Liên kết tài trợ / スポンサーリンク


Quảng cáo này xuất hiện trên các Blog không cập nhật bài viết trên 1 tháng
Nếu bạn cập nhật bài viết mới thì quảng cáo này sẽ mất đi

上記の広告は1ヶ月以上記事の更新がないブログに表示されます。
新しい記事を書くことでこちらの広告は消えます。
  
Posted by vietnhat at

2012/07/13

言語編







ベトナム語は難しすぎて私には無理です。

ベトナム語

せっかくベトナムに居るので少しはベトナム語を勉強しようと最初は人並みに思ったのですが、直ぐに挫折してしまいました。仕事が忙しくてそれどころではなかったということもあったのですが、ベトナム語は難しすぎるので挫折したというよりも、私の場合は入り口のところであきらめてしまったというのが正確なところです。先ず人の名前が通じません。秘書のMs.Vや運転手のMr.Cは私の発音を知っているので特別不都合は無かったのですが、例えば、外出先で用が済み受付で車のナンバーと運転手の名前を聞かれて車のナンバーを知らなかったので運転手のMr.Cの名前を言ってもこれが通じません。ベトナムでは北部地域のベトナム語の発音は6声で南部地域が5声らしいのですが、私はそもそも5声や6声ということがどういうことなのかが分かっていなかったわけで、従って、自己流で運転手のMr.Cの名前を色々と発音を変えて言ってみても全く通じませんでした。それからは運転手の名前と車のナンバーを書いた紙を持ち歩くことにしました。VCBのJVセクションの担当はMs. Ngaという名前でカタカナで書くと「ガ」とたった一字なのですが、ある日昼休みに電話したら本人が出てきて、本人が私の「Nga」の発音が理解できずにしばらくして私からの電話だと気がついて大笑いしたことがありました(ちなみにMs.Ngaは合弁会社設立後社員になります)。Mr.Cの友人の子供の5-6歳ぐらいの女の子を相手にして数字の1-10の練習をよくしたのですが、お世辞を一切言わないので先生としては最高でしたが、それでも少しは気を遣ってくれて最初は私の発音を明らかに我慢している表情で聞いていたのですが6(sau/サウ)になるともう我慢できないようで、何度も「6」の練習をさせられました。別の人にも言われたことがあったのですが私の数字の発音は全部おかしいのですが、特に「6」が駄目なようでした。当初はタクシーに乗る機会はあまり無かったのですが、たまに乗っても運転手が私の地名の発音を理解したことは1度もありませんでした。しょうがないので行き先を書いた紙をいつも準備していました。ほかにも同じような例はたくさんあったのですが、とにかく入り口のところで躓いてしまいすっかり勉学意欲をなくしてしまいました。中国語の素養があると全然違うらしいのですが、私の場合中国語は全く出来ません。ただ生活していると、変則アルファベットの文字は目に入ってくるので、いくつか覚えているものがあります。例えば「Kem=アイスクリーム」「Xe May=モーターバイク」「Cong Ty=会社」「Be Tac=行き止まり(これは記憶違いかもしれません)」。私はハノイ在住の日本人でベトナム語が出来る人を見たことが無かったのですが、日本の政党系の新聞社のハノイ特派員等ベトナム語が堪能な人が数名いたそうです。また、当時商社がベトナム語研修で若手をハノイの大学に派遣していたことがあったようです。ちなみに完全に余談ですが1998年にインドネシアのジャカルタに出張したときに日本人が結構インドネシア語を喋っているのを見て驚いたことがあります。インドネシア語は日本人には習得しやすい外国語らしいのですが、私はハノイの日本レストランで「エモイ」(自分より若い人を呼ぶときのチョットという意味だと理解していますが)と言うのが精一杯でした。もっとも日本レストランでは女性たちはびっくりするほど日本語が堪能でした。韓国レストランでも同じで皆韓国語が堪能だったそうです。

クオック・グー

辞書によれば「クオック・グーとは、ラテン文字を使用してベトナム語を表記する方法。アクセント符号を併用することにより、ベトナム語の6声調を表記し分ける。」と書いてあります。我々から見ると変則的なアルファベットですが、私の理解では約100年前に表記については漢字を止めて現在の方式にしたようです。もともと現在の方式になったのはフランスの影響だと思っていましたがいろいろな歴史的な経緯があったようで、正式には1945年のベトナム民主共和国の成立とともにベトナム人自身がクオック・グーをベトナム語の正式な表記文字として定めたようです。もともとベトナム文化は歴史的に漢字文化の影響を強く受けており、表記も漢字に置き換えることは可能だそうですが、現実問題としてベトナム人のほとんどの人は誰も漢字を読めません。ネットを見るとお年寄りには漢字を読める人がいると書いてある場合がありますが、合弁会社の最年長(私より10歳年長)の副社長は彼のおばあさんが使っていたということで簡単な漢字を少し書いてくれたことがありましたが、例えば「馬」という文字は漢字というよりも象形文字に近い文字でした。お寺に行くと漢字を見ることが多く、日本人には初めて見る漢字もかなりありますが何となく意味は分かります。山寺には「山神」、門には「中央門」「右門」「左門」等、見るだけで日本人にも直ぐに分かる漢字表記も結構ありました。変な話ですがお寺に行くと漢字についてベトナム人から何と書いてあるとよく聞かれました。現在でも日常生活に漢字が残っていることがあり、覚えているものでは例えば中秋の名月のときの「月餅」や、おめでたいときの「喜が3つか4つ」の文字がありました(これは実際にベトナム人からどう言う意味かと聞かれたことがありました)。日本人の感覚では日本語の文字から漢字が無くなったら読みにくいし思考方法に影響が出てくるような気がし、実際にハノイのカラオケで日本の歌の歌詞がひらがなだけというのがあってスムーズに読めませんでしたが、慣れの問題のような気もします。ベトナム語はおそらく日本語よりもかなり複雑で、表記については日本語と同列には論じられないような気がします。急に思い出したのですが、英国に駐在していたときに同じビルの韓国の銀行の20歳ぐらい年長(50歳代?)の支店長が、我々が読み終えた古い日経新聞をよく借りていたのですが、日本語は出来ないと言っていましたが日本の新聞は漢字が書いてあって韓国のハングルだけの新聞より読みやすいと言っていました。それから20年経過しているので韓国で今そういうことを言う人はもういないと思いますが。
  

Posted by tsukuma at 21:52Comments(0)

2012/07/13

合弁会社設立に向けて(当初)編




赴任当初の仕事は合弁会社設立に向けての交渉及び準備作業で、毎日忙しく働いていたのに具体的に何をしていたのかなかなか思い出せません。前にも書いたように、当初の仕事については自分の裁量でできる部分が少なかったので記憶に残りにくかったのかなと思います。

出資・マネージメント

資本金(Charter Capital・・・ベトナム英語です)は、40%はVCBでLTCBとJLCが各30%ずつでしたが、日本側が合計60%でマジョリティを構成するので当時では珍しいと言われていました。このため合弁契約では、マジョリティールールに関して結構もめたような記憶があります。最終的に重要事項の決定については75%即ち実質全員一致という日本式玉虫色の解決になったのではなかったかと思います。マネージメントは常勤として、社長1名、副社長2名、Chief Accountant(経理責任者)及びController(監査役)の5名で、非常勤取締役が双方各3-4名という構成でした。社長は当初3年間は日本側、次の3年間はベトナム側でその後も交代で就任するということが合弁契約に定められていました。具体的にはLTCBのY氏が初代社長に就任し、私とVCBから選任される人が副社長に、Chief Accountant及びControllerはVCBからということで決まっていました。1996年12月のSBVの仮ライセンスのときに付属書類として既に具体的な名簿を提出していましたが、日本側は前任者から私への変更、VCB側も1名変更があり、その名簿の差し替えだけで大変な作業だったと記憶しています。私の経歴書や卒業証明書を英語で準備していたのですがベトナム語への翻訳版も用意しなければならず、Ms.VがOfficial Translator(と言ったかどうか記憶が定かではありませんが)に依頼して作成してもらいました。ベトナム側は卒業証明書に関してはベトナム戦争の影響で原本が消失している場合があるのでその場合は免除ということだったと思います。実際、VCBの非常勤の取締役だったと思いますが1名該当者がいました。

Chief Accountant(経理責任者)

具体的な時期や目的は覚えていないのですが、1997年4月頃(とにかく暑い日でした)Chief Accountantに就任予定のMr.HがHITCビルの準備室にやってきたことがありました。彼が何か分厚い資料を持参してきてそれを見ながら話し合った記憶があります。Mr.Hは私が初めて会ったVCB側のマネージメントの一員で、年齢は私より10歳ほど若かったと思います。当日夜は中心部で待ち合わせて、彼が推薦した有名なベトナム料理レストランで食事をしました。このときはY氏は同席せずに二人だけでしたが何故Y氏が同席しなかったのか理由は覚えていません。Mr.Hとの会話の内容はほとんど覚えていないのですが、終始友好的に食事をしたことは覚えています。このレストランは現在も営業していて、2010年12月には娘と一緒に食事をしました。

業務マニュアル・契約書の作成

これらの業務に関しては日本で事前に何も聞いていなかったのですが、JLC即ち私の単独の責任範囲となっていてかなりの負担になりました。業務マニュアルについては前任者が準備したドラフトがありましたが、ベトナムのリース法の規定を反映させる必要があったこと、及び私の2年後輩の前任者がリースの実務知識に必ずしも精通していなかったこと(これは彼の責任ではなく、JLCのの国際業務に従事していた人全般にいえる事で要は入社以来クロスボーダーの国際業務の経験しかない人が多かったようです)からかなりの追加修正が必要でした。私は自分で言うのも変ですが珍しく両方の経験がありました。もちろん入社以来国際業務に従事していた人たちはその方面で皆優秀でした。特に航空機のチームは世界的なレベルだったと思われます。私は年齢的にも能力的にもとてもそのチームには近づけませんでした。話を元に戻しますが、Y氏からも、口だけは出す主義で、いろいろな注文があり結構大変でした。リース契約書については準備していたドラフトは実はJLCシンガポールの英文契約書をそのまま写したものだったそうで、これは大幅に修正しないと使いものになりませんでした。Y氏から長すぎるので短くするようにとの指示があり、そのこと自体に異議はなかったのですがベトナムのリース法の内容を盛り込む必要もあり、最終的にベトナム語版の作成が必要だったので、Y氏の了解を取りJLCの東京とも相談し、合弁契約の件で利用していた英国系の弁護士事務所に修正等を依頼することにしました。紆余曲折がありましたが後日何とか間に合いました。その紆余曲折については、弁護士費用も含めて結構いろいろあり不愉快な話もあったのですが、この種の仕事にはつきものだと割り切っていました。
  

Posted by tsukuma at 04:34Comments(0)