Liên kết tài trợ / スポンサーリンク
Quảng cáo này xuất hiện trên các Blog không cập nhật bài viết trên 1 tháng
Nếu bạn cập nhật bài viết mới thì quảng cáo này sẽ mất đi
上記の広告は1ヶ月以上記事の更新がないブログに表示されます。
新しい記事を書くことでこちらの広告は消えます。
2014/09/27
ハノイでの生活(1)



ハノイで2度目の生活を始めたわけですが、日本にいた約2年間はネットを通じてベトナムの経済動向やFDI等に関する情報には結構アクセスしていました。ネットを通じた情報を見る限り、経済面では正直苦戦しているなという印象でした。しかし実際に再度ハノイを訪れて2度目の生活を始めると、2年間の間に随分と変化があり、やはりベトナムの勢いというものを感じました。例えば、ハノイでは新しい道路がいくつも開通しており、1997年には殆どなかった信号もかなり増えていました。また、1997年の段階では殆んど普及していなかった携帯電話については、もう年寄りも含めて誰もが保有しているような印象を受けました。勢いがある国では固定電話よりも携帯電話の普及が早いそうです。とにかく生活レベルが1997年当時に比べて、かなり上昇したような印象を受けました。もちろんたった2年間では変わらないものも結構ありましたが、私が日本人だからそう感じるのかもしれませんが、日本では2年間では全ての面で何の変化もないことを考えると、大きな変化だと思いました。
Meritus Hotelから合弁会社まで改めて地図で見ると約3kmの距離で、歩こうと思えば歩けない距離ではなく実際に歩いたこともありました。毎日の通勤は車で送り迎えしてくれることもありましたが、車の手配がつかなかったり手配が面倒なこともあり、幸い雨が少ない乾季ということもあり、自転車で旧市街を通って通勤することが多かったようです。とにかくモーターバイクの数が飛躍的に増えていて渋滞に巻き込まれて全く動けなかったこともありました。
ハノイではとにかく健康には留意することに心がけましたが、健康的な生活を送る環境については日本よりも遥かに恵まれていました。朝起きると、近くのHo Thai沿いの公園を散歩していました。中年の女性たちが毎日公園に集まりカセットの音楽に合わせて体操(腰をクネクネする動き)をしていました。また老若男女が路上でネットを張ってバトミントンに講じたりしていました。ホテルに戻り室内プールで一泳ぎのあと朝食をとり出勤していました。記憶では当時はハノイで唯一の室内プールだったと思います。夜は外で食事をしていましたが、面倒な時はホテルの長期滞在者用に準備されていた軽食で済ませることもありました。夜も寝る前に、酔っぱらっていないときは、出来るだけプールで一泳ぎしサウナで汗を流していました。



Posted by tsukuma at
06:27
│Comments(0)
2014/09/20
清算業務(2)




ハノイに行った2000年9月早々に第1回目のDocumentation Meetingを行ないました。 場所はよく覚えていないのですが(おそらく)Ly Thai ToにあったVCBのJVセクションの会議室ではなかったかと思います?先方は英語が出来るのに通訳を通じてベトナム語と英語で行いました。合弁設立の時よりもベトナム語色が強くなったような気がしました。こちらは日本人なのに日本語が一切出てこないのは不公平だが此処はベトナムなのでしょうがないと思った記憶があります。
Documentation Meetingはかなり形式的なもので取りあえずのコメントは出てきましたが、これから精査して追加のコメントを出していくと言うことでした。実際のMeetingはこの第1回目を含めて数回しか行わなかったと思います。あとは文書のやり取りで延々とコメントの応酬が続くことになります。
先方のVCB側のメンバー数人は実は合弁設立の時と同じでメンバーで、初めて会った若い女性1名を除き、よく知っている人物ばかりでした。全員女性というのも日本ではあり得ない状況だったかもしれません。とにかく久しぶりということで、第1回目のMeetingは適当に切り上げて、その日はランチをご馳走してくれました。ランチではいろいろな話をしたと思いますが、私が驚いたのは、私がいない間に合弁会社の社長を退任した日本人のY氏のプライベートについて実によく知っていて、中には何故そんなことまで知っているんだというようこともあり、驚いたと同時に空恐ろしくもなったものです。おかげでこちらはY氏のプライベートについては随分と詳しく知ることになったわけですが。
その後のDocumentationは以下の手順で行われたと記憶しています。
(1) 先方から文書でベトナム語のコメント。
(2) 当方のベトナム人弁護士がベトナム語版と英語版のDocumentに先方のコメントを反映。
(3) 先方のコメントを反映した英語版を見ながら私と当方の弁護士で議論。必要であれば東京の意見も聴取。
(4) ベトナム人弁護士が、当方からのカウンターコメントをベトナム語にして先方に送付。
と大まかに言って以上のような手順だったと思います。こちらが先方にカウンターコメントを送っても返ってくるのは最低でも3-4日は経過してからで、とにかく時間がかかりました。通常のDocumentationであれば問題点をだんだん絞り込んでいくのですが、本件の場合はDocumentの数が3-4種類あったこともあり追加のコメントが次から次に出てきて、とにかく時間がかかりました。コメントを待っている間も他の仕事が山ほどあり忙しくしていました。
なお、Ly Thai To(リタイト)は10世紀ごろの皇帝の名前らしいのですが2010年12月に再訪した時にHoan Kiem湖の近くにLy Thai Toの銅像ありました。2004年に建立されたそうで当時はありませんでした。




Posted by tsukuma at
04:45
│Comments(0)
2014/09/14
清算業務(1)


仕事が一時的に忙しくなったり、夫婦でロンドン旅行に行ったりで、結構忙しくしていて、すっかりご無沙汰していましたが、久しぶりで本題に戻ります。時間が経つと当時の記憶や印象が曖昧になってくるので、とにかく忘れてしまわないうちに、記録を残す意味でも再開したいと思います。
過去の履歴を見ると2000年9月に会社の清算業務で再びハノイに住むことになり、当時のシンガポール系のMeritus Hotel(その後売却され現在はフランス系のSofitel Plaza Hotelになっているようです)に滞在することになったところで終っているようです。
とりあえず様子を見るためにハノイに短期で出張のつもりで行ったら、いきなり本番が始まったので日本に帰れなくなり、身の回りの例えば普段着や運動靴等をとにかく急いで買い揃えました。
とにかく目的は、会社を清算し現・預金として残っていた資本金のうち日本側の持ち分をベトナム側に売却し、その売却額を日本に送金することでしたが、何をどうしていいのか皆目見当がつかず、問題はベトナムでもファイナンス会社の清算は初めてのケースで法的な手続き規定がなく、日本でもそうだと思いますが、法的な手続き規定もなく前例もないことについては試行錯誤の連続で、途方もなく時間がかかりました。実はあとで分かったのですが、ベトナム側(VCB)はやはり破綻していた韓国の銀行とのJV銀行の清算も同時並行的に進めていたようです。
取りあえずベトナム側の了解を取った上で、日本側の弁護士として英国系の弁護士事務所を指名し、会社清算・持ち分売却に係る膨大な契約書のドラフトを作成してもらい、そのドラフトをベトナム側に提示したところまでは、東京から電話とメールで完了していたので、ハノイでは具体的な作業が、それも物理的(時間的)にも精神的にも気が遠くなるような作業が始まりました。
私は毎日合弁会社に出勤し別室で作業することになりました。当事者は思い出す限り以下のとおりです。
(1) 英国系の弁護士事務所
合弁会社の近くのメトロポールホテルのそばにあるInternational Centreというオフィスビルにありました。ちなみに同事務所は現在も同じところにあるようです。英国人の弁護士と若いベトナム人の弁護士が担当してくれましたが、ベトナム語版の問題もあり、主に30歳ぐらいの若いベトナム人の弁護士が対応してくれました。殆ど毎日訪問していたような記憶があり、当時会議室から見えたハノイの中心街の景色は今でもよく覚えています。この若いベトナム人の弁護士はとにかく舌を巻くほど優秀で、ずいぶんと助けられました。合弁会社から歩いて5分程度だったので、何時も歩いて行ったのですが、意味がよく分からなかったのですが、英国人の弁護士からは外国人が一人で歩いて来るのは勇気があると、妙な褒め方をしていました。私はアジア人でしかも当時は溶け込んでいたのか、一人で歩いていても別にトラブルは無かったですが?
(2) 米国系銀行
最近日本で個人業務からの撤退を発表した銀行ですが、ここも同じくInternational Centreにありました。ネットで調べてみると、この銀行も現在も同じビルで営業しているようです。何故この銀行が登場するかと言うと、ベトナム側との交渉の中で、売却代金を振り込むEscrow A/Cを設定することになり、ベトナム系でも日本系でもない米国系の同行に設定することになったものです。ANZ銀行にも確認した記憶があるのですが、おそらく条件面でこちらの米国系銀行にしたのだと思います。後日説明しますが、最終的にはOKだったのですが、実はこの処理が後で結構大きな問題になります。同行の担当者は若いベトナム人の女性でしたが、最初に支店長のアメリカ人も含めて会議室で会った時に、昔のハノイの大きな写真が飾ってあって漢字で「河内」(ハノイ)と書かれていたのですが、私が指摘するまで誰も何と書いてあるのか分からなかったということがありました(急に思い出しました)。
(3) 4大事務所の中の一つの国際会計事務所
日本の会社がベトナムから撤退するにあたり、税金問題をクリアーにしておく必要がありました。同会計事務所は合弁会社と同じBa Trieu Streetをもう少し南に行った4-5階建てぐらいのビルに入居していたと思います。税金問題は分かったような、分からないような複雑な面があり、とにかくこれをクリアーにしておかないとベトナムから出て行けないので、最後はかなりの頻度で訪問して相談したものです。担当者は40歳ぐらいのベトナム人女性でした。
(4) SBV(ベトナム中央銀行)
合弁会社を設立した時ほど頻繁には行かなかったような気がしますが、それでも時折通っていました。
思い出す限り、合弁(解消)相手のVCB以外に、上記の当事者が介在したと思います。考えてみれば、日本語が全く通じない中での孤軍奮闘で、火事場の馬鹿力ではないですが、(自画自賛にはなりますが)よく頑張ったと思います。


Posted by tsukuma at
01:08
│Comments(0)