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2012/09/29
合弁会社の設立のための第1回取締役会


私はそもそも合弁リース会社を設立するためにハノイに居て、毎日忙しく働いていて大袈裟ではなく胃が痛くなるような出来事がたくさんあったにも拘わらず肝心の仕事の件はあまり記憶が定かではありません。ひとつには自分の意思で100%動いていたわけではないことや、嫌なことは早く忘れたいという意識があったのかもしれません。合弁契約については何回ものやり取りの後1997年9月頃最終的に合意に達し各株主の間で持ち廻り(郵送)でサインした記憶があります。しかし合弁会社が動き出すまでにはまだ事前にやることが山のようにありました。とりあえず会社設立のための第1回取締役会を開催する必要がありその準備に忙殺されました。常勤の役員は日本側が社長に就任したY氏と副社長の私の2名でVCB側が副社長と経理責任者と監査役の3名でしたが、非常勤の役員は各株主2名ずつ合計6名ではなかったかと思います。第1回ということで非常勤を含めて全員が参加して開催ということになり場所はハノイで1番古いメトロポールホテルの会議室ということになりました。日本側は非常勤の4名が東京からはるばるハノイにやってきて、私は専らJLCの副社長のC氏のアテンドを担当しました。C副社長は元々LTCBの役員出身で当時もう既に60歳ぐらいだったと思いますが非常にリーズナブルな人物で余計な気を遣わずに済みました。車でハノイ中を案内しましたが昔の日本の風景に似ていると言って非常に興味を持ったようでした。取締役会は会社設立に必要な第1回目の開催ということで儀礼的な性格が強かったと思いますが、常勤役員の待遇等を承認という議題もあり専ら非常勤が決議を行い我々常勤役員は隣の部屋で待機ということが多かったような記憶があります。Y氏も私も隣の部屋で待機していたので日本側の非常勤のための通訳を誰がどうやったのか覚えていないのですが、日本側の非常勤の中にも英語が分かる人がいたし或いはLTCBのO君が我々と一緒にいたので彼が通訳したのかもしれません。こうやって第1回の取締役会も無事終了しいよいよ合弁会社が少しずつ動き出すことになりました。順番は覚えていませんが合弁会社設立については法律に基づき新聞広告を掲載しました。余談ですが、翌年1998年9月にLTCBもJLCも破綻することになりますが、私が所属していた部門はアメリカの大手自動車メーカーの金融子会社が買い取ったので私もその会社に転籍しましたが2003年の9月にその会社を退職することになりました。正式に退職したのは2003年9月4日だったと思いますが冗談ではなく路頭に迷うことになったのですがまさにその日に千代田線の二重橋駅でなんとバッタリC元不社長に遭遇しました。C元副社長は私が失職したのは既に知っていて近くの喫茶店でお茶を飲みながらいろいろと助言をくれました。C元副社長もLTCBの関係で裁判の被告になっていた筈ですがいろいろと心配してくれました。結局C元副社長のルートとは別のところに再就職しましたが非常に勇気づけられました。


Posted by tsukuma at
07:54
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2012/09/23
ハノイの韓国人


韓国に興味があったわけではないですが、私自身がハノイでは韓国系のアパートに住み又アジア通貨危機迄は大勢の韓国人が闊歩していたのでいやでも目立ちました。以下はあくまでも1997年-1998年当時のことです。悪意を持って見ていたわけではないので念のため。
・ 韓国系の企業で働いた経験があったベトナム人から実際に聞いた話ですがビンタというのがよくあったそうです。一説によると韓国での徴兵制度の影響ではとのことでしたが?当時韓国人4-5人がベトナム人に対する暴力行為で裁判沙汰になったという話を聞いたことがありますがそれが事実だったかどうかは分かりません。ロンドンでの話ですが、韓国系の飲み屋で中年の韓国人の客が韓国人の若い女子従業員(留学生?)を思い切り殴っていて驚いて止めに入ったことがあります。
・ 立腹して机をひっくり返すという表現をすることがありますが、実際に韓国人が興奮して机をひっくり返したのを見たことがあります。
・ 韓国人男性の酒の飲み方が我々から見ていると尋常ではないように見受けられました。とにかく徹底的に飲むようでした。
・ アパートの韓国人家庭には多くのベトナム人のお手伝いさんが働いていましたが、韓国人の奥さんがお手伝いさんを足で蹴っているのをよく見かけました。たまたま同じフロアーにヒステリックな奥さんがいてよく見かけたので印象に残っているのかもしれません。言葉の問題がありコミュニケーションがうまく取れないということがあったとは思いますが?ちなみにベトナム人のお手伝いさんは皆英語が堪能でした。韓国人の奥さんが見ていないところでお手伝いさんを慰めたりすると我慢できなくて泣きだすことがありました。
・ 韓国には整形美人が多いと聞いたことがありますが、アパートに住んでいた若い母親と娘の顔形があまりにも違うのでびっくりしたことがあります。
・ まだ言葉を喋らない小さな子供が手を振るのでこちらもニコニコして手を振りますが、親はまだ言葉を喋らない子供に必死になって韓国語で答えさせようとしていました。
・ ゴルフ場で少数だとは思いますがマナーに問題がある行動をよく見かけました。例えば待っている間に前のグループの近くにボールを打ち込むとか(練習のつもりだったようです)、中年の夫人グループが食べ終わったお菓子のビニールの袋をゴルフコースに平気で捨てていくとか。
・ 韓国人の小さな女の子がプールに落ちて溺れかけていたのをたまたま近くを通っていたので助けてあげたら、親から感謝されるどころか犯人扱いされたことがありました。
・ カラオケでホステスさんに払うチップが日本人は20ドルで韓国人は15ドルでした。何故違うのか分かりませんでした。カラオケで韓国人のふりをしたことがありますが直ぐにばれました。韓国人とカラオケに行ったときはチップの金額が違うのもおかしいので(確か)韓国人に合わせて15ドルにしていました。
・ 韓国人の英語はよく分かりました。言語体系や思考体系が似ているのでしょうか?韓国人、ベトナム人、ドイツ人、オーストラリア人、日本人の私が会議という機会がありましたが私と同年輩の韓国人のたどたどしい英語は私以外の人はよく分からなかったようですが、私は100%理解出来ました。韓国人からも日本人の英語について同じよう感想を聞いたことがあります。余談ですがモンゴル人の相撲取りは日本語うまいですね。モンゴル人と分かっているのですが全く違和感がなく、日本人の相撲取りより分かり易いと感じることがあります。
多数派だった韓国人について思い出したことを記載しましたが、どうしても見たことは否定的なことが多くなりますが、勿論好人物も大勢いました。


Posted by tsukuma at
06:49
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2012/09/22
アジア通貨危機

アジア通貨危機は1997年7月からタイを中心に始まったアジア各国の通貨下落現象とのことですが、各国のいびつな資本収支構造に対してヘッジファンドが通貨の空売りを仕掛けたことによりアジア地域で広範な経済危機が起こり、特に、タイ、韓国、インドネシアの3カ国はIMFの融資管理の対象になりました。当時ハノイでもアジア全体の経済に大変な状況が起きていることはテレビ等のニュースで連日報道はしていましたが、ベトナムも日本もかなりの影響を被ってはいたはずですが、私の仕事には直接関係がなく日々忙しく過ごしていました。ベトナムでは少なくとも危機というほどでは無く、その理由としてネットでは「当時は証券取引所が存在していなくて、さらに外国為替取引は実質的な固定相場制のもとで厳しい管理下に置かれていた。ベトナムは金融資本市場が未発達・未開放だったため、アジア通貨危機に伴う為替相場急落による経済の大幅マイナス成長を免れた。」との記載があります。当時、ベトナムドンの対ドル対円のレートにも特に大きな変動は無かったと記憶しています。ただ、私が大きな異変を感じたのは韓国人達の動きでした。韓国がIMF管理になったのは1997年12月だったそうですが、とにかくあれほど大勢いた韓国人があっという間にいなくなってしまいました。韓国は国家も財閥も企業も好調と思っていたのであまりの突然の変化や動きに驚いてしまいました。友人だった大宇のマネージャーは長期投資資金を外貨建ての短期で調達というミスマッチが原因と言っていたような記憶があります。韓国人の数が急に少なくなった影響は至る所で見られ、分かりやすいところでは市内の韓国人専用のカラオケクラブ等は閑古鳥が鳴いていたそうです。韓国に関しては2008年の金融危機の際にもアジア各国で当時ほどではないにしても同じような現象が起こったそうで、一方サムスンを初め韓国企業の業績は好調で最近の国債格付は日本を上回りましたが、構造的に外的要因による影響を受けやすいようです。ベトナムは経済の大打撃は免れたものの、それまで活発であったベトナムに対する海外投資が急速にしぼんできてその後数年は成長率が大きく落ち込むことになりました。ベトナムにおける不動産に対する開発案件も大きな影響を受け、ハノイではそれ程目立ちませんでしたが出張先のホーチミンでは途中でストップしていたオフィスビルやホテルを至るところで見かけました。
Posted by tsukuma at
04:01
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2012/09/17
西湖(Ho Tay、West Lake)


ハノイ市の北側にある一番大きな湖で一周約18kmあるそうです。南側に湖に沿って公園があり市民の憩いの場所になっていました。有名な寺院がいくつかあり、またレストランやカフェが点在していました。南側の公園から見る日没時の夕陽は、派手ではないですが私が見た夕陽の中では世界で一番きれいな夕陽だと自分では思っています。ところで太陽は東から出て西に沈むと思っていましたが、西湖では北に沈んでいたように見えましたが錯覚でしょうか?早朝散歩をしていると大勢の年配の女性たちがいくつものグループを作って派手な動きで体操をしていました。早朝の年配の女性達の体操は西湖に限らず市内の至るところで見られました。昼間散歩していると一人なので写真撮影が好きな若い女性達からよく撮影を頼まれましたが頼んだ後に私が外国人だと認識して皆一様に困惑したような表情をしていました。言葉は分からなくてもカメラのシャッターを押してくれと言われているのは当然分かるので、もう何回シャッターを押したか数え切れません。ベンチに下手に腰掛けているといろいろな物売りの人がやってきます。食べ物やTシャツや雑貨やサッカー籤(と思われる)等々もう様々な人がやってきました。靴磨きやその他の人たちもカモがいると言わんばかりにやって来ました。靴磨きの少年達はこちらが運動靴を履いていても押し売りをしようとするので油断が出来ませんでした。ということでベンチにはなるべく座らないようにしていました。物売り等の人たちはホーチミンにも大勢いましたが、ハノイの場合は一般的に一度断ればそれ以上つきまとわれることはなかったと思いますが、ホーチミンの場合はかなりしつこくて断っても断ってもあきらめないのでかなり参りました。ハノイとホーチミンとの違いのひとつだと感じました。休日の早朝はアパートを出発して時計回りで西湖をよく一周していました。西側から北側にかけて古い住居や市場が続き道路は未整備で早朝にもかかわらず旧式のトラックがひっきりなしに粉塵を撒き散らしながら走っていました。土曜日はよく小学生の男の子が何か言いながら強引に荷台に乗ってきて学校まで走らされました。おそらく「遅刻しそうだから乗せろ」と言っていたのだと思います。2000年頃北側にレジャープール施設が建設され驚いたことがありました。ホーチミンで事業展開していた業者がハノイにも同じような施設をオープンしたそうですが、私がその施設を見たのが冬だったので客は殆んど入っていなくて閑散としていました。そういえば運転手のMr.Cの奥さんがこの辺りの居酒屋で働いていて何回かそこで飲んだことがありました。居酒屋といっても日本の居酒屋とはかなり違いますが文章ではうまく表現できません。東側は一変してビラ風の建物や外資系のホテルが多く外国人が多く住んでいました。一緒に働いていたLTCBのY氏もその辺りに住んでいました。2010年12月に再訪したときにたまたま西湖を車で一周しましたが、10年前とは風景がすっかり変わっていて道路も立派になっていました。昔住んでいたアパートの周りも舗装されていなかった道路や古い住居がすっかり消えていて立派な道路が走っていました。おそらくベトナム人は突貫工事が得意と思われ風景が変わるのも早いのでは?ところで西湖とホアンキエム湖を1週する路面電車が走っているという観光案内をネットで見てビックリしたのですが、日本語での記載ですがおそらくベトナム人が書いたものと思われ、たまたま乗り物の写真がありますが、正確にには路面電車ではなく一般の道路を走る電気自動車のようです。ただ昔は市内の中心で軌道を路面電車が実際に走っていたそうです。そういえば私の故郷の福岡でも40年近く前に地下鉄が開通するまで路面電車が走っていました。


Posted by tsukuma at
05:40
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2012/09/16
不動産


当時のハノイには近代的なオフィスビルの数は限られていて、ハノイと日本の間を往復する際に乗り換えていた香港と比較するとその差は歴然としていました。しかしながらハノイには風情があり高層ビルは似合わないと思っていました。ハノイ駐在中の前半に収容所跡の一部にハノイタワーが完成しましたが、前述したように注目して継続的に見ていたわけではなかったのですが個人的には工事の騒音等もあまり記憶になく工事期間もかなり短かったという印象がありました。ベトナムでは土地は国の所有ですが長期の土地利用権(ベトナム人は永久?)が売買可能だそうで実質所有権と殆んど同じでその土地の上に建設した建物は勿論所有権の対象になります。一般の住宅は、私の印象ですが、①レンガを積み上げて木材は使わない②間口が狭く奥行きが長い③階数は3階以上のウナギの寝床のような住宅が一般的でした。①については詳しくは知りませんが国内で住宅用の木材が少なく値段が高いそうです。②③については、ベトナム人から聞いたところによると不動産税は間口の長さによって課税されるのでそういう形になるそうです。私が行ったことがある海外の都市の中ではオランダのアムステルダムの住宅がやはりベトナムの住宅と同じような形をしていますが、(昔の)不動産税がベトナムと同じように課税されていたからだそうです。ハノイで一般の住宅の建築現場をよく見ましたが、私は素人なので正確なところは分かりませんが、家の支柱になるような柱が見当たらずレンガ等の資材を積み上げていくスタイルのように見えました。地震が発生しないという前提もあったと思いますが、地震が全く無いわけではではなく当時20歳代後半だったスタッフ達が子供の頃(ベトナム戦争終了直後の1970年代後半では?おそらく外国では報道されていないのでは?)ハノイで大きな地震が発生してかなりの被害が出たそうです。また私が駐在中にもハノイからそう遠くない所で結構大きな地震が発生したことを事後で聞いたことがありました。当時スタッフの一人が新居を建築するというので建築途中を見学したことがありましたが、典型的な3階建ての家屋でやはり柱らしきものが見当たりませんでした(竹を何本も使って柱の代わりのような使い方をしていたようです?)。建築コストは、かなりいい加減な記憶ですが、日本円で300-400万円程度だったと記憶しています?1997年秋のアジア通貨危機はベトナムに関しては通貨の国際性があまり無かったことから影響は比較的軽かったと言われていましたが、それでも不動産マーケットでは結構影響が大きく、ハノイでは大型のプロジェクトが少なかったのでそれほど目立ちませんでしたが、出張先のホーチミンではかなりの不動産プロジェクトがストップしていました。


現在の会社に再就職して約9年になりますが、2005-2006年頃親会社がベトナムでの不動産投資を検討するということで主にホーチミンの案件でしたが意見を求められたことがあり、昔の先入観があるのでそもそもベトナムでの不動産投資というのがピンとこなかったのですが、不動産評価の前に投資環境、配当、為替、通貨等の基本的なことを全く理解していなかった(というより考えていなかった)ようで素人がエイヤーでやろうとしていて、素人がいい結果を出すことがあるのは分かってはいるのですが、やはりヤンワリと否定的な意見を提出しましたが結局別の理由で実行しなかったようです。ベトナムの不動産マーケットを短期的に見た場合には明らかに供給過剰の状態ではあるようですが、それにしてもベトナムで不動産投資という話が出てくること自体が時代は変わったという気がします。今ではハノイでも韓国系とのJVが中心となって次々と超高層ビルが建設され写真だけ見ているともう私が知っているハノイとは全然違う風景が広がっています。幸い2010年12月に再訪したときはホアンキエム湖を中心とする中心部の風景は昔とそれ程変わっていなかったのでホットしました。


Posted by tsukuma at
03:36
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2012/09/14
ベトナム・コーヒー


ハノイに赴任するまでベトナムがコーヒーの輸出国であることは全く知りませんでしたが、実はブラジルに次ぐ輸出量を誇り最新の統計ではブラジルを抜き世界1位になったとの報道がありました。ハノイでは大量の練乳を入れたグラスに濃いコーヒーを加えるのでとにかく濃くて甘たるいのですがベトナム人は当然のようにそれを飲んでいました。アイスコヒーも同じようなスタイルで飲んでいたようです。コーヒーを入れる際にはもともとフランスが起源のようですがアルミ製のコーヒーメーカーを使っていたようでハノイでよく見かけましたが、家内がことのほか気に入りインドチャイナというレストランで売り物ではないのに無理やり売ってもらったものが我が家にありました(捨てていないのでどこかにあるはずですが?・・写真はネットから)何故、コーヒーメーカーを売る店ではなくこのレストランで買ったのか理由は覚えていませんが多分衝動的なものだったと思います。ちなみにこのインドチャイナというレストランは有名らしいのですがネットによれば今でも営業しているようです。


Posted by tsukuma at
20:41
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2012/09/09
ベトナム人について雑感(2) 若干不思議な出来事(3)


あくまでも1997-8年のことですので念のため。
勉強熱心
当時若い人は例外なく夜は夜学等に通って勉強していました。内容は会計だったりPCだったり外国語だったりしたようです。口が悪い外国人の中には自分が通って確認したわけでもないのに内容はたいしたことはないという人も居ましたが、私はベトナム人の若い人たちが勉強熱心なことにただただ感心していました。とにかく若い人たちは夜も忙しいのでベトナム人を相手に一杯という時は比較的年配の男性(合弁当初はベトナム人の副社長しか居ませんでしたが)か運転手のMr.Cぐらいしか相手にしてくれませんでした。
複式授業(注:1997年のことです)
ハノイに駐在したばかりの頃の話ですが、土曜日の夕方に小学校の授業を終えた子供達を親が迎えに来ている光景に出くわしたことがありました。当時ベトナムは週休2日制ではなかったのですが、それでも小学生達が土曜日の夕方まで勉強しているのかと思って驚いたことがあります。ただ、翌週事務所でMs.Vに確認して状況が理解できたのですが、当時ハノイの小学校では複式授業が実施されていて午前の部と午後の部に分かれていて、私が土曜日の夕方に出くわした光景は午後の部の子供達の帰宅風景だったようです。とはいえ、私にとっては土曜日の午後に授業していること自体驚きでした。
日本語を喋るお手伝いさん
これは私ではなく家内が経験したことですが、前述したように家内はT海上のY氏夫人にお世話になっていましたが、ある日家内が夫人に電話したところ夫人は留守でベトナム人のお手伝いさんが代わりに電話に出たそうで、そのお手伝いさんはかなり流暢に日本語を喋っていたそうです。後日家内が夫人に会った時に「お手伝いさんは日本語が上手ですね」と言ったところ、夫人はお手伝いさんが日本語を喋ることを全く知らなかったとのこと。たまたま知らなかったということだったと思いますが。
プライバシー
国によってはプライバシーが無いという所もあるようですがハノイも若干そういうところがあって、例えばMs. Vは私のアフターファイブの行動を良く知っていました。運転手のMR.Cから聞いていたようです。ただ不思議なこともあって合弁会社設立後の話ですが、ベトナム人の副社長が運転手のMr.Cも含め会社関係者が誰も知らない筈の前の晩の私の行動を知っていたことが1-2回ありました。人に知られて困る行動はしていなかったのでそのこと自体は構わないのですが、何故知っているのか不思議でした。ちなみに同じような話は別の日本人からも聞いたことがありました。
Posted by tsukuma at
05:15
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2012/09/06
ベトナム人について雑感(1)


ベトナム人については一般論としては勤勉・器用等いろいろ評価がありますが、以下個人的な経験に基づく感想です。
1. 「デブ」「ハゲ」「メガネ」
1997年当時ベトナム人には「デブ」「ハゲ」「メガネ」がいないというのが私の当初の印象でした。「メガネ」については着用している人を殆んど見かけたことがありませんでした。関係あるのかどうか分かりませんが、ホーチミンに出張して工場団地でメガネのフレームを製造していた日系の会社を訪問したときに、日本人の責任者がベトナム人は手先が器用な上に目が非常に良いので細かい作業に向いていて仕事を覚えるスピードが日本人に比べて非常に速いということで、とにかくベトナム人は目が良いということを盛んに強調していました。ただ私が駐在していた短い間にメガネを着用する人が顕著に増えていったような記憶があります。2010年12月にハノイを再訪したときには、もはや「メガネ」についてはかなりのベトナム人が着用していました。特に女性のメガネ着用率はかなり高いのではと思います。「デブ」についてはデブという程ではありませんが、若い世代で肥満気味の人が増えているような気がしました。食生活の変化によるものでしょうか?「ハゲ」がいないということは依然として該当するのではと思います。ベトナム人で禿げている人を少なくとも私は見たことはないような気がしますが?
2. 数字に強い
元々の民族的特質なのか教育によるものか分かりませんが、数字にはかなり強いのではと思います。数字とは少し違うかもしれませんが国際的な数学のコンテストでは上位にランクされることが多いようです。また暗記・記憶に優れているということだと思いますが、Ms.Vと一緒に日系の商社に出かけたときにその商社から複数の先にベトナム語で電話をかけるという状況があったのですが、Ms.Vはその複数の電話番号をメモもせずに次から次に電話していたので驚いたことがありました。まるで頭の中にメモ帳があってそこに電話番号が書かれているような感じでした。日本人の商社の所長はベトナム人のそういう特性を知っていたようで、驚く私に対して「ベトナム人の女性は皆こうだから」と教えてくれました。その所長は「女性」と限定して言ったと記憶していますが、男性がそうでないのかどうかは私には分かりません。ちなみに日本人の男性である私はたった1個の電話番号でもメモをしないととても覚えられません。
Posted by tsukuma at
05:06
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2012/09/05
日本企業、韓国企業、その他の企業


当時ハノイに日本人の数は少なかったのですがそれでも進出していた日本企業は結構あったようです。合弁設立準備の段階では日本企業を含め他の企業と会う機会も限られていましたが、それでも折に触れて商社、建設、証券等の人たちと会った記憶があります。個人的に全くコネクションはありませんでしたが日本のF銀行がハノイ支店を開設していて、F銀行はその後他行との合併で今はM銀行になっていますがハノイ支店は引き続きM銀行が継承しているようです。とにかく日本人の人数は少ないものの夜は日本レストラン等でバッタリ会ったりしていたので正直油断が出来ませんでした。日本や日本人が多いイギリス等ではなかなか気がつきませんでしたが、業種に共通の人柄であるとか業種が違うと人種が違うということが良く分かったりということもありました。当時、私の記憶ではベトナムに進出していた国別の企業数・人数は台湾>韓国>日本で、中国がどうだったかは覚えていないのですが、日本人はホーチミン3にハノイ1の割合ではなかったかと思います。韓国系のアパートに住んでいたこともあり韓国人ともたまに付き合っていて、韓国企業の動向までは分かりませんでしたが個人的な印象ではハノイでは日本人は企業の駐在員が中心であるのに比較して、韓国人はそれも含め様々な層が進出して来ていてかなり幅広いと思いました。また当時ベトナム戦争に参加した韓国人達がまたベトナムに戻ってきて事業を行っているという話もよく聞きました。これはハノイよりもホーチミンの方が多かったとは思いますが。韓国レストランの数が多いのにわざわざ日本レストランで時々韓国人達が日本酒の一升瓶を飲みながら酩酊していました。日本酒が飲みたかったのでしょうか?ただ驚いたのは1997年の秋のアジア通貨危機を契機として韓国がIMF管理に入るとあんなに大勢いた韓国人達があっという間に居なくなりました。私の記憶では統計上台湾が一番多かったはずですが、台湾の企業やビジネスマンとは遭遇したことがありません。近くに台湾系のホテルがあり韓国人と一緒にカラオケに行ったりしていましたがホテルの支配人以外台湾の人に会ったことがありません。気がつかなかっただけかも知れませんが、異なる土俵で活躍していたのでしょうか?あれから10年経過し韓国が盛り返しベトナムの新聞等を見ても韓国があらゆる分野で目立っています。韓国の広告が多いのは昔もそうでしたが。そういえば最近韓国人とベトナム人の結婚が多いという話を聞いていましたが、2010年12月にハノイを再訪したときに空港のバゲージ・クレームで大勢の韓国人とベトナム人の夫婦らしきカップルを見ました。
Posted by tsukuma at
05:31
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2012/09/03
床屋


最初に床屋に行ったときは運転手のMr.Cが連れて行ってくれたと思いますが、何時もハノイの中心街にある同じ床屋に行っていました。30代の(おそらく)夫婦がやっていましたが、それ以外に若い女の子が大勢いて(10人ぐらい?)私の目には何時も暇そうに遊んでいるように見えました。髪型にうるさい人は言葉が通じない床屋は嫌でしょうが、私は気にしていなくてshortだけ通じれば問題ありませんでした。カットは直ぐに終わったのですが、ベトナム式(多分フランス式)の洗髪の後若い女の子が顔のマッサージを始めてこれが長々と続くので初めてのときは気持ち悪かったのですがベトナム語で止めてくれが言えずに最後まで付き合ってしまい終わったときはホットしました。床屋で長時間の顔のマッサージを想定していなかったので戸惑いましたが、2回目以降は心の準備が出来ていたので平気でした。料金は3万ドン(当時300円ぐらい)だったと思います。結構有名な床屋だったそうで外国人もたまに来店していました。西洋人が殆どでしたが日本人も一度見かけたことがありました。ちなみに大宇ホテルの中に韓国人がやっていた床屋があり試しに1度行ったことがありますが韓国人の床屋さんは好人物なのですが、料金が10倍ほどで洗髪も日本と同じスタイルでした。ホテルの中でこの床屋の前をよく通過したのですがあまりお客は入っていなかったようでした。ハノイには路上で営業している床屋さんが大勢いて一度行こうと思いながら結局行かなかったのですが、ハノイの名物のひとつだったそうです。そういえばロンドンに居たときは会社の近くのキプロス人の親子がやっていた安い床屋(確か約10ポンド=現在約1,300円、但し当時は2倍程度。高いところは30ポンドぐらいでした。)に行っていました。息子はおそらくイギリス生まれでイギリス人と同じような英語を話していてあまり余計な会話はしなかったのですが、親父の方は話好きで憎めない陽気な人でしたが分かりにくい英語でずっと喋り続け何時も閉口していました。ロンドンの洗髪も安いところは日本と同じスタイルだったと思います(?)。
Posted by tsukuma at
05:29
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