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Posted by vietnhat at

2012/11/17

ホーチミン

































ベトナム赴任時及び帰任時を含めホーチミンは数回訪れたと思いますが、特に合弁会社設立後はマーケッティングのためY氏と一緒に出張したことがありました。このようなマーケッティングのための出張には2-3回行ったような記憶があります(一度はY氏抜きで一人だったような記憶もあります?)。ハノイとホーチミン間は東京と福岡や札幌間と同じぐらいの距離で、飛行機で1時間半程度だったのではと思います。今はどうか知りませんが、当時は航空料金がベトナム人と外国人は別になっていて、外国人はパスポートの呈示を求められていましたが、うっかり忘れてしまった人がいたという話を聞いた記憶があります。パスポートを忘れたので搭乗できなかったかどうかまでは記憶にないのですが、おそらく搭乗できたのではと思いますが?合弁リース会社はハノイに本拠を置いたわけですが、当時支店を開設するには会社を設立するのと同じくらいの手間がかかると言われていました。営業案件の場所は特に制限は無かったと思いますが、ただ現実問題として遠方の営業案件をフォローできるのかと個人的には思っていました。Y氏はハノイの前はホーチミンに駐在していたので土地勘もあり、私よりは抵抗が無かったようです。ホーチミンでは市内の主にLTCBのお客様や市内・周辺の工場団地内のお客様を中心に訪問しました。結果が直ぐに出てくる話ではなかったのですが、個人的には随分と勉強になりました。出張のスケジュールはY氏主導で決められていたので、土地勘がない私は常に市内外の何処辺りに居るのかよく分からなかったのですが、とにかく工場団地がたくさんありました。ベトナムの輸出加工区について当時は税金関係を中心にかなり勉強したのですが、今では残念ながらすっかり忘れてしまいました。ただベトナム経済に占める輸出加工区の重要性は今でも大きいようで、ホーチミン周辺は勿論ハノイやその他の都市でも重要性が増しているようです。ホーチミンにはLTCBのK氏がフランス系の銀行にY氏の後任として出向していて、我々の出張時には付き合ってくれることが多かったようでした。K氏はY氏の1-2年後輩だったと思いますが、Y氏とは異なりザックバランな性格で行動パターンも分かりやすい人でした。そういえばK氏の苗字は亀●でしたが、ベトナム人の運転手は彼のことを「かめさん」と呼んでいました。夜は日本人のたまり場になっている複数のバーに連れて行ってくれたりしましたが、ハノイに比べて日本人の数が圧倒的に多く設備も近代的な感じがしました。バーでは顔見知りのハノイ駐在の若い商社マンとバッタリと会ったりしました。私は全然そうは思わなかったのですが、その若い商社マンはハノイにずっと居ると息が詰まってしまうので時々ホーチミンに来て羽を伸ばすのだと言っていました。私は逆でホーチミンに居ると何か落ち着かない感じがしました。仕事を離れたホーチミンの印象は、ハノイに比べてとにかく混雑していて騒音がすごいということでした。モーターバイクの恐ろしいほどの大群がまるで蜂のように飛んでいるような感じがしたものです。土地勘が無かったせいもありましたが夜は何か不気味な感じがしました。物売りの人やシクロの人が大勢いて、ハノイのように一度断れば終わるという訳ではではなかったことが多く、ハノイとの違いを感じた部分のひとつでした。宿泊していたサイゴンプリンスホテルはサイゴン川の近くにありましたが、朝はサイゴン川の畔を散歩したりしていました。少し行くと動物園があったと思います。またホテルの近くの一般住宅が密集した地域を散歩したりしていました。ホーチミンはベトナム最大の商業都市ですが、やはり個人的にはハノイの方が落ち着いた感じがして、ハノイに戻るとホットしたものでした。

  

Posted by tsukuma at 04:11Comments(0)

2012/11/11

生もの・生水


















ハノイに駐在していた間に会社のスタッフの家に招かれたことが結構ありました。皆で集まってワイワイやるのが好きなようです。会社でもスタッフの誕生日には必ず会社の会議室に集まってお茶とケーキでお祝いするのが常でした。合弁会社設立直後にチーフアカウンタント(経理責任者)の家に名目は忘れましたが全社員が招待されたことがありました。家はハノイ市の中心部の集合住宅にあり年齢は30代半ばでしたが独身で両親と一緒に住んでいたようです。殆どのスタッフが集まりましたがもう一人の日本人のY氏は欠席でした。このとき出された料理は生春巻きが中心だったと思います。生の野菜や海鮮類をライスペーパーで巻いて食べるわけですが、生春巻きは今では日本でもすっかり定着していて若い人の間ではブームになっているようです。実は、当時東京の本社から日本と気候が異なる東南アジアの勤務に慣れていない私に対して固く言われていたのが生ものを絶対口にするなということでした。前任者が病気になったこともあり会社も私も若干神経質になっていたようで、実際赴任当初は歯磨きの水もミネラルウォーターを使用していました。しかし現地で生活していると例えば出された生春巻きを食べないわけにはいかず、ベトナム人の副社長と行ったレストランでは川魚の生の刺身が出てきて、この時はベトナム人が生魚を食べることを知らなかったので不意をつかれたような感じでしたが、やはり食べないわけには行きませんでした。ただ現地の生活に慣れてくると普通にやっていれば大丈夫なことも分かってくるので歯磨きの時にミネラルウォーターを使うことも止めました。ハノイの日本人に話を聞くと一度や二度は食べ物が原因で体調を崩したことがあったようですが、幸い私は食べ物が原因でそういうこなったことはなく丈夫に出来ているようです。精神的なストレスで胃腸に異変が生じるのは日常茶飯事でしたが。ベトナム人は冷たい水はあまり飲まないようで専らお茶を飲んでいたようです。一度、Ms.Vのお婆さんが一人暮らしをしていた家に皆と一緒に招待されたことがありました。このときは家内もハノイにいて一緒でした。HITCビルから少し西に行った地域だったと思いますが、老人が住む少し古いベトナム式家屋を訪れる機会はなかなか無かったので貴重な経験でした。裏庭にコンクリートで作った水溜があり少し郊外に行くとこの種の水溜はよく見かけたような気がします。もしかして水道設備がなくてその代用品だったのかもしれません(確認したことがなかったので定かではありません)。ビールを冷やす習慣がなかったようで、私はやりませんでしたがビールに直接氷を入れて飲んでいたようです。ビールに氷を入れるのはベトナム航空の機内のサービスでも普通にやっていたので当時は一般的だったようです。アパートでは「LaVie」というミネラルウォーターを飲んでいました。アパートの受付に電話するとLaVie一箱を直ぐにもってきてくれ、暑い夏に外出の際にはまるで命綱のように必ずLaVieを1本持って出かけました。  

Posted by tsukuma at 06:04Comments(0)

2012/11/10

ハノイ対話(我々はなぜ戦争をしたのか)



























標題は私が考えたわけではなく1998年の夏ごろにNHKで放送された番組のタイトルです。ベトナム戦争は1975年に終わりましたが、それから約20年経った1997年6月にハノイのメトロポールホテルでベトナム戦争を当事者として戦った両国の指導者が一堂に会して歴史的な対話が実現したそうです。アメリカのベトナム戦争当時の国務長官であったマクナラマ氏(2009年没)が回顧録を発表したことがきっかけとなったようですが、対話が行われた1997年6月といえば私はハノイに駐在中で合弁会社の設立準備が佳境に入り忙しくしていた時期であり、対話場所であるメトロポールホテルも一人で近くまで行ったときは寄ることが多かったのですが、当時私はこの対話について全く知りませんでした。毎日読んでいた英字新聞でも見た記憶がなく、日本人のY氏やベトナム人スタッフからもこの件について聞いた記憶がありません。ということで1998年に日本でこの対話に関するNHKのスペシャル番組を見たときはかなりの衝撃を受けました。今ではベトナム戦争が終わって40年近くが経過しておりベトナム戦争の記憶もだんだんと薄れていくとは思いますが、私と同世代以上のベトナム人の戦争体験者もまだ多いと思います。戦争の記憶はそう簡単には消えてなくならないと思います。興味がある方は標題と同名の本が出ているようです。
話は変わりますが、メトロポールホテルがよく登場しますが、同ホテルはフランス植民地時代の1901年の創業で今でもハノイでNo1のホテルです。正式名称はソフィテル・メトロポール・ハノイ・ホテルで、ソフィテルは、フランスに拠点を置くアコーホテルズの最上級ブランドのホテル・チェーンだそうです。ソフィテル・メトロポール・ハノイ・ホテルは2001年に100周年のお祝いをやっていました。ベトナム戦争中は各国大使館がこのホテルに居を構えていたそうです。そういえば北爆の時にホテルから若い女性が米軍機に向かって機関銃を撃っている写真を見たことがありました。ちなみに日本とベトナムはベトナム戦争終結直前の1973年に国交を樹立し(当時は北ベトナムだと思いますが?)戦争終了・南北統一の1975年にハノイに大使館を設置したようです。とにかく格調高いホテルで日本ではちょっとお目にかかれない雰囲気がありました。宿泊したことはありませんが、特に気が滅入った時には(毎日気が滅入っていましたが)メトロポールホテルのコヒーラウンジでフランス式(と思われる)中庭を見ながらオレンジジュースを飲んで心を落ち着けていました(オレンジジュースは3-4ドルだったような記憶があります。ホテルの外と比較すればかなり高い金額でした)。
 
 



  

Posted by tsukuma at 05:09Comments(0)

2012/11/03

ベトナムと私の関わり(少し大げさですが)



















私は1952年生まれで今年60歳になりました。日本の高度成長とその後の低成長とともに今までの人生を過ごしてきました。ベトナムという国は我々の世代には諸外国の中でもマスコミを通じて一番多く見聞きした国ではないかと思います。子供の頃よく行っていた映画館では本編の前に必ずニュース映画があり戦争のニュースをよくやっていましたが、あれはおそらくベトナムではなかったかと思います。中学・高校・大学の頃はテレビで毎日のようにベトナムに関する報道があり特派員報告でもよくベトナムのことを取り上げていました。サイゴン、ダナン、ハノイ、ハイフホンを初めとするベトナム各地の地名は行ったこともないのに耳にタコが出来るほど聞いていてすっかり身近な地名になっていました。また、テト攻勢、北爆、ホーチミンルート等ベトナムに関する用語はおそらく意味はよく分かっていなかったと思いますが頻繁にテレビ新聞等を通じて入ってきました。高校時代は日本でも学園紛争の嵐が吹き荒れ多くのスローガンの中に「ベトナム反戦」が必ず含まれていました。そのスローガンを叫ぶ人たちベトナムに行ったことがある人はおそらく居なかったと思います。私が大学に入学したのは昭和46年(1971年)4月で学園紛争はかなり下火になってはいましたが、それでも混沌とした雰囲気が広がっていました。少しローカルな話になりますが、私が通っていた大学は福岡市の中心から少し西の六本松というところに教養部があり1年半(医学部系は2年)をそこで過ごした後は東の箱崎にあった専門課程に進む仕組みになっていました(「あった」と過去形で書いたのは福岡市の隣の糸島市に全学が移転して現在はそこにキャンパスがあるそうです)。福岡市内の高校を卒業して自宅から六本松の教養部まで歩いて通学していてそれ程新鮮味はなかったのではと思います。教養部は全学部の学生が居たわけですが、たまたま台湾出身の医学部の留学生と知り合いになり彼を通じて多くの留学生を知ることになりました。殆んど台湾の医学部系の留学生でしたがその他のアジア出身者もいて、その中に1学年上の医学部のサイゴン出身のベトナム人がいました。年齢は少し上で22-3歳だったと思いますが、おそらく彼は私が初めて出会ったベトナム人ではなったかと思います。ちなみに日中国交回復は翌年の1972年で当時は私が知る限り中国本土からの留学生は居ませんでした(大学後半に居たような記憶があります)。第二次対戦前には多くの中国人留学生が在籍していて後に作家になり中国共産党の幹部になった郭沫若も医学部を卒業したそうです。私は当時郭沫若のことを知らなかったのですが台湾人の留学生から聞いて初めて知った次第です。台湾人でも同じ中国人として郭沫若を誇りに思っていたようです(そういえば東の箱崎にあった郭沫若が下宿していた古い建物の保存運動がありましたが結局取り壊したようでした)。六本松の教養部には留学生のお世話をする担当教官が居て、その研究室の隣に留学生の部屋があり私もたまに顔を出していました。同じ台湾出身者でも親が台湾出身か大陸出身かで台湾語が通じたり通じなかったり、台湾出身者と香港出身者が共通の中国語がないので日本語で話をしていたり(同じ中国語なので少し勉強すれば喋れるようになるらしいのですが)、私にとっても初めて知ることが多くて新鮮でした。言葉といえば福岡県出身者の次に多かった鹿児島県出身者が普段は標準語がうまいのに、鹿児島県出身者同士で話す鹿児島弁が全く理解できず日本語に聞こえなかったのが不思議な体験でした。鹿児島弁に比較すれば留学生たちの日本語は非常に分かりやすかったと思います。その中ではベトナム人の留学生の日本語は一番分かりにくかったという記憶があります。おそらく日本語とベトナム語とはかなり違う部分があったせいだと思いますが、その時はそんなことは考えもしませんでした。ベトナム人の留学生は上級生に2-3人いたという話を彼から聞いた記憶がありますが、私は会ったことはなかったと思います。彼もベトナム語を話す機会が少なかったのでベトナム語を話すときは考えながら話さないとベトナム語が出てこないと言っていました。専門課程に進んでからは箱崎のキャンパスは広く、しかも医学部系のキャンパスは少し離れたところにあり(路面電車で4-5駅)殆んど会ったことがなかったと思いますが、私の卒業間近に大学でバッタリ会った記憶があり丁度長く続いたベトナム戦争が劇的な形で終わった頃でサイゴンの家族と連絡が取れないと言っていました。書いていて思い出しましたが大学2年か3年のときにその時の仲間達と九州の中心部の九重にあった大学の山の家に泊まり(筋湯温泉というところだったと思います)九重山に登ったことがあり、その時に鹿児島大学のサイゴン出身のベトナム人留学生が一緒でした。片言の鹿児島弁を披露してそれを鹿児島出身の日本人が標準語に通訳して皆で大笑いをした記憶があります。そういえば彼は日本はテレビもラジオも外国語会話の番組が豊富で日本人は恵まれていると言っていて、こちらはそれを聞きながら体を小さくしていました(添付の写真はおそらくその時の写真?・・白黒だったのですね)。当時知り合いになった留学生や日本人も今は全く音信不通ですが元気にやっていることと思います(日本人の1人と東京の地下鉄でバッタリ会ったことがありましたがそれも随分昔の話です)。社会人になってからは、ベトナムとは全く縁がなく有楽町にあったサイゴンというベトナムレストランにたまにランチで行くぐらいでした(このレストランがあった日比谷パークビルは立替られて現在有名ホテルになっていると思いますが、サイゴンは隣の古いビルに移って今でも営業しているようです)。英国に駐在していた時は近くにチャイナタウンがあり、その中のベトナムレストランにたまに行っていました。但し、そのレストランはベトナム人が運営していた本物のベトナム料理店かどうかは定かではありません。また当時パリに出張してタクシーに乗るとかなりの確率で運転手がベトナム人でした。東洋人である私が乗ると必ず国籍を聞かれたのですが日本人だと言うと一様にがっかりしていたようで、私もフランス語が出来ないので会話はそれ以上進みませんでした。パリの街角では休息中の大勢のベトナム人のタクシー運転手がたむろしていたのをよく見かけました。社会人になって20年間はベトナムやベトナム人とは殆んど接触することはなかったのですが、1997年1月に突然ベトナム・ハノイ行きを告げられることになります。ベトナムが1975年のベトナム戦争終了後約10年間の紆余曲折を経て1986年にドイモイ政策を打ち出して更に約10年を経過していた時でした。  

Posted by tsukuma at 09:12Comments(0)