら怒られた事がありました。下の写真はバッチャン村で買った高さ5cmくらいの小型の孫悟空のような人形です。

    

Posted by tsukuma at 05:30Comments(0)

2012/07/29

新聞





現在はインターネットによるオンラインの時代なので紙に印刷したものはあまり関係ないと思いますが、当時は日本の新聞をどうやって入手するか結構重要な問題でした。赴任当初はVietnam Newsというベトナムの国営通信社が発行していた日刊英字新聞と経済誌(日刊ではなかった?)を定期購読していたのはよく覚えているのですが、日本の新聞をどうしていたのか全く記憶にありません。ただ、Y氏がHITCビルの準備室で日経新聞を読んでいた漠然とした記憶はあり、シンガポールで印刷したものを1-2日遅れで取り寄せていたような気がしますが定かではありません。Vietnam Newsや経済誌については事務所でMs.Vも私と同じものを一緒に読んでいて必要な部分については解説してくれていました。内容はおそらく一般のベトナム語の新聞に比べてかなり情報量が少なかったと思いますが、ベトナム語が出来なかったのでかなり貴重な情報源でした。ちなみに英国では会社で日経新聞を取っていたので、家では朝日か読売かどちらかを定期購読していました。オランダで印刷したものを欧州各国に空輸していたのではと思いますが、英国ではタイムリーに入手できたので時差の関係で日本が寝ている間に翌日の新聞が配達されてきて日本よりも早く見ることが出来ました。本当かどうか知りませんが、当時その時差を利用して株でもうけている人がいるという話しを聞いたことがあります。英国では所謂新聞少年が朝配達していました。家内が新聞少年に”morning”と言ったら新聞少年から聞き返されて、この国では”おはよう”も通じないとぼやいていました。今はインターネットさえ繋がれば、寝る時間をどうするかは別にして、地球上何処に居ても同じだと思いますが。
ベトナムの新聞の件で思い出したのですが、当時麻薬事件に関与した警官グループ数人の裁判のことがよく新聞に載っていて、日本では見られない法廷での写真も掲載されていたような記憶があります。テレビのニュースでも言葉は分かりませんが大々的に報道されていて画面でよく裁判や法廷の様子を報じていました。結果的にほとんどの被告に死刑判決が言い渡さたようでしたが罰金刑も併科されていて、日本では考えられない判決で、死刑囚がどうやって罰金を払うのか不思議に思ってMs.VやMs.Lに聞いたのですが、私も含めて3人で議論して家族が親戚中からお金をかき集めて払うのではないかということで落ち着いたのではなかったかと思います。麻薬については英字新聞でもかなり取り上げていてよく撲滅運動を展開していました。統計数字もよく出ていましたが女性2人はもっと多いはずだと口を揃えて言っていました。
  

Posted by tsukuma at 07:55Comments(1)

2012/07/28

総選挙





ベトナムでは5年毎に総選挙が行われるようですが、たまたま1997年がその選挙の年でした。詳しいことは分かりませんが、政党は一つだと思いますが政党に属していない人が立候補して当選することがあったようです。ちなみに当時中国では選挙制度が無かったと記憶しています(現在はどうか知りません)。投票日は日曜日だったと思いますが、当日の早朝にアパートのそばの公園を散歩していたら公園の中のお寺が投票所になっていたようで、朝の6時か7時に投票所の係の人達が整列してラジカセから流れる音楽に合わせて歌を唄い始めました。当然ベトナム語の歌ですが、何処かで聞いたメロディだと思ったら「インターナショナル」の歌だったので懐かしくて聞いてしまいました。元々はロシア革命歌だと思いますが、我々の世代は学園紛争の時代に歌われていた日本語版をよく聞いていました。また、大学生のころ福岡市の中心部にあったスポーツセンターで行われていた中国見本市で売り子のアルバイトをしていて会場で中国語版を一日中放送で嫌というほど聞かされました。ちなみにその見本市が行われたのは日中国交回復の翌年だったと思います。また英国でも何かの機会に英語版を聞いた記憶があり、ベトナム語版は4カ国目のバージョンだったと思います。ベトナムの選挙は5年毎だとすると今年が選挙の年になるかと思いますが、昨年何かの事情で1年前倒しで実施するという新聞記事を読んだような気がしますが?  

Posted by tsukuma at 04:44Comments(0)

2012/07/27

旧レーニン公園










旧レーニン公園はトンニヤット(統一)公園という名称になっているようで、ホーチミン廟の近くのレーニン像がある公園が現在レーニン公園と呼ばれているようです。旧レーニン公園は湖の周りを囲んだ公園で私の散歩コースの一つでした。休日はレーニン公園まで自転車で行って園内をよく散歩していました。家内はハノイで最も好きな場所だと言っていました。当時は土曜日は休日では無かったので人気が少なく静かな公園でしたが、日曜日は早朝に行くと散歩をしている人が多く結構賑やかでした。散歩をしていると腕時計をしているのでよく英語で時間を聞かれましたが、たまに私の顔をよく見ていない人からベトナム語で時間を聞かれることがありましたが、言葉は分からなくても時間を聞かれていることぐらいは分かるので、6時だと「サオ」と答えると「6」と言っているのは分かるようですが発音がおかしいので皆大笑いしていました(実際6時台に時間を聞かれることが多かったようでした。前にも書きましたが私のおかしな数字の発音は特に6がおかしかったようです)。園内には引退した戦闘機が展示されていました。おかしな形をした樹木があったのを何故か覚えています。また、有名な中国料理店があり一度ベトナム人の副社長と行ったような記憶があります。写真には東京タワーのような電波塔が写っていますが当時は無かったと思います。
  

Posted by tsukuma at 23:20Comments(0)

2012/07/26

ホーチミン廟





故ホーチミン大統領はあまりにも有名ですが1969年9月2日に亡くなっています。1969年9月というと私がまだ福岡に住んでいた高校2年生の頃で、アメリカのアポロ11号が月面着陸をした約2ヶ月後でかなり昔の事ですが亡くなったというニュースは覚えています。おそらく1969年当時私が名前を知っていた唯一のベトナム人ではなかったかと思います。ホーチミン廟はベトナム戦争が終わった1975年に完成したようです。遺体は特別な処理を施されて楼の中に安置されており、現在は毎日(定休日を除く)午前中に安置室の見学が可能なようです。当時の見学時間は日曜日の午前中だけだったような記憶もありますがこれは記憶違いかもしれません。当時はベトナム人と外国人は別々に分けられて入場していて、ベトナム人の長い行列はほとんど地方から来た人達ではなかったかと思います。顔つきや服装がハノイの人達とかなり違っていたような気がしました。外国人の入場にはいくつかの禁止事項があり半ズボンやサンダル履きは禁止されていました。ちなみに当時ベトナム人は半ズボンをはく習慣はあまりなかったようですが、*ベトナム・サンダル履きの人はかなり多かったのですが入場には問題なかったようです。実は私が初めて行ったときに半ズボンだったので入場を諦めた経緯がありました。2回目に行ったときは家内と一緒だったと思いますが、1回目のときからそんなに時間が経過していたわけでは無かったと思いますが、学習効果がなく何故か半ズボンの件をすっかり忘れていて(仕事が忙しくて考えることが多すぎたようです)再び半ズボンで入場しようとしました。しかし、私のような人間が多くいたようで、入り口のすぐそばに洋服屋があり係員がそこでズボンを買えとの助け船(?)を出してくれました。仕方なく急遽長ズボンを買って入場することにしました。私は日本人としては普通の体格なのですが、当時ハノイで衣服を買おうとするとなかなかサイズが合わないという問題がありました。このときも一番大きいものを買ったのですがそれでもかなり無理矢理に身につけていたという記憶があります。ちなみに英国では全く逆の意味でサイズが合いませんでした。長い時間待って安置所に居たのは数分の間だけだったと思います。2010年12月にハノイを再訪したときには、ベトナム人と外国人の区別は無くなっていて入場のため一緒に長い行列を作りました。私はその時長ズボンだったのですが、外国人に対する禁止事項はかなり緩和されたようで多くの半ズボンにサンダル履きの外国人が何のお咎めもなく入場していました。入り口の場所は当時と異なっていて、昔の入り口の近くにあったズボンを買った洋服屋さんを眼で探したのですが確認出来ませんでした。当時私の周りに居たベトナム人の多くが20歳代の後半で生前の故人を直接知っているはずは無い年齢なのですが、年齢にかかわらずベトナム人にとって、故ホーチミン大統領は神聖な存在であるようです。これはいまでも変わらないと思います。世界中で死後評価が変わってしまう指導者が多い中で非常に珍しい事だと思います。ホーチミン廟のそばには何処からか移築した故人の居住した家や執務室や小さなお堂である一忠寺がある公園があります。故人が使用した車も展示してありました。また故人に関連したものを展示しているホーチミン博物館があり、添付の写真のカエルの形をした打楽器はそこの売店で買ったものです。博物館への入場に際しては外国人は有料だったと記憶しています。日曜日だったと思いますが、家内と一緒に大勢のベトナム人達に紛れて入場しようとしたら(入場料をごまかそうとしていたわけではありません)、係員が大勢の中から我々だけ確保して入場料を支払った記憶があります。

*ベトナム・サンダル(と私が勝手に呼んでいる履き物):当時ハノイでも多くの人が履いていました。日本に帰任するときにいくつか持ち帰り重宝していましたが、暑い季節に長時間太陽に当たると一部溶けてしまうという欠点がありました。耐用年数がとっくに過ぎたのでもう我が家にはありません。2010年12月にハノイに行ったときは注意して見なかったこともありますが見かけなかったような気がします。ネットで私が言っているベトナム・サンダルを探してみたのですが、ベトナム雑貨は若い日本人女性に人気があるようでおしゃれなサンダルはいくつもヒットするのですが、私が言っているベトナム・サンダルは見つかりませんでした。


  

Posted by tsukuma at 05:15Comments(0)

2012/07/23

ホアロー収容所跡とハノイタワー





ホアロー収容所跡は市の中心にあり植民地時代の19世紀末にフランスによって監獄として建設され、多くのベトナム人政治犯が収容されていたそうです。またベトナム戦争当時は捕虜収容所として使用されていて、北爆時に捕虜になったアメリカ人パイロット達が多く収容されていたのは有名な話です。捕虜収容所時代に捕虜のアメリカ兵達がこの収容所をハノイヒルトンと呼んでいて、収容所の出来事を描いたハノイヒルトンというアメリカ映画が1987年に制作されたそうです。ちなみにこの映画はネットによれば日本では劇場未公開になっており、私も1997年当時映画については初めて聞いたような気がします。収容された捕虜の中にはジョン・マケイン上院議員等後日有名になった人が大勢いるようです。1997年に私がハノイに在任中に、ベトナム戦争後の初代駐越アメリカ大使として赴任してきたピーターソン氏は捕虜として4-5年収容されていて、確か奥さんはベトナム系オーストラリア人だったと思います。収容所跡は現在でも保存されていますが、
収容所跡を一部潰して高層のオフィス・ホテル・住居等の複合施設としてハノイタワーが建設されました。前回記載したように合弁会社の前のテナントである日本のS商事のハノイ駐在員事務所もハノイタワーに転入居しました。当時のハノイには高層ビルの数は限られていましたが、ハノイタワーは中心部に位置してひときわ目立ちました。ちなみに私が赴任した1997年2月には、記憶が定かではないのですが、当該地に囲いがあって何か工事が行われていたような気もしますが、どんどん進行し同年秋にはあっと言う間に完成した印象があります(あくまで個人の古い記憶に基づく印象です)。また、1999年にはここからそう遠くないオペラ座の隣に本物のヒルトンホテルも完成しました。


  

Posted by tsukuma at 05:09Comments(0)

2012/07/22

合弁会社設立に向けて(2)





VCBとの会議

1997年4月頃VCBとの会議で、VCBから派遣される副社長Mr.Hと監査役Ms.Mと初めて会いました。他にも数名参加していましたが、前に一度会った経理責任者はこの会議には参加していなかったかもしれません。合弁会社設立後の運営方針等について意見の交換を行った記憶がありますが、Y氏は前に会ったことがあるようでしたが私はVCBから派遣されるマネジメントには初めて会ったので若干緊張していたようです。実はこの会議で一悶着あり、私はVCBと日本側株主の2社から責められることになりました。東京とハノイは2時間の時差がありますが、朝の7時過ぎ(東京の9時過ぎ)にアパートで鳴る電話のベルは100%東京の2社からの連絡に決まっていました。しかもアパートに電話をしてくるということは私だけと話したいということなので話の内容は面白いはずはありませんでした。この日も前日にFaxで送付した会議の内容についての詰問でした。VCBも含めて何れの株主も私を責めている意識は無かったかもしれませんが、立場上苦情受付係のような役割も仕事のうちでした。

オフィス探し

VCBとの会議の合意事項の一つでタイミング的には雨季の前だったと思いますが、合弁会社のオフィス探しをやることになりかなり手間がかかった記憶があります。私は日本でオフィス探しをやった経験はなくハノイの不動産事情も知らないし、そもそもハノイという地元でオフィスを選定するのは合弁契約のドラフトによればVCBの仕事だと思っていたのですが、そうは思わない人も居て結構面倒でした。結果的にVCBと一緒にかなりの物件を見て回り個人的には勉強になりました。ベトナム人はどちらかといえば古いコロニアル風の2-3階建て建物を好むのではという(個人的な)印象を受けました。比較的新しい物件については、見た目の築年数と実際の築年数がかなり異なるような気がしました。専門家ではないので正確なところは分かりませんが、たとえば見た感じは10年ぐらい経過していると思っても実際には5年ぐらいというケースが多かったようです。気候の関係もあると思いますが劣化が早いのではないかという気がしました。大宇ホテルのすぐ側に集合住宅が何棟か建っていて、どう見ても30年ぐらい経過しているのではと思いましたが実際は10年も経っていないと聞いてびっくりしたことがありました。考えてみれば1997年当時に30年前に建設した集合住宅はそれほど多くはなかったはずです(0だったかもしれません)。合弁会社のオフィスは最終的にホアンキエム湖の南側の3階建てコロニアル風ビルの3階部分に落ち着きました。国営の旅行会社がオーナーだったと思います。このビルは結構有名なビルのようで、1階には(店の名前は忘れましたが)有名なCafeとフランス航空の事務所がありました(フランス航空の事務所は同社のHPに記載の住所を見ると現在もそこにあるようです)。また、2階には当時ハノイには乗り入れていなかった日本航空の事務所も何故かあり日本人が一人居たような気がします(但し、日本航空は私の在任中にオペラ座の近くに移転しました)。3階部分の前のテナントは日本のS商事の駐在員事務所でしたが当時完成した高層のハノイタワーに移転したので空いていたものです。後日ハノイタワーのS商事には行ったことがありますが、個人的には合弁会社の古い事務所の方が好きでした。なお、日系の商社のハノイ駐在員事務所にはS商事の他にも3-4社行ったことがありますが、何れもかなりの人員がいて駐在員事務所といいながら結構活発にやっていました。合弁会社のオフィスについてはまた別の機会に。
  

Posted by tsukuma at 04:34Comments(0)

2012/07/21

日々の生活編(2)





暑さ対策

5-6月頃の暑さはとても耐えられませんでした。夜でもアパートの窓を開けると暑くなるので開けられず、起きているうちは冷房で冷やしていても冷房をつけたまま寝るとすぐに風邪をひくタイプで対応が難しく何時も睡眠不足でした。タイマー装置は付いていなかったと思います。一般のベトナムの家庭ではクーラーは普及していなかったようですが、その代わり電気街に行くと中国製の扇風機を道路にはみ出してまで大量に販売していました。ベトナム人は夜になると町中をバイクで疾走して涼んでいたようですが、暗い中を自転車で走るのはさすがに恐くもっぱら夜はひたすら散歩していました。また大宇の前の道路を挟んだ向かい側にあった冷房がきいたバーにたまに行っていましたが、行くと必ずアパートに住んでいた年輩のドイツ人が一人寂しそうにビールを飲んでいて、私が行くと嬉しそうな顔をしてシンガポールのタイガービア(だったと思いますが)を彼から飲まされてしまいました。長居をして飲み過ぎることもあったと思いますが、平日の夜と違って、気を遣わないでリラックスできていたと思います。いずれにしても健康的な生活からはほど遠かったようです。


停電

暑くなると頻繁に起こっていたような気がします。VCBで先方との会議中に突然停電になり冷房が止まってもしばらく会議を続けていたのですが、そのうち思考能力が停止してしまい電気も回復しないので中止したことがありました。ホテルやオフィスビルには停電に備えてバックアップとして自家発電装置が設置されていたという話を聞いていましたが都度発動されていたどうかよく分かりませんでした。大宇アパートでも停電で大騒ぎをしたことが何度かありました。地域の停電かアパートの設備の故障か詳しいことは忘れましたが、長い時間回復しない場合は私は使った記憶はないのですが調理用に韓国製簡易コンロを各部屋に配っていました。

凧あげ

暑くなると大宇アパートの前に近所の子供たちが大勢集まって凧揚げに興じていました。ビル風がちょうど凧揚げに適していたようでうす。子供たちだけでなく大人も結構いて、一種の夕涼みのようでした。それにしても凧自体は粗末な材料で作っているのが見ていてもよく分かったのですが、結構凝った作り方をしていてしかもよく飛んでいました。ああいうのを見ているとベトナム人は子供の頃から器用だなと思いました。私も凧揚げをやらせて貰ったことがあるのですが、子供たちが揚げると実によく飛ぶのに、私がやっても全然駄目でしたね。

大宇女性会長ハノイに
私には全く関係なかった話ですが、大宇ホテルの中庭で音と光によるものすごく派手なセレモニーを行ったので嫌でも覚えています。アジア通貨危機や雨季の前だったと思いますので、1997年の4月か5月だったと思いますがと書いたところで家内がこの件を覚えているとのことで、おそらくそれぐらいのタイミングでした。大宇の財閥の組織がどうなっていたのか全く知りませんが、大宇建設の関係の女性会長がハノイに来るということで知り合いの韓国人のマネージャーが事前の準備で忙しくしていました。上記に書いたとおり到着後は派手な演出によるセレモニーで良し悪しは別にしておそらく日本人はああいうことはやらないのではと思います。女性会長が韓国に帰国した翌週、韓国人のマネージャーとアパートで会った記憶がありますが、ハロン湾の観光旅行に付き添ったということで疲れきっていました。大宇ホテルの前にいかにもベトナムという感じの沼地があったのですが、女性会長がそこにボーリング場を作れと命令したとのことで(Orderと言っていました)彼がどういう立場だったかは知りませんが、お金(Finance)の心配をしていた記憶があります。結局いろいろあって実行していないと思います。何故ボーリング場だったのかは分かりません。当時はそんなもの無かったと思いますがネットを見ると今現在ハノイに1-2軒あるようです。ホーチミンには当時からあったと聞いた記憶があります。2010年12月に訪れたときは、その沼地跡で韓国ロッテが大規模な複合施設を建設していました。大宇財閥は同年のアジア通貨危機を契機として破綻しましたが、ハノイの大宇ホテルを持っていた大宇建設は今でも残っているようです。当時財閥のオーナーだった人は財閥破綻後韓国を出国してヨーロッパかどこかに住んでいたが、昨年だったか韓国に帰国して逮捕されたとの新聞報道がありました。韓国ではそういう話が多いように思います。前にも書きましたが、今年になってハノイの大宇ホテルの韓国側持分をベトナム側が買取り、大宇ホテル(オフィス・アパートを含む)は100%ベトナムの会社になったようです。
  

Posted by tsukuma at 05:00Comments(1)

2012/07/20

日々の生活編(1)





昼寝

暑くなるにつれて仕事の能率が落ちていったのですが、この時期ベトナム人は昼寝をして体力を温存しているらしいというのが分かってきました。具体的に初めて見たのはVCBリータイトー支店の2階にあったJVセクションに行ったときの事でした。いつもは営業時間内に行っていたのですが、たまたま急いで届けるものがあり昼休みの時間に行ったところ、1階の銀行窓口では照明を消して真っ暗な中で何かが蠢いていて、目が慣れてくると窓口の行員たちが机の上に毛布を敷いて更に体に毛布をかけて昼寝をしているらしいというのが見えてきました。初めて見たときはびっくりしましたが、生活の知恵でそうやって暑い季節を乗り切っていたようです。HITCの準備室では、我々に昼寝の習慣がなかったので特に昼寝の時間は設けなかったのですが、Ms.Vは時々了解を取った上でビルの管理室か何処かで昼寝をしていたようです。

カビ

高温多湿なので油断していると直ぐにカビが生えてきます。例えば、汗がついた運動靴をそのままにしていたら直ぐにカビが生えてくるといった状況でした。箪笥にかけてある衣服も油断していると直ぐにカビにやられるので箪笥のドアは開いたままにして、部屋の換気扇も一日中つけたままにしていましたが、それでも100%防げなかったようです。おそらくハノイで生まれ育ったベトナム人はうまく対処する方法を知っていたと思いますが、Ms.Vに聞いたような記憶もなく、もう少し人の話を聞いておけば良かったのかもしれません。

蚊・害虫対策

私はあまり気にしていなかったのですが、運転手のMr.Cは車の中に虫が入ってくると車を駐車してまで虫退治をしていました。アパートの部屋では日本の蚊取り線香や韓国製の蚊取り線香をいろいろ使っていましたが、蚊取り線香に関しては日本製の方が効果があったようです。当時、JLCのシンガポールの若い駐在員が奥さんと一緒に蚊に刺されてテング熱(高温になるそうです)にかかって大変だったという話があって、東京の本社からは注意するようにとの通達があったのですが通達を出すのが仕事なのでしょうがないのですが、注意しろと言われても何をどう注意するのか分からなかったというのが正直なところでした。同じ頃だったと思いますが、誘拐事件に巻き込まれるのを防ぐために通勤経路を毎日変えろという指示があったのですが、ハノイの場合は安全なところで、毎日通勤経路を変えようにもそんなに経路はないという回答をしたような気がします。1990年代前半英国に駐在していたときは爆弾テロが頻発して東京から至急対応策を検討しろと言ってきたそうですが、総務担当の先輩の日本人が家でじっとしているわけにはいかないので対応策はないと回答したと聞いたことがあります。
  

Posted by tsukuma at 06:00Comments(0)

2012/07/17

King's Island(ゴルフ場)





ハノイ西部のドンモーというところにあった当時ハノイ唯一のゴルフ場です。車で1時間ぐらいの湖(実は川だと思い込んでいたのですがネットで改めて検索してみると湖のようです)の中にあり、湖に着くと海賊船のような船に乗ってゴルフ場に行っていました。タイ系のゴルフ場だったと記憶していますが、当初は9コースでしばらくして18コースになりました。実はメンバーになるときにJLCの東京とひと悶着あったのですが、もともと私はゴルフはやらず英国に駐在していたときに近所のゴルフ場で気楽にやっていた程度で道具も亡父が使っていたものを使用していましたが、日本ではやむ得ない理由で参加した2-3回を除いて行ったことはありませんでした。ハノイにバタバタで赴任した後、東京からあれこれ言ってきた中のひとつがゴルフ場のメンバーシップの購入でした。JLC名義ですが要は私の福利厚生で、だけど私はゴルフをやらないのに面倒だなと思いながらも前任者が稟議までとっていたので旧市街にあったゴルフ場の事務所まで行って1万ドルの会員券を購入しました。日本であれば会員になってもその他のフィーがいろいろあると思いますが、キャディーフィーを除いて一切発生しませんでした。既にメンバーだったY氏は私がメンバーになったのは当然知っているので、殆んど土曜日毎にゴルフに誘ってくるようになりました。2人事務所の辛いところで断るわけにも行きませんでした。客は殆んど日本人と韓国人でたまにその他の外国人がいるという感じでした。話したことは無かったのですが、行くと必ず日本人の老夫婦がプレーしていて、かなりの年齢だったのですが結局何処の誰だか分かりませんでした。コースは非常に荒削りな感じでゴルフ好きな人にはゴルフ場というよりも荒野に見えたかもしれません。また雨季の時には増水してゴルフ場が極端に小さくなりました。ひとつ収穫があったとすれば家内がハノイでゴルフを始めたことです。勿論ビジターとして料金は払うわけですが金額はよく覚えていませんがおそらく70-80ドルぐらいだったと思います。当時のベトナムではとんでもない金額ですが、それでも日本と比較すればかなり安かったと思います。家内がハノイにいたときはさすがにY氏も私を誘わなかったのですが、何故そうなったのか理由は覚えていませんがY氏と家内と私の3人でプレーしたことがあります。湖に到着前のゴルフ場の入り口では子供たちが大勢居て湖に落としたロストボールを安く売っていました。ロストボールを売っている子供たちより少し大きい少年たちがゴルフ場の周りで竹の船に乗ってロストボールを捜していました。何の変哲も無い竹の船だったのですが、音も無く進んでいたので少し不気味でした。日本では炉を漕ぐ音ぐらいはすると思うのですが。キャディーとして地元の女の子たち(女性たち)が大勢いました。ハノイからそんなに離れていないのですが見た感じからハノイの女性とかなり異なっていました。我々の感覚で言うと体つきは小柄な女子中学生の感じなのですが、年齢を聞くと皆22歳とか24歳とか言っていたので最初はびっくりしたものです。英語至上主義のY氏は、ここでも英語が出来るキャディを指名の条件にしていました。ゴルフ戦略を聞くんだとか言っていましたが、ゴルフの腕前は私より上だったのは間違いなかったのですが戦略を聞くほど上手くもなかったので、内心何を言っているのだと思いましたがもちろん口に出しては言いませんでした。ただ英語が出来るキャディーさんがレベルは別にしても必ずいたことも事実でした。一度、ハノイの大学を出て本業は学校で英語の教師をしているという人がY氏のキャディーだった事がありました。当時はこのゴルフ場がハノイで唯一のゴルフ場でしたが、今は日系も含めていくつかあるようです。ホーチミンには当時すでに数ヶ所のゴルフ場がありました。アパートに入居するときに大宇の韓国人のマネージャーが、大宇系のゴルフ場が西部の比較的近いところにオープンすると言っていましたが、詳しいことは分かりませんが土地収用でトラブルになりうまくいかず挫折したようです。ゴルフの関連施設といえば、アパートからそう遠くないランハと言うところに2階建てのゴルフの練習場がありましたが、おそらく韓国系だったと思います。たまに行っていましたが混んでいたという記憶はありません。当時はベトナム人がゴルフをするという話は聞いたことが無かったのですが、今ではかなりいるようです。
写真はGoogleの無料サイトのものですが、実際は崖が切り立っていたりしていたコースもありました。
  

Posted by tsukuma at 01:39Comments(0)

2012/07/16

市場





当時はいわゆるスーパーマーケットが非常に少なかったのですが、その代わり市内の至るとところに古い形態の市場がたくさんありました。また路上でも野菜・果物・花等を売っていて食料品を買うのには困りませんでした。もっとも単身だったので果物や花を買う程度で、木造の台の上に置いてあった肉の塊やタライの水に入っていた淡水魚にはちょっと手が出ませんでした。市場に行くと非常に強い特殊な臭いがしたのですがヤギの肉の臭いが原因だったようです。市場では売り手も客も殆んど女性で男性の姿はあまり見たことがありませんでした。初めてハノイを訪れた人は働いているのは女性だけだという印象を持つようです。私の家内がハノイに居たときに市場に行くと市場の女性たちからフランス式にマダム・マダムと呼びかけられるので気を良くしていましたが、一方、家内の知り合いのアメリカ人の独身の女性は、独身なのにマダムと呼ばれるとブツブツ言っていたそうです。普段は市場以外では私のベトナム語の発音は全く通じませんでしたが、市場ではお互いに「売りたい、買いたい」という目的がはっきりしていたせいか私のベトナム語での数字の発音も向こうは何となく分かったようです。国や地域によっては外国人には高く吹っかけるという話を聞いたことがありますが、私が経験した限りでは、ハノイの場合は極端なケースは無かったと思います。ちなみに英語至上主義者のY氏は、市場では英語が通じないから駄目だと言っていましたが、ベトナムは日本と同じで英語圏の国ではないので当たりまえだと思うのですが、私は内心「市場では言葉が通じなくても用は足りる」と思っていましたがさすがに口には出しませんでした。鶏は生きたまま売っていることがありましたが、一般家庭で鶏を絞めて調理することがあったようです。散歩していて一般家庭で鶏を絞めているところ見たことがありました。又、家内と一緒に近くの湖を散歩していたら、これは業者だと思いますが豚を捌いているのを見たことがあります。最初に数人の男性が豚と格闘していたのが見えたのですが、これは、さすがに最後まで見ることが出来ずにその場を避けて回り道をしました。早朝に起きて散歩していると、(西の郊外に住んでいたので)西の方角の農村地帯から中心部の市場に向かっておびただしい数の女性たちが自転車に乗って次から次に積みきれない程大量の農産物を運搬しているのを何度も見たことがあります。あのエネルギーには本当に圧倒されました。2004年に仕事で中国の海南島に行ったことがありますが、地図で見るとハノイとはかなりの至近距離にあり、市場の様子や女性の格好等はハノイとよく似ていたと思います。同行した中国人(上海の近くのアモイの出身で日本で仕事をしていた若い男性)が、自分が知っている中国とかなり違うと言っていました。

写真はハノイの旧市街にあるドンスアン市場だそうです。そういえば、当時ここにエスカレーターがありました。ベトナム語で市場は「Cho」だったと思います。・・・ Googleの無料写真サイトから
  

Posted by tsukuma at 04:16Comments(0)

2012/07/15

交通について







交通事故

交通事故はかなり頻繁に目撃しました。当時、交通事故の死亡者数はベトナムと日本とほぼ同数だったと記憶していますが、車両数や人口を計算に入れると実質ベトナムは日本の約10倍だったと言う人がいました。現在は、日本では交通事故による死亡者数はその後も減少傾向にあるようですが、一方経済成長を続けるベトナムでは年間1万人を越えているようです。市内ではスピードを出せなかったので大きな事故はあまり見たことはありませんでしたが、郊外に出るとかなりの確率で目撃しました。一度、郊外でバスとトラックが正面衝突をしてめちゃくちゃに破壊された2台の車両とも道路の下に転落していて、多数のけが人を救出している現場に遭遇したことがありました。その時はあまりの悲惨さに目をそむけてしまいました。市内では小さな事故は日常茶飯事でよくモーターバイク同士の事故がありました。事故の現場で運転手二人が大声でやり合っている周りを野次馬が多数取り囲み、その野次馬たちが結構口を挟んで何かを言っていました。「おまえが悪い」「いやあいつが悪い」とか言っていたのでしょうか? 当時はほとんどヘルメットを被っていませんでしたが、何度かの試行錯誤を経て現在は着用義務になったようです。テレビで見ている限り皆着用しているようでしたが?市内を走るバスはおそらく旧ソ連製だと思いますが、かなり古い装甲車のようなバスが多く走っていて屋根に多数の荷物を積んでいました。見るからに圧迫感があってとても乗る気はしませんでした。当時は、地方から出てきたバスの乗客の中には乗り物に乗り慣れていないので乗り物酔いをする人が多いと言う話を聞いたことがありますが、汚い話ですが、実際にバスの窓から顔を出してもどしている人をよく見かけました。そういえば、2010年12月にはこの種のバスはもう見かけなかったような気がします。

信号

私がハノイに住み始めた1997年2月には市内に信号は1カ所だけでした。その信号がどこにあったのかは思い出せないのですが、当時の記録を見ると少なくともオペラ座の前の交差点には信号は無かったようです(いまでも?)。それでも混乱しながらも交通は流れていました。日本人は明らかに車が来ていないときでも信号を守ろうとしますが、ハノイでは発想を変えないと住みづらいかもしれません。ハノイの道路の構造はパリによく似ているような気がします。文章でうまく表現出来ないのですが、たとえば主要道路に支線道路が斜めに交差している個所が随所にありますがあれはまさにフランス式ではと思います。バス停もパリのバス停に似ているような気がしました。またハノイの道路を注意して見ていると英国では至る所に無数にあるラウンドアバウト(ロータリー)が気がついただけでも何カ所かありました。たとえば大宇ホテルの前の交差点がそうでした。ラウンドアバウトは、英国ほどではないですがフランスやイタリアにもあり(但し、フランス語やイタリア語で何というか知りません)、ベトナムにはおそらくフランスから来たのではと思います。ただ、英国ではラウンドアバウトが実に秩序正しくうまく機能していますが、フランスやイタリアではかなりグチャグチャであまりうまく機能していないように見えます。おそらく、英国とフランスやイタリアとは国民性がかなり違うのではと思われます(注:違いを言っているのであって、良い悪いを言っているのではありません)。ハノイの場合はフランスより更に混雑していて収拾がつかないようにも見えました。夜遅くなると中心街も真っ暗になり車両もほとんど走っていなくて信号もない中を、我々の車だけが疾走していたのは何か懐かしい気がします。時々踏み切りをホーチミン行きの夜行列車が通過していましたが、当時はホーチミンまで36時間の旅だと聞いたような気がします。その後、ハノイでは信号の建設が進み、良いのか悪いのか分かりませんが、今ではかなりの数になっているようです。ネットを見ると、最近ハノイを訪れた日本人がハノイには信号が少ないという感想を多く漏らしていますが、昔に比べれば雲泥の差です。ついでですが、ラウンドアバウトは日本にはありませんがアメリカには都市によってはあるようです(ボストンとかワシントンその他)。但し、アメリカではサークルまたはロータリーと言う言い方をするようですが、アメリカ人に英国ではラウンドアバウトだと言ったらその言葉自体は初めて聞いたが語感としては理解出来るようです。
  

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2012/07/14

使い捨てカメラ





テレビを見ていたら、昔懐かしい使い捨てカメラが登場していました。昔は、私生活でも仕事でも結構重宝していて、海外出張の際はよく持参していました。ハノイに赴任した当時、使い捨てカメラで撮影したフイルムを現像してもらおうとして大変だったのを思い出しました。当時、ベトナムでは使い捨てカメラを販売していなくて、そもそも使い捨てカメラが何かを理解してもらうのが大変だった記憶があります。というのも、私自身が使い捨てカメラが何なのか知らなかったので、説明出来るわけがありませんでした。Ms.VやMr.Cを相手に、とにかくこれはフイルムそのものだという訳の分からない説明をした記憶があります。結局、Mr.Cが写真屋さんまで行ってくれて現像をしてもらいました。要は、フイルムなので写真屋さんであればどこでも現像できたと思います。2-3日してMr.Cが現像した写真をもらってきたのですが、困ったのは外側の蓋まで持って帰ってきて返してもらったことでした。今は、デジタルカメラの時代ですが、日本では一定の需要があるので使いカメラは今でも販売されているようです。ベトナム人特に若い女性はポーズを取って写真の被写体になるのが好きなようでした。ハノイで暇そうに散歩していたら、よく若い女性グループからシャッターを押してくれと頼まれました。頼まれた後私の顔をみてしまったという顔をするのですが、言葉は分からなくても写真を取ってくれと言っていることぐらい分かりました。皆、大げさなポーズを取っていました。ベトナムはこういう分野の進歩が早いようなのでもうデジカメしか使っていないのではないでしょうか?  

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2012/07/13

言語編







ベトナム語は難しすぎて私には無理です。

ベトナム語

せっかくベトナムに居るので少しはベトナム語を勉強しようと最初は人並みに思ったのですが、直ぐに挫折してしまいました。仕事が忙しくてそれどころではなかったということもあったのですが、ベトナム語は難しすぎるので挫折したというよりも、私の場合は入り口のところであきらめてしまったというのが正確なところです。先ず人の名前が通じません。秘書のMs.Vや運転手のMr.Cは私の発音を知っているので特別不都合は無かったのですが、例えば、外出先で用が済み受付で車のナンバーと運転手の名前を聞かれて車のナンバーを知らなかったので運転手のMr.Cの名前を言ってもこれが通じません。ベトナムでは北部地域のベトナム語の発音は6声で南部地域が5声らしいのですが、私はそもそも5声や6声ということがどういうことなのかが分かっていなかったわけで、従って、自己流で運転手のMr.Cの名前を色々と発音を変えて言ってみても全く通じませんでした。それからは運転手の名前と車のナンバーを書いた紙を持ち歩くことにしました。VCBのJVセクションの担当はMs. Ngaという名前でカタカナで書くと「ガ」とたった一字なのですが、ある日昼休みに電話したら本人が出てきて、本人が私の「Nga」の発音が理解できずにしばらくして私からの電話だと気がついて大笑いしたことがありました(ちなみにMs.Ngaは合弁会社設立後社員になります)。Mr.Cの友人の子供の5-6歳ぐらいの女の子を相手にして数字の1-10の練習をよくしたのですが、お世辞を一切言わないので先生としては最高でしたが、それでも少しは気を遣ってくれて最初は私の発音を明らかに我慢している表情で聞いていたのですが6(sau/サウ)になるともう我慢できないようで、何度も「6」の練習をさせられました。別の人にも言われたことがあったのですが私の数字の発音は全部おかしいのですが、特に「6」が駄目なようでした。当初はタクシーに乗る機会はあまり無かったのですが、たまに乗っても運転手が私の地名の発音を理解したことは1度もありませんでした。しょうがないので行き先を書いた紙をいつも準備していました。ほかにも同じような例はたくさんあったのですが、とにかく入り口のところで躓いてしまいすっかり勉学意欲をなくしてしまいました。中国語の素養があると全然違うらしいのですが、私の場合中国語は全く出来ません。ただ生活していると、変則アルファベットの文字は目に入ってくるので、いくつか覚えているものがあります。例えば「Kem=アイスクリーム」「Xe May=モーターバイク」「Cong Ty=会社」「Be Tac=行き止まり(これは記憶違いかもしれません)」。私はハノイ在住の日本人でベトナム語が出来る人を見たことが無かったのですが、日本の政党系の新聞社のハノイ特派員等ベトナム語が堪能な人が数名いたそうです。また、当時商社がベトナム語研修で若手をハノイの大学に派遣していたことがあったようです。ちなみに完全に余談ですが1998年にインドネシアのジャカルタに出張したときに日本人が結構インドネシア語を喋っているのを見て驚いたことがあります。インドネシア語は日本人には習得しやすい外国語らしいのですが、私はハノイの日本レストランで「エモイ」(自分より若い人を呼ぶときのチョットという意味だと理解していますが)と言うのが精一杯でした。もっとも日本レストランでは女性たちはびっくりするほど日本語が堪能でした。韓国レストランでも同じで皆韓国語が堪能だったそうです。

クオック・グー

辞書によれば「クオック・グーとは、ラテン文字を使用してベトナム語を表記する方法。アクセント符号を併用することにより、ベトナム語の6声調を表記し分ける。」と書いてあります。我々から見ると変則的なアルファベットですが、私の理解では約100年前に表記については漢字を止めて現在の方式にしたようです。もともと現在の方式になったのはフランスの影響だと思っていましたがいろいろな歴史的な経緯があったようで、正式には1945年のベトナム民主共和国の成立とともにベトナム人自身がクオック・グーをベトナム語の正式な表記文字として定めたようです。もともとベトナム文化は歴史的に漢字文化の影響を強く受けており、表記も漢字に置き換えることは可能だそうですが、現実問題としてベトナム人のほとんどの人は誰も漢字を読めません。ネットを見るとお年寄りには漢字を読める人がいると書いてある場合がありますが、合弁会社の最年長(私より10歳年長)の副社長は彼のおばあさんが使っていたということで簡単な漢字を少し書いてくれたことがありましたが、例えば「馬」という文字は漢字というよりも象形文字に近い文字でした。お寺に行くと漢字を見ることが多く、日本人には初めて見る漢字もかなりありますが何となく意味は分かります。山寺には「山神」、門には「中央門」「右門」「左門」等、見るだけで日本人にも直ぐに分かる漢字表記も結構ありました。変な話ですがお寺に行くと漢字についてベトナム人から何と書いてあるとよく聞かれました。現在でも日常生活に漢字が残っていることがあり、覚えているものでは例えば中秋の名月のときの「月餅」や、おめでたいときの「喜が3つか4つ」の文字がありました(これは実際にベトナム人からどう言う意味かと聞かれたことがありました)。日本人の感覚では日本語の文字から漢字が無くなったら読みにくいし思考方法に影響が出てくるような気がし、実際にハノイのカラオケで日本の歌の歌詞がひらがなだけというのがあってスムーズに読めませんでしたが、慣れの問題のような気もします。ベトナム語はおそらく日本語よりもかなり複雑で、表記については日本語と同列には論じられないような気がします。急に思い出したのですが、英国に駐在していたときに同じビルの韓国の銀行の20歳ぐらい年長(50歳代?)の支店長が、我々が読み終えた古い日経新聞をよく借りていたのですが、日本語は出来ないと言っていましたが日本の新聞は漢字が書いてあって韓国のハングルだけの新聞より読みやすいと言っていました。それから20年経過しているので韓国で今そういうことを言う人はもういないと思いますが。
  

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2012/07/13

合弁会社設立に向けて(当初)編




赴任当初の仕事は合弁会社設立に向けての交渉及び準備作業で、毎日忙しく働いていたのに具体的に何をしていたのかなかなか思い出せません。前にも書いたように、当初の仕事については自分の裁量でできる部分が少なかったので記憶に残りにくかったのかなと思います。

出資・マネージメント

資本金(Charter Capital・・・ベトナム英語です)は、40%はVCBでLTCBとJLCが各30%ずつでしたが、日本側が合計60%でマジョリティを構成するので当時では珍しいと言われていました。このため合弁契約では、マジョリティールールに関して結構もめたような記憶があります。最終的に重要事項の決定については75%即ち実質全員一致という日本式玉虫色の解決になったのではなかったかと思います。マネージメントは常勤として、社長1名、副社長2名、Chief Accountant(経理責任者)及びController(監査役)の5名で、非常勤取締役が双方各3-4名という構成でした。社長は当初3年間は日本側、次の3年間はベトナム側でその後も交代で就任するということが合弁契約に定められていました。具体的にはLTCBのY氏が初代社長に就任し、私とVCBから選任される人が副社長に、Chief Accountant及びControllerはVCBからということで決まっていました。1996年12月のSBVの仮ライセンスのときに付属書類として既に具体的な名簿を提出していましたが、日本側は前任者から私への変更、VCB側も1名変更があり、その名簿の差し替えだけで大変な作業だったと記憶しています。私の経歴書や卒業証明書を英語で準備していたのですがベトナム語への翻訳版も用意しなければならず、Ms.VがOfficial Translator(と言ったかどうか記憶が定かではありませんが)に依頼して作成してもらいました。ベトナム側は卒業証明書に関してはベトナム戦争の影響で原本が消失している場合があるのでその場合は免除ということだったと思います。実際、VCBの非常勤の取締役だったと思いますが1名該当者がいました。

Chief Accountant(経理責任者)

具体的な時期や目的は覚えていないのですが、1997年4月頃(とにかく暑い日でした)Chief Accountantに就任予定のMr.HがHITCビルの準備室にやってきたことがありました。彼が何か分厚い資料を持参してきてそれを見ながら話し合った記憶があります。Mr.Hは私が初めて会ったVCB側のマネージメントの一員で、年齢は私より10歳ほど若かったと思います。当日夜は中心部で待ち合わせて、彼が推薦した有名なベトナム料理レストランで食事をしました。このときはY氏は同席せずに二人だけでしたが何故Y氏が同席しなかったのか理由は覚えていません。Mr.Hとの会話の内容はほとんど覚えていないのですが、終始友好的に食事をしたことは覚えています。このレストランは現在も営業していて、2010年12月には娘と一緒に食事をしました。

業務マニュアル・契約書の作成

これらの業務に関しては日本で事前に何も聞いていなかったのですが、JLC即ち私の単独の責任範囲となっていてかなりの負担になりました。業務マニュアルについては前任者が準備したドラフトがありましたが、ベトナムのリース法の規定を反映させる必要があったこと、及び私の2年後輩の前任者がリースの実務知識に必ずしも精通していなかったこと(これは彼の責任ではなく、JLCのの国際業務に従事していた人全般にいえる事で要は入社以来クロスボーダーの国際業務の経験しかない人が多かったようです)からかなりの追加修正が必要でした。私は自分で言うのも変ですが珍しく両方の経験がありました。もちろん入社以来国際業務に従事していた人たちはその方面で皆優秀でした。特に航空機のチームは世界的なレベルだったと思われます。私は年齢的にも能力的にもとてもそのチームには近づけませんでした。話を元に戻しますが、Y氏からも、口だけは出す主義で、いろいろな注文があり結構大変でした。リース契約書については準備していたドラフトは実はJLCシンガポールの英文契約書をそのまま写したものだったそうで、これは大幅に修正しないと使いものになりませんでした。Y氏から長すぎるので短くするようにとの指示があり、そのこと自体に異議はなかったのですがベトナムのリース法の内容を盛り込む必要もあり、最終的にベトナム語版の作成が必要だったので、Y氏の了解を取りJLCの東京とも相談し、合弁契約の件で利用していた英国系の弁護士事務所に修正等を依頼することにしました。紆余曲折がありましたが後日何とか間に合いました。その紆余曲折については、弁護士費用も含めて結構いろいろあり不愉快な話もあったのですが、この種の仕事にはつきものだと割り切っていました。
  

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2012/07/09

すこし大げさですが「システム編」





パソコン

私が最も苦手とする分野のひとつがシステム関係ですが、概略だけ私なりに説明しておきます。HITCの準備室では、女性二人が各1台ずつパソコンを使用していましたが、ワープロ代わりに使っていたのではと思います。当時、日本ではE-mailを使って国内外との送受信は普通に行っていたし、インターネットも普通に使っていましたが、ベトナムではE-mailもまだ使う環境になかったようです。但し、韓国人の知り合いはE-mailを普通に使っていたと言っていたし、実際私が日本に一時帰国中にハノイの彼から日本の自宅宛にE-mailを貰った記憶があるので、私の理解・認識は間違っているかもしれません。ただ、一般的にメールを使って仕事を行うということはなく、通信手段は電話とFaxに限られていました。ちなみに今ネットで調べてみると、「契機となったのは1997年。この年、ベトナムに「ダイヤルアップ接続」、つまり電話回線やISDNなどの公衆回線を通じてインターネットに接続する方法が登場し、IT時代が幕開けた」との記載があり、まさにこのとき(1997年)にIT時代が始まったようです。印象に残っていることのひとつに、暑くなるとよくあった突然の停電の際のパソコンのバックアップシステムです。(文章でうまく表現できないのですが)停電と同時にパソコンのバックアップシステムが作動したのを見たことがあります。最近は日本でも人ごとではなくなりましたが、日本でも万一の場合ちゃんと作動するのでしょうか?2010年12月にハノイを再訪したときにはネットカフェらしきお店をいくつも見ました。もうITに関してはこの10数年でものすごい進歩をとげたようです。

携帯電話

1997年当時も携帯電話は使用できましたが、実際に保有している人は非常に少なかったと思います。固定電話も設置していない家が珍しくなかったと聞いたことがあり、実際に合弁会社を設立し社員名簿を作成した際に、社員は比較的裕福な家庭の人ばかりでしたが、それでも1-2名固定電話の番号が記載されていなかった人がいました(但し、記載されていなかった理由は確認していません)。私は当初携帯電話は持っていなかったのですが、雨季のときにアパートの周りが冠水して外に出られなくて固定電話も不通になり、アパートの韓国人に携帯電話を借りて連絡を取ったことがあり、それを契機にノキアの携帯電話を購入することにしました。当時は携帯電話のメーカーには興味はなかったのであまり認識していなかったのですが、ベトナムではノキアが圧倒的に強かったのではと思います。韓国人も当時はおそらくノキアの携帯を使っていたのではと思います。最近は世界の携帯の販売台数(か何か)で、サムスンがノキアを圧倒しているとのことで時代は変わったようです。但し、ベトナムでは今でもノキアが引き続き強いとい話を聞いています。ベトナムでは、その後携帯電話がものすごい勢いで普及して、2001年の段階では若い人だけでなくあの人がという人まで(最年長のベトナム人の副社長ですが)保有していました。ただ、2001年当時は携帯メールが使えなかったのではと思いますが。

ページング(Paging)

私と運転手のMr.Cとの間の通信手段として使っていた方式で、用語として正しいのかどうか分からないのですが、日本でいうポケットベルのことだと思いますが、日本ではポケットベルを使用したことがないので正確に同じかどうか分かりません。例えば、私がオペレーターに「Please come to ・・・」「Please call me・・・・」等のメッセージを電話で伝えると、そのメッセージがそのままMr.Cが持っている受信機に表示されてMr.Cが行動するというものです。連絡手段としては非常に便利でよく使いました。オペレーターはベトナム語と英語の両方あり、私は勿論英語のオペレーターに電話してメッセージを伝えていましたが、レストランでも何処でも英語が分からなくても「Paging」と一言言えばすぐに電話を貸してくれました。今では誰もが携帯電話を持っているので、もうこの方式は廃止されていると思いますが。
  

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2012/07/08

娯楽編(カラオケは半分仕事でした)





日本の歌

ハノイで思いがけず日本の歌を聞くことがありました。運転手のMr.Cが音楽が好きで運転しながらカセットテープを聴いていたのですが、ベトナム語の歌詞なのですがどこかで聴いたことがあるメロディが流れることがあり、Mr.Cに聞くとオリジナルは日本の歌だということでびっくりしたことが何回かあります。私が曲名を思い出すまでに少し時間がかかったので逆によく覚えているのが「ダンシング・オールナイト」という曲で、「もんたよしのり」という歌手が1980年に歌ったものですが、なぜかハノイで流行っていてカラオケでもベトナム語版がありました。五輪真弓さんの歌がアジア全域で人気があるのは有名な話ですが、ハノイでもものすごい人気がありカラオケ店でもベトナム語版が数曲用意されていましたし日本語版を歌うホステスさんも結構いました。当時ハノイの外国人用カラオケクラブのホステスさんたち全員が必ず日本語の歌詞で歌っていたのが元アリスの人の「昴」という曲で、日本人の駐在員や出張者が必ず歌っていたそうで、ホステスさんたちもこちらが頼みもしないのに我々が日本人だということで日本語の歌詞を、意味は分からなかったと思いますが、よく歌っていました。ハノイの中心街には一定間隔で街宣マイクがあり一日中何かを喋っていて内容は政治的なスローガンが多かったそうですが合間に音楽を流していて、ある日「女の・・」という「ピンカラ兄弟」の曲が突然流れてきてびっくりしたことがありました。もしかして、それが「ピンカラ兄弟」の曲だという認識があったのは私だけだったかもしれません。

カラオケ

新聞でハノイには5000軒のカラオケ店があるという記事を読んだことがありますが、確かに至る所にカラオケ店の看板がありました。とにかくベトナム人はカラオケが好きなようでした。外国人用(主に日本人、韓国人、台湾人用)のカラオケ店も数店あり、また韓国人専用のカラオケ店は多数あったようです。Y氏と行くのはナイトクラブに併設されていた外国人用のカラオケでしたが、前にも書いたように私はナイトクラブやカラオケは苦手でY氏と一緒のときは仕事と割り切っていました。日本語の歌は古くてよく知らない歌が多く選曲リストもよく分からない順番に並んでいました。韓国人の知り合いによると韓国語の歌も同じだったそうです。選曲リストにあった英語の歌はほとんど私が中学高校生のころに日本で流行った歌ばかりだったので、どうしても歌わなければいけないときは英語の歌を歌っていました。ベトナム人のホステスさんが英語の歌を歌うときは、英語の歌詞を見ながら、ベトナム人が英語をどう発音するのか勉強を兼ねて聴いていました。後日合弁会社が設立された後は、スタッフたちと普通のカラオケ店に何回か行ったことがあり、また運転手のMr.Cと英語が通じない彼の友人たちとは場末のカラオケ店によく行きました。このときは彼らのベトナム語の歌をビールを飲みながら聴いているだけでよかったので気が楽で楽しかったです。ところで、そこはベトナム人向けのカラオケ店なのにおかしな日本語の歌詞付の聞いたこともない曲が数曲あり、いったい誰が歌うのかと思ったのですが、そういえば、外国人向けカラオケの日本語の曲でも、例えば美空ひばりの歌を選曲すると画面に本人が登場してきたりしてびっくりしたことがあります。日本語の歌詞も少しおかしかったり、全てひらがなだったりしたので、おそらく日本以外で作っていたのではと思います。
  

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2012/07/07

ハノイのテレビ 1997年の話です。仕事には関係ありませんが






 地上波放送と衛星放送

地上派放送はチャンネルが1つか2つで、昼間は放送していませんでした。ニュース番組だけは画面だけ見ていて、他の番組も気が向けば画面を見ていました。コマーシャルは画面だけでも何となく分かったのでよく見ていました。そういえばサロンパスの「ひさみつ♫」というコマーシャルは今でも日本のテレビで流れていますが、当時のハノイのテレビでも同じ「ひさみつ♫」のメロディーが流れていて、町でベトナム人の子供が真似をして口ずさんでいたのを聞いたことがあります。ホテルやオフィスビルには大きなパラボラアンテナがあり衛星放送を見ることが出来ました。衛星放送のシステムがどうなっているのか個人的に全く知らないのですが、大宇アパートで見ていると世界中のかなりの衛星放送が視聴可能だったようで、中には何語かも分からない放送が結構ありました。当時日本の首相の発言が問題になったことがあるのですが、どのチャンネルを回してもその首相が登場していてほとんどの放送は言葉は分からないのですが、何を報道しているのかは何となく分かりました。もちろんNHKのアジア向け衛星放送も視聴可能で、朝の連続ドラマも2時間の時差の関係で朝起きたころちょうど放送していたので毎朝見ていました。Ms.Vによれば、ベトナム人の一般家庭では小さなアンテナの設置は可能でCNNと香港のスポーツ番組は視聴可能だった、とのことでした。

おしん

「おしん」が世界各国で放映され好評だったのはあまりにも有名ですが、ベトナムでも1990年代の半ばに放映され、ハノイの場合当事チャンネル数が1つか2つだったこともあり視聴率はほぼ100%だったそうです。家内が町を歩いていると皆が彼女を指さして「おしん」「おしん」と言うので外出を嫌がっていたことがありました。「おしん」マニアみたいなベトナム人が結構いて、日本人なので良く知っているだろうということで私にいろいろな質問をしてくる人がいたのですが、実は私は「おしん」のことは全く知らず対応に窮したことがありました。どこか心を打つ番組だったようです。この頃「おしん」役の子役だった小林綾子さんが当時大学生でベトナムを訪れたことがあり、大変な歓迎ぶりだったようで共産党の機関紙までが連日報道してまるで国賓並みだったという話を聞いたことがあります。ハノイには地方から出てきてお手伝いさんとして働いていた少女が大勢いましたが、彼女たちのことをお手伝いさんという意味でそのまま「おしん」と言っていました。

北の国から

先日地井武男さんが亡くなって思い出したのですが、私が初めて「北の国から」を見たのは日本ではなくハノイでした。ベトナムでは海外からの輸入ドラマは吹き替えが原則のようですが、登場人物の人数に拘わらず1人の人が全ての吹き替えをやっていました。またオリジナルの音声(この場合は日本語)が少し残っていて注意深く聞けば日本語のせりふを拾えたようです。番組の冒頭の音楽は聴いたことがあったのですが初めて見たので何の番組かが分からず、東京に電話したときに登場人物や舞台設定を話したら応対した女性が「北の国から」ではないかということでしたが家内がハノイに来たときにやっと確認が取れました。彼女は「北の国から」の大フアンであったことをそのとき初めて知りました。番組には私より1つ年下で同世代の女優の竹下景子さんが登場していたのですが、明らかに20歳代の彼女で相当に古いフイルムのようでした。Ms.LやMs.Vも竹下景子さんを見て日本人女性に見えないと言っていましたが、私から見ても明らかに化粧が当時と異なり違和感がありました。たまに番組を見たときはセリフが理解できないので画面を見て勝手に内容を想像し翌日事務所でMs.Vに大筋を確認することもありましたが、私の想像はほとんど違っていました。当時は、他にも日本の番組を放映していましたが個人的には印象に残っているものはなく番組名も思い出せません。現在は、ベトナムのテレビは韓国の番組が圧倒していて、日本の番組は放映されていないと聞きました。上記のとおりベトナムでは輸入モノのセリフは吹き替えが原則でしたが、英国では全く逆で字幕が原則でした。小津安二郎監督の白黒の日本映画をよく放映していて、古くてゆったりと話す東京弁のオリジナルの音声でよく見ていました。
  

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2012/07/06

一時帰国でハノイと東京を往復





一時帰国

忙しくしているうちに2月と3月があっという間に過ぎて、合弁契約書のドラフトの何回目かのコメントを相手に送ったところで、とにかくバタバタで赴任したのでやり残していたことや最低限の引越しの荷物をまとめる必要もあり、1週間一時帰国をすることにしました。パスポートを見ると4月2日に一時帰国をしているようです。2ヶ月ほど前に初めてベトナムに来たときはホーチミン経由でしたが、帰国便は通常のルートである香港経由の便でした。ハノイと香港間は2時間弱ぐらいであっという間に到着するのですが、当時の香港は中国返還を7月1日に控えていて翌年新空港が完成という状況でしたが、このときはまだ啓徳空港を使用していました。啓徳空港へ着陸する直前に市街地のすぐ真上(本当に人が生活しているのが見えました)から右か左かどちらかは忘れましたが急旋回するので毎回分かってはいるのですが心臓に悪い空港でした。ハノイから初めて香港に行ったときはとにかく空から見える高層ビル群に圧倒されました。ただ個人的にはハノイは将来的にも香港のように高層ビルが林立する都市にはなって欲しくないと思っていましたが、最近はかなり高層ビルが増えているようです。日本では1週間何をしていたのか殆ど記憶がありません。おそらく会社に行って最低限の報告をして、最低限の引越し荷物をまとめ、市役所に行って転出届等を行ったのだと思います。海外への転出届けを出せば日本に居ない間の住民税の支払いは免除されます。
 
再びハノイへ

1週間の一時帰国が終わり香港経由でハノイに向かいました。家内がちょうどそれまでの仕事を辞めて次の仕事を探すところで時間もあったので、3週間の予定でハノイに同行することになりました。成田発10:00の飛行機に乗り啓徳空港で1-2時間のトランジットの後ノイバイ空港に16:00に到着だったと記憶しているので、日本/香港/ベトナムはそれぞれ1時間の時差があることを考えると結構な長旅でした。それにしても啓徳空港は頭が痛くなるほど騒々しい空港で、いたるところで皆びっくりほど大きな声で広東語を喋っていました。このときは、香港からの飛行機が信じられないほど揺れて家内の気分が悪かったのでもう大変でした。後日のことですが、ノイバイ空港の税関を最後に出るときにX線検査があったのは前に記載したとおりですが、お酒とかタバコその他は持ち込み制限があり制限を超えると関税が課せられるのは他の国と同じですが、ハノイの税関はこの点に関しては、意図は分からないのですが見ていないという話を複数の人から聞いたことがあり、手荷物として制限を越えたお酒やタバコをわざと目立つようにして税関で検査を受けたのですが確かに何も言われませんでした。

ベトナム航空(ハノイ・香港間)

ハノイと日本との間を行き来するためには必ずこの便に乗るわけですが、機体はベトナム航空のエアバス機を使用しキャセイパシフィック航空との共同運航になっていました。当時は、ハノイを朝9時ごろに出る便と同じ機体で香港から午後2時(香港時間)ごろ出発してハノイに帰る便しかなかったと思います。従ってこの便に乗れないと当日はアウトで、成田から香港まで乗ったJAL便が遅れてこのハノイ便に間に合わなかったことがあるという話を聞いていたので、成田・香港間は乗り継ぎの便宜を図っていたキャセイパシフィック航空を利用していました。ハノイから香港便に乗るときの航空券の記載事項は全てマジックペンでの手書きでした。搭乗すると機内に何時も白い気体が充満していて冷たかったのでおそらく冷房の機器から出ていたのではと思いますが、他で見たことがなかったので何だろうと不思議に思っていました。日本に帰任後ですが、テレビで北朝鮮に関する報道番組で日本人の記者が北京からピョンヤン行きの飛行機に乗ったときのテレビ画面に同じような白い気体が充満していて、その記者もこの気体はいったいなんだろうと言っていました。私が個人的に経験していないだけでよくある白い気体かもしれませんが?
 
突貫道路工事
 
大宇ホテル前の交差点から中心部に向かう道路の脇に海外の各国外交団の宿舎が建っているやや広い地区がありました。口の悪い日本人の中には保護という名の下に1箇所に集めて監視しているのだという人もいましたが、警官が警備をしていたような気もしますがその地区には自由に出入り出来たと記憶しているので極端な保護とか監視ということではなかったと思います。その地区に居住者の外交官向けの商店があり、私はパック入りの豆腐をよく買っていました。当時パック入りの豆腐は、私が知る限りでは、ここだけで販売していました。豆腐は私の耳にはベトナム語でも「とうふ」と聞こえるのですが、勿論私が発音してもベトナム人には全く通じませんでした。ところで、問題は交差点から中心部に向かう数百メートルの道路ですが、3月の時点では舗装されていなかった狭い道路を挟んで古い住宅が無秩序に建っていて人も住んでいたのですが、4月になって突然居住者が立ち退き、家を取り壊し、片側3-4車線の立派な舗装道路をわずか3週間で完成させました。何故3週間という期間を覚えているかというと、家内がハノイに来て工事を始め3週間後には帰国するために完成した道路を通ってノイバイ空港に向かったからです。立ち退きについては事前に話しはついていたとは思いますが、それにしても日本ではとてもあり得ないあまりのスピードの速さにただただ驚きました。日本では3ヶ月でもとても無理です。家内に確認したところ、この件はよく覚えていて彼女がハノイに到着したときにはまだ人が住んでいて、とにかく建物の壊し方が尋常ではなく激しかったそうで、埃や粉塵がすごくて日中はとてもアパートの窓を開けられなかったそうです。  

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