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2012/07/03
赴任当初の日々の生活

ハノイの気候
私がハノイに赴任した2月は鉛色の空で天気が悪く始終霧雨が降っていると書きましたが、ハノイの1年間の気候を私なりに簡単に表現すると,少しずれている部分があるかもしれませんがだいたい以下のとおりです。
3-4月: 晴れの日が多くなり、かなりの高温になる
5-6月: とんでもない高温多湿でものすごい暑さが続く。日本人は高温多湿に慣 れているはずであるがとても我慢できない。ハノイは亜熱帯に属するそう であるが、熱帯に属するホーチミン出身のベトナム人もハノイの暑さに 参っていた。
7-9月: 雨季。引き続き高温多湿で、短時間に信じられないほど大量の雨が降り道路がよく冠水する。
10-11月: 乾季。ベトナム人はこの時期を秋と呼ぶが結構高温の日が多い。
12-2月: 冬。特に1-2月は天気が悪くて暗い。日本人にとってはそれほど寒くないが、ハノイ生まれのベトナム人には相当寒いようでビックリするほど厚着をする。
2月のハノイ赴任後毎日仕事の追われていましたが、気がつくと3月になっていて気温もどんどん上昇していったようです。
時間と距離
我々の勤務時間は8:30から17:00だったと思います。一般的にベトナムでの勤務時間は7:30から8:00開始の場合が多かったようで、HITC準備室の我々の開始時間はやや遅めに設定されていたようです。ベトナムに限らず東南アジアは気候の関係で朝が早いようです。ベトナム人になかなか理解してもらえないことのひとつに東京での通勤時間の長さがありました。ベトナム人に距離を聞くとよく英語で「very far」と答えていたのでそんなに遠いのかと思ったら、どうもモーターバイクで20分以上も走れば「very far」のようでした。東京での通勤時間はもう理解不能だったのではと思います。ただ、時々テレビで東京の通勤事情を紹介する画面(それも10年ー20年程前の山手線等の古い画面が多かったようです)が流れていたので通勤が大変そうだというのは分かっていたようでした。17:00になり女性2人が帰った後は、Y氏と私の2人が事務所に残されるわけですが残業は殆どしませんでした。気候等の悪条件の中で一生懸命残業までして仕事をして病気になってはしょうがないと思っていました。この点はY氏と私の数少ない暗黙の了解事項の1つでした。
日本レストランとカラオケ
17:00になると一日中文句を言っていたY氏がやや豹変し、2人で日本レストランに行くことになります。当時は仕事で日本人に会う必要もなく赴任したばかりで友人も居なかったので夜の予定がなく断る理由がありませんでした。おかげでその後も日本人の友人は殆どできませんでしたが、これはY氏も同じだったようです。もっとも当時のハノイは日本人が非常に少なくて日本レストランにでも行かない限り日本人と会うことはありませんでした。当時日本レストランは10店程度だったと思いますが、当初は毎日のように2人で行っていたのに2-3店を除き何処に行っていたのかなかなか思い出せません。おそらくY氏の好みが2-3店に集中していてそこにしか行かなかったからではと思います。日本レストラン以外では、ハノイホテルの近くにあったモンゴルレストランによく行きました。モンゴル料理はそこでしか食べたことがないので本場の料理と同じかどうかは分かりません。ハノイでしか食べたことがない外国料理は他にメキシコ料理やロシア料理がありました。ハノイにロシアレストランはかなりありましたが、後日設立された合弁会社のベトナム人の10歳年長の副社長がモスクワ留学の経験があり、よく連れていってくれて食べ方も教えてくれましたが、その件は別の機会に投稿します。あと、ホーチミン(サイゴン)料理というカテゴリーがあるのかどうか知らないのですが、Y氏推薦のホーチミンレストランにもよく行きました。少し不思議に思ったのが、世界中どこにでもある中華レストランが見当たらなかったことでした。もしかするとベトナム語で中華と書いてあったので分からなかったのかもしれませんが、レストランの看板に書かれてある漢字もホーチミンでは結構見たような気がしますがハノイではあまり見たことがありませんでした。知り合いのベトナム人によるとベトナム戦争終了後の中越紛争の影響だと言っていましたが詳しいことは分かりません。但し、かなり高級でしたが台湾や香港系のホテルには必ず中華レストランがありました。食事のあとは必ずカラオケに行くことになります。LTCBからの事前の情報になかったのですが、Y氏はかなりのカラオケ狂でした。私はお酒は飲むので居酒屋は大好きですが、カラオケやナイトクラブは苦手で、どうしても好きになれず正直苦痛でした。日本人的発想かもしれませんがこれも仕事と割り切ってカラオケにも付き合いました。
VCBとの会食
この件については事実関係の記載だけに留めておきます。1997年の3月だったと思いますが、LTCBの頭取がVCBのマネージメントとの会食のため日本からハノイを訪れたことがありました。私も日本国内ではなかなか会う機会がない人に会うのでかなり緊張していたのですが、実際に会ってみると極めて温厚な紳士で英語も堪能で通訳の必要なく非常に話しやすい人でリラックスして対応できました。合弁会社設立に向けて友好関係を深めるということで私も会食には末席で参加しました。VCB側も頭取以下マネージメントが参加していました。ベトナムでの会食は1時間半か2時間で終わり、日本のようにダラダラしないようです。結婚式のパーティー等も終了するとまるで蜘蛛の子を散らすように居なくなってしまうので最初は少し戸惑いましたが慣れると本当に楽でした。この会食でVCB側の英語の通訳をしていた20歳代の女性2人が後日合弁会社の社員として参加することになります。LTCBの頭取は、LTCB破綻後は実質最後の頭取として長い裁判の被告になりますが、昨年ようやく無罪ということで決着がついたようです。この件のコメントは差し控えますが、数年前に裁判に関するニュース番組に本人が写っていたのですが、現在たしか76-77歳ぐらいでビックリするような高齢ではないのですが、テレビでは腰がかなり曲がっているように見え相当な心労があったのではと思います。
Posted by tsukuma at
21:29
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2012/07/02
両替商の女性たち

ベトナムの通貨はVND(ベトナム・ドン)ですが米ドルも堂々と通用していました。当時USD1=VND10,000=100円ぐらいだったので換算は楽でした。今はUSD1=VND22,000=80円ぐらいなので計算が面倒かもしれません。ホーチミンで生活していた人の話によると、当時はホーチミンよりもハノイの方が米ドルは広く通用していたそうです。両替商の女性たちの多くはホアンキエム湖の南側にある中央郵便局付近で営業していました。そこを通る度に女性たちからドルや円という声をかけられました。彼女たちの営業が合法か違法かどちらでもないのかよく分からなかったのですが、とにかく堂々と営業していました(対象となる法律が無いか、有っても法律同士で矛盾していて結局無いのと同じということが結構あったようです)。後日設立された合弁会社は中央郵便局のすぐ近くにありましたが、女性たちの間に縄張りみたいなものがあったようで、私は合弁会社付近を根城にしていた女性からたまに米ドルでベトナム・ドンを買っていました。親切な人で悪徳業者の手口を実演つきで丁寧に解説してくれたりしていました。当然ながら銀行よりも両替商の女性たちの方がレートが良いということでした。銀行の窓口で大量のベトナム・ドンのお札をボストンバックに入れて運搬しているのを何度か見たことがあります。おそらく給料の支払用だったと思いますが、あの大量のお札を見るたびにビックリしたものでした。当時ベトナムの人々は昔の政府の通貨政策の影響で銀行に対する不信感があり、いわゆるタンス預金が多かったと聞いたことがありますが、本当かどうかは分かりません。私は日本からの送金もあったのでホアンキエム湖の西側にあったANZ銀行ハノイ支店に口座を開設していましたが、当時ANZ銀行にあったATMがハノイで唯一のATMだったと思います。ただ休日にATMから米ドルを引き出そうとしたら故障してお金は出てこなくてカードも戻らなかったことがあり、それ以来ATMは使わずに窓口で引き出していました。クレジットカードは一応持っていましたが当時は一般的ではなく、ホテルでの支払い以外に使用した記憶はありません。私がハノイに住んでいた頃、米ドルの使用禁止のお達しが1-2回あり(そもそも禁止だったと思いますが)、実際に一部商店等で米ドルの受け取りを拒否されたことがありましたが、すぐに元に戻ったようです。ところで、両替商は女性だと決めつけていますが男性もいたかもしれません。動く仕事は女性が多かったという印象が非常に強く残っています。とにかくベトナムの女性はしっかりしていて働き者ですが、これについては別の機会に記載します。2010年12月にハノイを再訪したときに中央郵便局の前を通りましたが、気のせいか或いは時間帯のせいか、両替商の女性たちの数が昔と比較して少なくなっていたような気がしたのですが?
Posted by tsukuma at
04:55
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2012/07/01
第二次大戦の影響・・個人的な経験

現在60歳になる私を含めほとんどの日本人が第二次大戦後生まれで戦争の経験も記憶もないわけですが、表題の件は海外特にアジアに駐在する日本人には避けて通れないことがあるかもしれません。以下、10数年前にハノイで経験した個人的な出来事です。
雑貨屋のおばあさん
タバコを止めて7-8年になりますが当時はタバコを吸っていて、ハノイ2-3日目だったと思いますがHITCビルの近くの雑貨屋さんにタバコを買いに行きました。数十メートルぐらいしか離れていませんでしたが、歩道がぬかるんでいて靴が泥だらけになり、お店は古くて暗くて大量のハエが飛んでいました。70-80歳ぐらいのおばあさんが店番をしていて私が無言でタバコを指さしたところ、そのおばあさんはなんと日本語で「ひとつ?ふたつ?」と聞いてきました。私は一瞬よく分からずに「えっ?」と聞き返したような気がしますが、やはりおばあさんは日本語で個数を聞いているようでした。最後は関西式に「おおきに」と言っていました。まるで外国語とは縁のなさそうなおばさんがカタコトではありますが日本語を使ったのでとにかく驚きました。事務所の戻ってMs.LやMs.Vに報告したのですがあまり驚いて居なかったようです。ありそうなことだと思ったのでしょうか?
公園のおじいさん
時期はずっと後のことだったと思いますが、休日にハノイホテルの近くの公園を散歩していたら、おじいさんが流暢な英語で話しかけてきました。当時はその年齢で英語を話す人は珍しかったのではと思います。ハノイ外国大学で英語を教えていたが、そのときは既に引退していて年齢は75歳だと言っていました。ところで、そのおじいさんが驚くべきことを話し出したのですが、彼はなんと第二次大戦中に日本軍で日本語の通訳として働いていたとのこと。シンガポールで通訳として日本語の訓練を受けて、クロサワだかクロカワという将軍の通訳をしていたそうです。おじいさんはシンガポールのことを昭南と日本語で言っていました。私は昔シンガポールのことを昭南と言っていたことは知識として知っていましたが、若い日本人に通じるかどうか?日本語はほとんど忘れたと言っていましたが、私も映画等でしか聞いたことがない軍隊用語、それに何故か「ぜんざい」が出てきていました。たまに食べていたようです。そのおじいさんはハノイホテルの近くにある住まいまで教えてくれて暇なとき遊びに来るように言っていましたが結局それ以降会わずじまいでした。話はハノイから飛びますが、英国に駐在していた1990年代前半、仕事で列車に乗って小さな田舎町に行ったことがありました。ロンドンには大勢いる黒人やインド系を含め有色人種はほとんど見かけない街でした。列車を降りた駅でアルコール中毒と思われる老人がビールか何かを飲んでいたのですが、私の顔を見るとビックリしたような表情をして(昔のことですがこれはよく覚えています)私に向かって何か叫びながら追っかけてくるので気味が悪くてひたすら逃げた記憶があります。後で落ち着いて考えてみると、その老人は日本語で「貴様(きさま)」と言っていたような気がしたのですが?
日本軍の駐留
日本とアメリカが戦争を始めた1941年12月の約1年前から、ベトナムでは日本軍が数万人単位で駐留していたそうです。ベトナム、フランス、日本を巡る歴史的な背景は色々あったと思いますが、大きな戦闘はなかったようです。ハノイの郊外に出るとフランス軍が作ったトーチカ(コンクリートで作った陣地)が結構残っていました。ベトナムの水田にヨーロッパ式のトーチカの存在が妙にアンバランスな印象を受けました。駐留後半には日本軍による米収奪ということがあったと言われており、故ホーチミン大統領も1945年の独立宣言の時にそのことに言及したそうです。またMs.LやMs.Vから実際に聞いたことがあるのですが、当時のベトナムの歴史の教科書にその辺の詳しい記述があったそうで、ベトナム人なら誰でもよく知っていることだそうです。日本人=軍人というイメーシもかなりあったようで(ベトナムのテレビで、中国のテレビのように日本軍や軍人が登場するドラマを見た記憶はありませんが)、私よりかなり若いベトナム人数人から軍人の時は何処で何をしていたのかという質問を受けたことがあります。その度に私はそんな年齢ではありませんということを説明するわけですが、相手が日本のことをよく知らないことも多くこれが結構大変でした。それにもかかわらずベトナム人は一般的に親日的だと思いますが、我々日本人もその辺のことは知っておいたほうがいいかと思います。これ以上のコメントは差し控えますが、日本に帰任後、新聞で日本の老人2人がベトナムで学校を寄贈したという報道があり寄贈理由が米収奪に加担したのでその罪滅ぼしに、という記事を読んだことがあります。
Posted by tsukuma at
04:25
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