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2013/06/29
1999年7月~2000年3月 東京 ハワイ



1999年7月ごろだったと思いますが、ただでさえ忙しいのにハワイのゴルフ場向けローン案件の処理が新たに担当案件として加わりました。もともとJLC国内の不動産部隊が日本人社会の中で手がけて不良債権になっていたものが、更生会社の不動産チームに移管されて、不良債権ということで英語の世界になってしまうので、再度国際部に移管されたものです。それまでは日本人の弁護士が間に入って膨大な英語の契約書や裁判書類の翻訳等も作成されていてよく出来た翻訳ではありましたが、それでも翻訳は翻訳なのでオリジナルの英語版を見ざるを得ず、膨大な翻訳は時間とお金の無駄だったかもしれません。この案件はある有名な日本のリゾート会社が手掛けたものですが、ゴルフ場の開発許可が完全ではなくオープン出来ずにいました。 ちなみにLTCBも実に深く絡んでいました。LTCBは、本件だけではなく、このリゾート会社に対して信じられないないほど多額のエクスポージャーがあり、LTCBが破たんした原因の一つと言われていました。とにかく私が担当になった時はこの案件は一言で言って「ぐちゃぐちゃ」で、案件の出口としては担保物件のゴルフ場の処分に決まっていたのですが、ハワイと日本で訴訟合戦になっていてもうどこから手をつけていいのか分からない状況でした。この時期LTCBは一時国有化されていて我々と同じような状況でしたが、私の印象では我々以上に当事者能力がなく、多くの優秀な人材が流失していたせいもあったと思いますが、本件でLTCBとミーティングを持っても、大勢出席するだが一体誰が中心人物かもよく分からず、もう時効なのでぶっちゃけて言ってしまうと「雁首ばかり揃え」「口先だけ達者で実は何もしようとしない」のでミーティングをしても時間の無駄というのが正直な感想でした。ということでこちらが主体的に動かざるを得ない状況でした。この時期、管財人代理みたいな立場で国際部を管掌するH氏が更生会社に加わり私もH氏と一緒に本件の処理をすることになります。H氏は当初は経歴もよく分からなかったのですが、とにかく驚くほど英語が読み書きも含めて達者な老人(20歳年長)でしたが、よく聞いてみると元某石油メジャーの日本法人社長という経歴で管財人と旧知の間柄ということだったようです。英語力だけでなく色々な方面に卓越した能力を有していることはすぐに分かりました。本当はレベルが違いすぎて仲良くお付き合できるような間柄ではなかったのかもしれませんが、私は本件も含め多くの仕事を彼と一緒に行いずいぶんと懇意にさせてもらいました。ところでリゾート会社の社長は当時民事刑事の多くの裁判の被告人という立場だったと思いますが、マスコミでは結構有名で私も初めて会う時はかなり緊張したのですが(実はH氏もそうだったと後で言っていました)、会ってみると年下の私に対しても紳士的でマスコミを通じて私が持っていたイメージとかなり違うなというのが私個人の正直な印象でしたが、ただ実務的な細かい話は苦手なようでした。H氏によれば社長は老人キラーだということを言っていました。あれほど深くLTCBに食い込んだのでそうだったのかもしれません。仕事の分担としては、大まかな方針は政治的な話も含めH氏が担当し、私は実務面を担当していました。少し話が脱線しますが、実は日本には他にも本件に係る当事者が数人いましたが、H氏もこの社長も含め私以外は慶応大学出身(H氏は中学から大学まで、社長は小学校から大学まで慶応だったそうです)で、敵味方にかかわらず“慶応”という共通の基盤を部外者である私が感じたのは一度や二度ではなかったような気がします。“慶応”が本件解決の手助けになったと言っても過言ではなかったと思います。こうして数カ月はかかりましたが、本件は解決に向かうことになりゴルフ場は開発許可が不完全なまま売却されることになりました。数か月かかったとは言えむしろ短い期間だったかもしれません。今でもH氏がいなければあれほど短期間で処理できなかったと思っています。
2000年3月 ハワイ
本件の最終処理としてハワイで契約書のドキュメンテーションミーティングが行われ、管財人団の若手弁護士と一緒に参加しました。当時ハワイはリゾート関連資産の不良債権の山でその多くは日系の企業が絡んでいました。特に日本の某大手商社と某信託銀行は現地でも有名で知らぬ者はいなかったという状況でした。1979年の新婚旅行以来のハワイでしたがもちろん思い出に浸っている時間はありませんでした。ホテルはワイキキにありましたが、車で30分ぐらい(だったと思いますが)のところに弁護士事務所等があるオフィス街があり、もっぱらそこで過ごしました。ハワイには朝着いて直ぐに我々の弁護士事務所で打ち合わせをした記憶があります。ドキュメンテーションミーティングはおそらく翌日から2-3日間だったと思いますが、日本の当事者(JLC、LTCB、債務者、保証人、買主等)の代理人のアメリカ人の弁護士たちだけでなく、ハワイ州やホノルル市の弁護士も開発許可や滞納税金の関係で参加していて、もう訳が分からないというのが正直なところでした。最近は電子メール等が発達しているのでああいうドキュメンテーションミーティングはもうやらないようです。 こちらもかなり勉強して行ったつもりでしたがアメリカ人の弁護士同士の英語の交渉にはなかなかついていけず、法律面は弁護士に任せておけばいいのですが、ときどきコマーシャルに係る部分は我々だけ別室に入り弁護士から説明を聞いて結論を出してミーティングに戻るのでかなり時間がかかりました。H氏からは白紙委任状に近いものをもらってハワイ入りしましたが、そうは言っても日本では考えもしなかった問題が出てきたりして時差を利用してH氏への報告等も必要でした。実は現地で分かったのですが債務者であるリゾート会社がハワイの弁護士に対して多額の料金を滞納しており、取り下げる予定の訴訟をそのハワイの弁護士が取り下げないと言い出したりして、いろいろとあったのですがなんとか完了しました。空いた時間を利用して、ハワイの弁護士が問題のゴルフ場やランチ・ディナーのレストランに連れて行ってくれましたが、結局ハワイらしい思い出はありません。更生会社の出張だったのでしょうがないですが。リゾート会社の社長は会う時は何時も不健康そうな顔をしていましたが2005年に59歳で亡くなりました。新聞で病死のニュースを知りH氏にはメールで知らせたところ、H氏も新聞で読んだようで既にご存じでやはりショックを受けていたようです。一時はマスコミの寵児のようにもてはやされていましたが晩年(と言うほどの年齢ではなかったのですが)は大変だったようです。
Posted by tsukuma at
01:26
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2013/06/22
会社更生業務(1)



1999年3月 英国ロンドン
1999年の3月にロンドンに出張しました。昔勤務していた英国法人の事務所に行ったところ書類やダンボールが山のように積まれていて、ただでさえ暗いのに更に暗い状況の中で前からいたスリランカ人の総務部長が書類の山に埋もれて残務整理をやっていました。もう1人イギリス人の営業部長もいた筈ですが、この時は会えなかったのではと思います(1年後に会いました)。会計士である管財人からはかなり長時間にわたりヒアリングを受け時差ボケもありクタクタになった記憶があります。通常の整理業務に加え、ある不動産担保権を巡り英国法人(すなわち管財人)が某邦銀ロンドン支店を相手に訴訟を提起した結果裁判所で争われることになり、その案件についてかなり突っ込んで聞かれた記憶があります。私自身はその不動産案件の組成には担当者として関わったので案件自体は了解していましたが、それを巡る資金の関係は全く知らずあまり役には立たなかったのではと思いますが、1999年の前半はその件でかなり忙殺されることになりました。
1999年4月 アメリカ・アリゾナ州フェニックス
アメリカ法人については先輩の担当者がニューヨークに1人残って私的整理を進めていましたが、西海岸にもかなりローン資産があり、この中のフェニックスの郊外のゴルフ場は担保だったものを取得してオーナーになっていましたが、処分か何かに係るドキュメンテーションがあり、先輩がニューヨークから現地入りするのに合わせて、いろいろあり私も東京から行かざるを得なくなりました。フェニックスは同じゴルフ場の件でその数年前にも一度訪れたことがありました。サンフランシスコで乗り換えたのですが、空から見ると全米何番目かの大都市であるフェニックスが砂漠の中にあるのがよく分かり、よくこんなところに大きな街を作ったなと関心したものでした。先輩がニューヨークから来るよりも私が1日早く着いたのですがホテルの周りは砂漠で外出も出来ず1日中ボーッとしていた記憶があります。とにかくあとは弁護士事務所とコンサルタント会社の事務所で過ごしたことしか思い出せません。最後は先輩が運転するレンタカーでサボテンが生えている砂漠に出かけ東京の状況をいろいろ聞かれました。サボテンしか生えていない砂漠の中にはところどころに小さな集落がありました。住めば都といいますが私はあそこには住めないと思いました。
1999年5月~6月ごろ
英国法人の管財人が弁護士を連れて来日。目的は某邦銀ロンドン支店との訴訟の証拠として当時JLCの財務担当役員を初めとする数名との面談。面談対象の数名は、既に解任されていた担当役員を除き、全員が新設会社に所属だったと思います。書類つくりも含め準備にかなりの時間を費やしましたが、当然面談内容は裁判の証拠となることは対象者に事前に言ったわけですが、これを巡り日本の管財人団も含めかなりもめました。私は板ばさみになって散々文句を言われて、今にして思えば私の方が切れていればよかったのかもしれませんが、とにかく何とか面談までこぎつけました。面談は当然通訳を通じて行われ私も同席しましたが、私も初めて聞くことばかりで内心驚きの連続でした。当日の夜は英国人たちと有楽町のガード下で一杯やった記憶があります。翌日からは時間を見つけては面談のテープを聴きながら英語の部分を一生懸命日本語にする作業をしていました。当然ながら100%分からずに何度も聞いて大変な作業でしたが、何故そんなことをしたのか思い出せません。おそらく日本の更生管財人団の指示だったと思いますが。英国の管財人と弁護士はもう一度その年の秋ごろに来日しました。そのときは別の人物に対するヒアリングで1人はロンドン現法の財務担当者だった人物だったと思いますが、その他2-3人いたと思いますが思い出せません。英国人の管財人と弁護士はその2年前に破綻した日本の証券会社のロンドン現法の整理も担当していたようでその件もあったようです。
Posted by tsukuma at
05:09
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2013/06/15
1998年10月~1999年3月 第1回目の資産譲渡



会社更生法の問題だったと思いますが、暫くの間(1-2週間?)外部に対して全く動けない何も喋れない準備期間みたいなものがありました。終業時間後に年配者に誘われるまま居酒屋に行くと年配の社員が大勢集まっていて、何の解決にもならない愚痴や不平不満のオンパレードでした。そんなことよりも私にとって最も重要なのは家族でした。家族には迷惑はかけられなかったわけですが、私自身は何の根拠もなく漠然と何とかなると思っていたようで、不思議と平静だったような気がします。
準備期間が過ぎると今度は猛烈に忙しくなりました。我々のレベルでの更生業務は主に2つあり①資産の査定②業務の継続のための裁判所の許可取得で、それらの業務に忙殺されました。8月にジャカルタの裁判所に提起した訴訟については管財人団とも相談の結果訴訟は取り下げることにしました。ちなみにジャカルタの弁護士に電話したところJLCの会社更生法申立の件は十分了解していて、大袈裟に言えば申立のニュースが世界中を駆け巡ったようです。とにかく会社が元気なときには起こり得ない法律問題が毎日のように発生しその対応に追われていました。一つ収穫だったのは、殆どの社員の士気は衰えることなく更生業務は猛烈な勢いで進み、私は今でもあの時の社員の団結力は賞賛に値すると思っています。
会社更生申立からまだそれ程時間が経過していない頃に早くも米国メーカー系金融会社がスポンサーとして現れ、リース資産と人員(7-8百名?)を新設会社に譲渡する話が出てきます。あまりの手際の良さに、社内の中には会社更生申立を含めて一部の役員と社員が画策した出来レースではないかという批判がありました。私には真偽のほどは分かりませんが、出来レースでも何でもとにかく解決に向けて行動することが大事だったのではと思います。この資産譲渡を前提に全社員に対して希望を取ることになり管財人から面談を受けた記憶があります。選択肢は①リース資産を譲り受ける新設会社に移籍する②自動車等の子会社関連会社等に転籍する③このまま更生会社に残る、等だったと思います。私はあまり迷わずに③を選択しました。その時担当していた不良債権は譲渡資産に含まれずに更生会社に残ること、また長く担当していた国際関連資産・業務の整理も引き続き更生会社に残るので、個人的にはそちらの業務を行うことを優先したということでしょうか?年齢的にも50歳目前で、平均年齢が比較的若かった新設会社移籍組の仲間に入ることに若干躊躇したこともあったかもしれません。直感的に急いで結論を出さないようにしようと思ったこともありました。全員が希望どおりになったわけではありませんが、こうしてリース資産と社員の殆どは米国メーカー系金融会社が設立した新設会社への譲渡・転籍が行われました。記憶ではこの譲渡・転籍は1999年早々に行われ、新設会社と更生会社は銀座1丁目のビルで暫く同居することになりました。ついこの間まで同じ会社で働いていたわけですが、チャイニーズウォールみたいなものが引かれ、何か妙な感じだったような記憶があります。ところで私自身はこの分離とほとんど同時だったと思いますが更生会社の国際部に再び(?)配属されることになりました。JLCの国際部や営業部等は大幅に縮小されたわけですが、整理すべき海外拠点はまだ残っており、本社にブッキングしていた海外資産もまだほとんど全て残っていました。一方、国際関連業務を行っていた社員は新設会社に移籍した者も多く、外部への転職者もかなりいて人員が減ってしまったという背景があったようです。こうして私は昔担当していた欧州地区の拠点・資産の整理を行うことになりました。また米国の会社についてもニューヨークに1人残っていた整理担当者のサポートを行うことになりました。事務所については、1999年3月か4月頃に更生会社が有楽町駅前の新有楽町ビルに移転することで同居が解消されました。新有楽町ビルはJLCが1990年代半ばに銀座1丁目の自社ビル(詳しいことは知りませんが何かいわくつきの土地・建物だったようです)に移転するまで本社があり、私にとっては懐かしい場所でした。ハノイの合弁会社の件は嫌でも耳に入ってきましたが聞こえないふりをしていました。設立に関わったものとして非常に辛い話でした。
こうして国際関連の更生業務を行うことになりましたが、私が1999年に担当した業務は①欧州の会社の整理②米国の会社の整理のサポート③(後から出てきたのですが)米国ハワイのゴルフ場関連ローン資産の整理等だったと思います。欧州の会社については英国・ロンドンに4社とイタリア・ミラノにその中の1社のイタリア現法があり、当時4大会計事務所の一つが英国とイタリアで管財人として破産法に基づく法的整理を進めていました。その他にオランダのペーパー会社があり、これも結構複雑でしたが、こちらは法的整理ではなく私的整理を行っていました。当初は、朝出社すると英国・ロンドンとイタリア・ミラノの会計事務所からはものすごい量の問い合わせがメールやFaxで届いていて、懸命に返事を準備してその日の夕方(欧州の朝)までに返信するという毎日が暫く続いた記憶があります。それに対応するだけでも相当に忙しい毎日でした。当時、日本国内では会社更生法の申立で社員や資産等は保護されることになりましたが、海外では全く逆で、特に英国法系の国では一時大変な状況になったようでした。こういった状況の中で、銀行からの出向の海外拠点長の中には会社更生の申し立ての前後に信じられない行動を取った人たちがいたようで、今でも思い出すと残念というか腹立たしくなります。
Posted by tsukuma at
04:54
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2013/06/09
1998年9月27日(日曜日) JLCの会社更生法申立



ついに9月27日を迎えます。このころになるとLTCBとJLCの件が政治問題化していて、もう破綻しかないだろうという覚悟みたいな確信みたいなものがあったような気がします。申立書の提出は休日・夜間でも可能なようで、当日は日曜日でしたが夜のテレビの画面に「JLC会社更生法申立」とのテロップが流れ、直後に会社からその旨の電話連絡があったと思います。翌日銀座1丁目にあった本社ビルに出勤すると、報道陣が群がっていて大変な状況になっていました。正面玄関からはとても入れる状況ではなく、地下の地下鉄との連絡口から入ったのではないかと思います。本社の社員一同が大きな会議室に集められC副社長(前日に解任されていたので正確に言うと元副社長)から会社更生に至るまでの経過説明と社員に対する謝罪の気持ちを涙ながらに伝えていました。社員の一部からは非難めいた声も上がりましたが、C元副社長はハノイの合弁会社の非常勤役員として約1年前にハノイに出張して来て2-3日行動を共にしたこともあり人柄も何となく分かっていたので、私は非常に複雑な気持ちだったことを覚えています。JLCが会社更生に至った原因はいろいろあったと思いますが、最大の原因は不動産に傾斜しすぎたということのようです。新聞等にはLTCBの不動産別働隊というような記事を多く見かけましたが、私がその正確な意味を(少しだけですが)理解したのは更生業務として不動産案件の処理を通じてのことでした。最後はLTCBもJLCも殆んど運命共同体のようになっていたようです。大雑把な数字ではありますが、会社更生申立時のJLCの負債総額は約2兆円で、資産の内訳は約1兆円がリース資産で残り1兆円が不動産その他海外向け資産(海外現法の数字は含まず)であったようですが、不動産資産についてはかなりの不良資産が含まれていたようです。当時戦後最大の倒産と形容されました。
会社更生申立と同時に管財人として弁護士のO氏やS氏が選任され、その他両弁護士事務所の大勢の弁護士が管財人補佐として会社に乗り込んできました。当日だったと思いますが管財人のO弁護士が社員を集めた会議室で椅子か何かの上に立って皆さんこれからがんばりましょうという決意表明みたいなものがあったと思います。会社更生法は債権債務を整理してスポンサーを見つけて会社の再生を図るものですが、JLCのような業種には従来の会社更生法は不向きと言われ、そのせいか当初から清算型会社更生としてスポンサーに資産と社員を営業譲渡するという方法が考えられていたようで、その後の大きな動きとしては、1999年初めにリース部門の資産と人員(約7-8百名?)を米国メーカー系金融会社に、2000年初めに残りの不動産等の資産と人員(約1-2百名?)を米国自動車会社系金融会社に譲渡し、主に譲渡代金を原資として債権者向け配当を行いJLCは清算という形をとったようです。
LTCBは翌10月に破綻申請を行い特別危機管理銀行として一時国有化され公的管理されることになりました。
9月27日は個人的には結婚記念日でもあり毎年嫌でもこの時のことを思い出してしまいます。
Posted by tsukuma at
05:01
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2013/06/08
韓国・ソウル(2) 大分県国東町(現在国東市)




1998年8月 韓国・ソウル(2)
ソウルまで約5時間の列車の旅だったと思いますが、ソウル駅から予約していた安いホテルまで歩いて行き、部屋に落ち着いたところでテレビを付けたら日本のNHKの衛星放送で国会中継をやっていました。どこかで見たことがある人が証人喚問を受けていたと思ったらなんとJLCの社長で本当に驚きました。ソウルに来てまでそんなものは見たくないのでテレビは直ぐに消しました(まさにテレビをつけた瞬間にJLCの社長の顔がクローズアップされました。)ソウルでは特に何処に行くと決めていたわけではなかったので気ままに地下鉄に乗ってあちらこちらをウロウロしました。夜は市場の屋台で一杯やっていました。屋台で日本人が1人というのは珍しかったようで、屋台のおばさん達からいろいろ話かけられました。よく覚えていないのですがおそらく日本語で話しかけられたのだと思います。そういえば韓国語が出来ない若い韓国系米国人から英語で道を聞かれ私も分からないので一緒に行ったり、中心部のお寺に行ったら老人たちが大勢いて、昔風のものすごく流暢な東京弁で話しかけてきた東京で生まれ育ったという老人もいたりしました。ソウルの小学校らしき学校に何故か古めかしそうな二宮尊徳の像があり日本でもあまり見たことがなかったのでびっくりもしました。当時韓国はIMF管理に入って1年も経過していなかった頃ですが、少なくとも旅行者の立場からはIMF管理を感じさせられるものはありませんでした。唯一板門店には個人では行けないので日本語のツアーに参加しました。ソウルから板門店まではそんなに距離はなくおそらく50-60kmぐらいであまりの近さに驚きました。板門店ではテレビ等でよく見る会議場がある小さな建物やすぐ近くにいる北朝鮮の監視兵にとにかく不気味な印象を持ちました。帰りは同じ経路でしたが下関から福岡の実家に立ち寄り1泊か2泊した記憶があります。この時期JLCではいろいろ大変なことが起こったようですが、私はもうすっかり割り切っていました。




1998年9月 大分県国東町(現在国東市)
1ヶ月間の休暇を終え9月半ばに出社しましたが、とにかく出社してすぐだったと思いますが、長いこと会う機会がなかった母方の祖母が90歳半ばで亡くなったという連絡があり、母親の実家がある大分県国東町で行われた葬儀に参列しました。母親の実家の宗教が日蓮宗だということをその時初めて知ったのですが、日蓮宗の独特のスタイルが印象に残っています。祖母は天寿を全うして亡くなったので孫として特別に悲しいという思いはなかったのですが、祖母の友人らしき超高齢の方が2-3名参列されていて号泣していました。葬儀の後は大分県日田市の家内の実家まで挨拶に行ったような気がします。日田市に行くためには、途中大分空港、別府市、大分市等を通過しますが、大分空港からバスに乗り込んできた東京方面からの社内旅行風の団体は別府で下車するまで、バスの中でずっとLTCBやJLCの話をしていてもう駄目だろうというようなことを大きな声で盛んに言っていました。 それを聞きながら、しかし不思議なことに私はまるでそれを他人事のように聞いていたような気がします。当時のカレンダーを見ると9月23日(水)が秋分の日の祝日でおそらくその日に東京に戻ったのではないかと思います。
Posted by tsukuma at
03:34
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2013/06/07
1998年8月 韓国・ソウル(1)



北海道から戻ってきて今度は1人で韓国に行きました。昔から是非一度夜行便の関釜フェリーに乗ってみたいと思っていました。当時、(新幹線)東京⇒下関 (関釜フェリー)下関⇒釜山 (特急セマウル号)釜山⇒ソウルの日韓共同統一切符を購入できました。不思議なことに、こちらの料金の方が東京⇒博多の新幹線料金よりも安く設定されていました。単純に言えば下関⇒博多の新幹線料金(約30-40分 現在の料金約3千円)よりも下関⇒釜山⇒ソウルの方が安いわけで妙な感じでした。ゆったりとフェリーで韓国に向かうというのはプライベートでしか経験できないので、当日の夕方に下関で関釜フェリーに乗り込んだときは久しぶりに興奮で胸が躍ったのを覚えています。船内は広い畳を敷いたスペースがいくつかあり、船客が勝手に自分のスペースを選べるようでした。私の近くでは、大量の荷物を持っていたおばさん(おばあさん)達が北九州弁で楽しそうに宴会をしていました。北九州と釜山との間で荷物を運んで商売をしているようでした。北九州弁は九州の方言の中では比較的分かり易い言葉ですが、私は中学生のころに北九州市に住んでいて自分ではうまく喋れないのですが、聞いていると何か懐かしい感じがしました。おばさん達の中には少し酔っ払った勢いで私にも「お兄さん飲みんしゃい」言ってワンカップを薦めてくれる人もいました。翌朝は目が覚めたときはもう釜山沖に到着していて、早朝なので港の職員が出勤してくるまでの間の時間調整をしているようでした。驚いたことに昨晩北九州弁で宴会をしていたおばさん(おばあさん)達がこんどは韓国語(おそらく釜山の方言か?)を喋りながら朝食を取っていて、一晩で頭の中が日本語(北九州弁)から韓国語(釜山弁?)の世界に移動したようでした。釜山港では入国審査・税関で韓国人と外国人(殆んど日本人)とは別々の列に並びましたが、韓国人の列に並んでいたおばさん(おばあさん)達は今度は若い税関職員相手に再度北九州弁でまくし立てていて(それもかなり分かり難い北九州弁)若い税関職員はきれいな日本語の標準語で対応していましたが、あの北九州弁はおそらく全部は分からないだろうなと思いながら、私はとにかくおかしくてしょうがなくて必死で笑いを堪えていた記憶があります。釜山港からは地図を見るとそれ程距離はなかったのですが、面倒だったのでタクシーで釜山駅まで行ったのですが、タクシーの運転手が韓国語と身振り手振りで「集中豪雨で鉄道網は切断されているソウルに行くなら飛行機で行け」と親切に説明してくれて言葉は分からないが何を言いたいのか不思議によく分かりました。韓国の集中豪雨の件は日本にいる時からニュースは知っていて気にはなっていたのですが、切符を持っていたのでどうしようもなくとにかく釜山駅まで行ってもらいました。幸い釜山駅からはセマウル号は動いていましたが、途中には水没していた集落や水田がかなりあって被害は相当大きかったようでした。
Posted by tsukuma at
05:16
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2013/06/05
1998年8月 北海道・富良野



ジャカルタの裁判所に訴訟を提起したのを確認して1ヶ月間の休みに入りました。勤続20年のご褒美に1ヶ月の連続休暇が取得できたのですが、私は22年目か23年目を迎えていて同期入社の連中は全員とっくに取得していたのですが、海外勤務等の関係で私1人だけが取り損ねていました。実は家庭の事情もあり翌年の春ごろに休む予定のところ若干インサイダーの情報でしたが、制度自体がなくなる可能性があるので早く取れというアドバイスがあったものです。結局直後に会社が破綻してしまうわけで、結果的にこの制度を利用した最後の社員になったようです。ちなみに職場には会社の非常時に休むのはけしからんといった陰口もあったようですが、聞こえないふりをしていました。JLCの名誉のために付け加えておくと休みだけでなく金額は覚えていませんが旅行クーポンも規定どおり貰いました。こうして8月中旬から破綻直前の9月半ばまで1ヶ月の間休むことになりました。とにかく結婚以来の初めての長い休暇で、ハノイ単身赴任の際にお世話になったこともあり、家内の希望で「北の国から」の舞台である北海道の富良野に夫婦で1週間のパック旅行に出かけることになりました。前にも投稿しましたが、私が初めて「北の国から」を見たのはハノイのVTVで、北海道を舞台にした日本のテレビ番組だというのは分かったのですが、当然ながらセリフがベトナム語に吹きかえられていたので最初はそれが何の番組だかが分からずに、「北の国から」という番組らしいということが分かるまで暫く時間がかかりました。よく私がドラマの画面だけを見て勝手に考えた筋書きを、Ms.VやY氏の秘書のMs.Lに披露していましたが殆ど違っていて、彼女たちは日本のドラマなのにあなたは分からないの?とあきれ返っていました。最終的には日本からやってきた家内が確認して間違いなく「北の国から」だということが分かりましたが、かなり古い番組だったようで画面に登場していた同じ年代の竹下景子さん(私より1歳年下のようです)が明らかに20歳代の頃の番組だったようです(ちなみに竹下景子さんは最近ではお婆さん役を演じることがあるようです)。家内が北の国からの大フアンということもハノイで初めて知りました。旭川空港でレンタカーを借りて移動しましたが、富良野や美瑛にはテレビで見た美しい風景が広がっていました。北海道は道路が広い上に、夏場は我々のような観光客が運転しているケースが多いので結構事故が多かったたようです。帰りの飛行機には何故かアメリカ人らしき陽気な覆面レスラーが1人で乗っていました。そういえば随分昔ですが福岡空港で当時人気絶頂だった覆面レスラーのデストロイヤーと同じ飛行機に乗り合わせたことがあり、契約書か何かに移動中も覆面着用の義務が明記されているのでしょうか?
Posted by tsukuma at
21:39
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2013/06/04
1998年7月 インドネシア・ジャカルタ(2)



金曜日に弁護士事務所から合弁リース会社に車で戻る途中にたまたまLTCBの看板を見つけました。前にも投稿しましたが、ベトナムの合弁会社設立の件のLTCBの当初担当者であったK君が途中でLTCBのジャカルタ支店に転勤したのを思い出し、アポイントなしで寄ったところたまたまK君が居て久しぶりの再会となりました。K君も私の突然の訪問に驚いた様子でしたが、そのときに本人からLTCBを退職するとの話を聞きました。前述したように当時LTCBでは退職者が相次いではいましたが海外拠点も同じ動きがあることに内心驚きました。
日本への帰国便はヨーロッパへの出張と同じ要領で土曜日の便を予約してしまったのですが、深夜11時とか12時の出発で金曜日の便でも良かったということに後で気がつきました。合弁リース会社のS社長が気を遣ってくれて土曜日の昼はS氏宅に招待してくれて奥さんの手料理をご馳走してくれました。日本人の若手社員も奥さん同伴で合流し大いに盛り上がりました。S氏宅にはインドネシア人のお手伝いさんがいましたが、S氏の奥さんとお手伝いさんはインドネシア語で会話をしていました。町の食堂・レストラン等でも日本人の駐在員が結構インドネシア語を喋っていて、どの程度のレベルかは分かりませんが、私はベトナムのレストランではウェイトレスさん達に「ちょっと」という意味で「エモイ」とか言うのが精一杯だったことを考えると本当に驚きました。聞くところによるとインドネシア語は日本人には最も習得しやすい外国語とのことではありますが?その日は慣れない昼間のお酒のせいか午後は寝てしまい、空港へはS氏宅から直接S氏の車で運転手さんが連れて行ってくれて、空港では航空会社のチェックインカウンターやパスポートコントロールや税関を通過しているはずなのですが後で考えると記憶が定かではなく、昼間のお酒はほどほどにと反省した次第でした。日本に帰国後弁護士事務所からは約束どおり訴状のドラフトが送られてきました。送られてきた英語版がインドネシア語の訴状の単に英語翻訳版かそれともインドネシア語の訴状と併せて英語の訴状も裁判所に提出されるのか、どちらか忘れましたが日本の場合は英語版の訴状というのはあり得ないですね。その後、1998年8月だったと思いますが裁判所に訴状を提出し、第1回口頭弁論期日は(記憶が定かではないのですが)おそらく1998年10月ではなかったかと思います。
Posted by tsukuma at
23:01
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2013/06/03
1998年7月 インドネシア・ジャカルタ(1)



ジャカルタの法律事務所をどうやって決めたのか記憶が定かではないのですが、JLCの顧問弁護士が紹介した法律事務所でJLCのジャカルタも賛成したということではなかったかと思います。法律事務所とは事前に頻繁に連絡を取ったが、E-mailよりもFaxでのやり取りが多かったような記憶があります。当時はメールに文書を添付するという今では当たり前のことがまだそうではなかったかもしれません。検討の結果ジャカルタの法律事務所からは裁判には勝つ見込みがあるとの回答でしたが、私としては裁判で勝ったとしてもそれが回収に結びつくかどうかは甚だ疑問でした。とはいえ会社の方針なので莫大な時間と労力を使った検討の仕上げとして現地での法律事務所との直接打ち合わせのため1998年7月に4-5日間ジャカルタに出張しました。行きの飛行機はジャカルタ経由のバリ島行きで殆どの乗客がラフな格好をした観光客だったと記憶しています。アジアの訪問国としてはベトナム・香港に次いで3カ国目でしたが、ジャカルタは高層ビルが林立し都市高速道路が走っていて、ハノイの10年先を行っているというのが第一印象でした。ホテルの部屋は高層の上の方にあったと思いますが、早朝のまだ暗いうちから町中のコーランを唱えるようなうなり声が聞こえてきて、ここはイスラム教の国だということを実感しました。ジャカルタにはJLCと現地の銀行との間の合弁リース会社があり、出資比率はJLCの方が多かったのか社長はJLCから派遣されたS氏で他に同じくJLCから派遣された日本人の若手社員が1-2名いました。弁護士事務所は伝統的なかなり古いビルにあったと思います。担当の中年の女性弁護士は小学生か中学生のころ父親の仕事の関係で東京に住んでいたことがあったそうですが、やり取りは全て英語で行われました。Faxやメールで送付した膨大な資料や書類をベースに長時間の打ち合わせが行われ、2-3日を要したと記憶しています。正確に覚えていないのですが、Faxでの書類のやり取りの中で若干の誤解があり、弁護士は肝心の書類(日本語で書かれた念書でしたが)が原本ではなくコピーであったことに落胆したようでした。何故我々が原本を持っていなかったのかは覚えていないのですが。空いた時間には合弁リース会社の日本人の若手社員が対象の物件が設置されていた工場まで車で連れて行ってくれました。ジャカルタの中心部から高速道路を車で30分ぐらい走ったところにあったと思いますが、結局工場の中は見ることが出来ずに物件の確認も出来なかったと思います。金曜日は念のため予備日としていましたが金曜日は実質半ドン(たまたまその週だけだったかもしれませんが)で、結局弁護士事務所との前日までの打ち合わせをベースに弁護士事務所が訴状のドラフトを作成し東京に送るのでそれをチェックということで終ったと思います。
Posted by tsukuma at
22:48
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2013/06/03
1998年6月 長野



大口の不良債権を管理するといっても簡単な話ではなく毎日悪戦苦闘していました。担当案件の中に長野支店の案件があり物件がインドネシアのジャカルタにあり、暫く塩漬けにされていたようですが私が配属されるのを待っていたように現地で裁判手続きを取るようにとの指示。私は面食らいむやみやたらに裁判をやってもと思ったのですが、暫く塩漬け(というより1-2年塩漬けだったような記憶があります)していた案件で長く放置すると責任問題になる、又裁判になれば担当部として(担当者としてではない)は手離れができ一石二鳥と思ったようです。私も会社の方針なので取りあえず検討することにし、長野支店とジャカルタの弁護士事務所とコンタクトを取るようになりました。随分長い時間をかけて東京で資料・書類を読んでいたような記憶がありますが、その後長野支店に出かけて担当者と面談をしました。直前の1998年2月に長野オリンピックが開催され長野新幹線は開通してすぐのころだったようです(ちなみに新幹線が金沢まで延伸されるので北陸新幹線に名称が変更されるということで最近は新幹線の名称を巡ってもめているようです)。泊まった記憶がないので日帰りだったと思います。長野支店の支店長は2年後輩でしたが、こういう問題には知らぬ顔をする拠点長が多いというのは、こちらも経験上よく分かっていて却って担当者との打ち合わせに集中できました。長野支店の担当者の名前は忘れてしまいましたが、若いにも拘わらず非常にしっかりしていて理路整然と説明していたのが印象的でした。そういえば時間を見つけて少しだけ善光寺に連れて行ってくれましたね。こうして日本国内での作業は終わりジャカルタの法律事務所との打ち合わせに重点が移っていきます。そういえばいろいろな資料・書類の英訳に追われた記憶が蘇ってきました。
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06:06
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2013/06/02
1998年5月 東京



東京に戻って審査部というところに配属されました。審査部の中の大型の不良債権の管理を行うセクションで若い頃(30歳前後)約4年間在籍していましたが当時とは比較にならないほどの大所帯になっていました。しばらくは仕事らしい仕事もせずにボーっとしていたような気がします。既にJLCもLTCBもかなり危険な状況になっていてマスコミ等でも度々取り上げられていました。LTCBについてはハノイでもいろいろ悪い噂というよりも実情が耳に入ってきたものです。海外にいると時々思いがけない情報が入ってくることがあり、おそらく日本からの出張者がつい気を許して洩らしてしまうことも原因の一つとしてあったようです。私の記憶では1998年5月にある月刊誌でLTCBの問題が詳細に取り上げられたことによりLTCBの株価が暴落してしまうという事態になったのが一つの契機になったのではと思います。それ以降LTCBの株価は多少の上下はあったと思いますが同年の10月に破綻するまで回復することはなかったと思います。JLCにしても大型不動産案件の問題が山積みでしたが私は新聞報道等を通じて初めて知ることばかりでした。またJLCの銀行団もJLC向け貸付を巡っていろいろな動きがあり、日本で営業している国内・国外の殆どの金融機関が絡んでいて大口貸出金融機関の一つであった政府系金融機関はJLC向債権の処理を巡って政治問題となっていました。とにかく個人ではどうにもならず毎日悶々としていたものです。この時期、JLCはまだそれ程でもなかったのですが、LTCBの行内はかなり動揺していたようで多くの人材の流出が続きました。正確な人数は覚えていませんが驚く程多くの人が銀行を去っていきました。それだけ外部に受け皿があったということもあったのでしょうが。
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2013/06/02
さようならハノイ(1回目のさようなら)



2か月近く平日が本業で多忙だったのに加え休日は帰省やマンションの管理組合の仕事で時間が取れずに、このブログもすっかりご無沙汰してしまいました。日本でも暑い季節を迎えるとハノイの5-6月頃のとんでもなく高温多湿の季節及びそれに続く7-8月の短時間にとんでもなく大量の雨が降る雨季を思い出してしまいますがキリがありません。
ハノイ行きが突然やってきたように、ハノイに別れを告げる時も突然やってきました。後で聞いた話ですが東京の株主側はハノイに居る2人の日本人の関係を心配していてどちらかを交代させるという話が進んでいたようです。1998年の旧正月に一時帰国したときも株主2社からのヒアリングは専らその辺に集中していたような記憶があります。日本人は2人しかいなかったわけですが結構いろいろな案があったようで最終的には私が帰国(帰任)することになりました。私自身も元々ピンチヒッターで短期の滞在のつもりであったことや単身生活に少し疲れてきていたこともあり素直に従うことにしました。私の後任には3年先輩のA氏ということになりました。A氏はいわゆる海外畑の人ではなくほぼ純粋に日本国内の営業畑の人でしたが、合弁会社を更に発展させるために営業力を強化するということがあったようです。私のアパートもそのままA氏が引き継ぐことになりました。
ということでお決まりの引継ぎを行った後ハノイに別れを告げることになりましたが、この頃のことは驚くほど記憶が飛んでいて殆んど思い出せません。あまり帰りたくなかったのでしょうか?その時はこれでハノイは最後だと思っていたのですが、日本に帰国して暫くして日本の株主2社が破綻してハノイの合弁会社が宙に浮いてしまい、2年後に今度は合弁会社清算のために再びハノイに駐在(形式的には長期出張)することになり、おそらくそのせいもあり1回目の最後の時の記憶が薄れてしまったようです。最後はMs.Vがアパートか空港まで(多分アパートだったと思います)見送りにきてくれて、Mr.Cの運転でノイバイ空港まで行きました。最後に残ったラジカセや体重計や小型のガスコンロ等その他諸々はMr.Cに引き取ってもらいました(ちなみにハノイ2回目の駐在の時にこのガスコンロがどこかで再び登場しました?・・よく思い出せないのでそのうち思い出しておきます)。空港でMr.Cと分かれる時は私が持っていたベトナム通貨(当時はベトナム国外では交換しようがなかった)も全て貰ってもらいました。こうして1998年4月にハノイから香港を経由して帰国しました。現在の香港国際空港がオープンしたのは1998年10月のようなのでこの時はまだ啓徳空港だったようです。このとき記念に貰ったのは大福様(ベトナム製と言わなければ何の違和感もない)で裏に皆のサインがあります。こうして短い期間ではありましたがハノイの駐在を終えたわけですが2年後に2回目の駐在があり、本ブログはまだまだ続きますが暫く時系列的にベトナム以外のことを書いてみたいと思います。
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