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Posted by vietnhat at

2012/06/28

HITCビル





ハノイ市の西の外れでノイバイ空港からも近かったHITCビルの2階にLTCBとJLCの狭い共同準備室がありました。シンガポール(香港だったかもしれません)の不動産会社が開発したもので、当時は8-9階建ての本オフィスビルしかありませんでしたが拡張の計画があり複合施設の完成模型図を飾っていたので、現在はもっと規模が大きくなっているかもしれません。よく覚えていないのですがHITCはHanoi International Technology Centre(Centerではなく英国式のCentre))の略だったと思います。Technologyは我々には関係ありませんでしたが、別のフロアーに研究施設みたいな部屋がありました。テナントは我々以外は全てヨーロッパやオーストラリアの企業でした。中2階に催事場みたいなものがあり、1階と中2階との間にエスカレターがありました。何か催事があるとき以外は動いていませんでしたが、当時ハノイでエスカレーターは珍しかったのではと思います。狭い準備室でY氏とMs.LとMs.Vに私の4人で仕事をしていました。運転手の2人は外で他の運転手さん達と待機していました。Y氏は、私や秘書のMs.Lに1日中小言を言っていることが多く(小言を言っているように私には聞こえました)、私に対しては当然日本語で話すのですが、日本語が分からない女性2人も雰囲気で日本語の会話の内容が分かる時があるようで、Y氏が居なくなると女性2人が「今の日本語こう言っていたのでしょう?」「その通り!」という会話が3人の間でよくありました。食堂は何故か外国人用と一般用(別に明確に分けているわけではなかったのですが)があり、普段はY氏と一緒に外国人用を利用していましたが、Y氏が居ないときは女性2人と一般用の食堂を利用していました。そちらの方が、メニューも多く安くて活気がありました。ベトナム米は少しパサパサしていたような記憶があります。当時は周りは完全にハノイの田舎の風景で、前面には教育大学があり(ベトナム語で大学は”Dai Hoc”だったと思いますが?)学生らしき若者が大勢いました。屋上には何故か小さなゴルフの練習場がありましたが誰かが練習しているのを見たことはなかったような気がします。コピーやFaxは管理室で借りていましたが、コピーは、紙の質が悪いのに加え雨季には紙が湿っているのが見ていて分かるほどでよく紙が詰まりました。極力コピーはしないようにしていました。Faxは、合弁交渉先のVCBに送付することが多かったのですが、何故か午後4時をすぎるとFaxを送付できないことがあり夕方は送付しないようにしていました。後日理由が分かったのですが従業員が帰宅するときにはFaxのコンセントを抜いているようでした(メモリがどうのという専門的なことは私は分からないのですが)。文章で書いていると、毎日平和な日々を過ごしていたような印象を受けるかもしれませんが、実は色々大変なことも結構多かった毎日でした。  

Posted by tsukuma at 05:36Comments(2)

2012/06/24

ボヘミアングラス



ボヘミアングラス

わびしい単身生活に少しでも潤いをと思い花を飾る花瓶を買うことにしました。運転手のMr.Cがレーニン公園(今はレーニン公園ではなく別の名前で呼ばれているようですが)の近くのガラス細工だけを売っている通りへ連れていってくれました。ちょっと高いとは思いましたが20-30ドルぐらいの花瓶を買ってアパートの部屋で花を飾っていました。ハノイは花の種類が豊富で綺麗です。後日家内がハノイに来たときに花瓶を見てこれはチェコのボヘミアングラスだから花を飾るのではなく花瓶そのものを飾るのだと言い出しました。よく見るとたしかにしボヘミアングラスだという表示がありました。私が値段を言っても桁がひと桁違うと言って信用しません。そこで花瓶を買った通りへ連れて行ったところ彼女はビックリ仰天し、それからというものハノイに来るたびにボヘミアングラスを買い込んでいくようになりました。そういえば、会社があったJR有楽町駅前の新有楽町ビルの一階にボヘミアングラスの直営店らしき高級そうなお店があるのを思い出しました。とても我々が立ち寄れるようなお店ではありませんでした。大相撲の優勝力士に贈呈もしていました。ベトナムとチェコは昔から友好関係にあり多くのベトナム人が留学生としてチェコに滞在していたという経緯があるようで、安く仕入れることが出来るルートがあるという話を聞いたことがあります。古いベトナム人の留学先はいわゆる社会主義国が多く、そう言えばMs.Vの母親はキューバだと言っていました。社会主義国以外では共産党同士の関係が深かったイタリアが多かったようです。それにしても何故ベトナムと日本でこうも値段が違うのか、物の値段が分からなくなった出来事の一つでした。写真は我が家で飾っている花瓶と小さなグラスです。グラスには確かに”Made in Republic of Czech”とチェコ語ではなく英語で書いたシールが貼ってあります。
  

Posted by tsukuma at 05:22Comments(2)

2012/06/24

路地裏・自転車(1997年の話です・・念のため)

路地裏・自転車(1997年の話です・・念のため)

ハノイの住宅地は、狭い路地が迷路のように曲がりくねっておりすぐに迷子になります。磁石を持って行けと言われたのですが、磁石があっても分からないものは分かりません。ハノイは非常に安全な町なので危険だと思ったことはありませんが、当時は外国人が少なく路地裏を歩いていると怪しそうな外国人だということでジロジロ見られてしまいました。歩いていて迷子になったら言葉ができないのでどうにもなりません。そこで、健康維持も兼ねて自転車に乗ろうと思い自転車屋さんに連れていってもらいました。運転手のMr.Cは盛んにベトナム製よりも中国製の自転車を買うように勧めましたが、休日に乗るだけなのでベトナム製を購入することにしました。ベトナム製が30ドルで中国製が50ドルぐらいだったと思います。しかし、Mr.Cが何故しつこく中国製を勧めたのか理由はすぐに分かりました。修理代だけで軽く30ドルは超えたのではと思います。極めつけは(文章でうまく表現出来ませんが)サドルの部分が外れたことです。飛行機で言えば空中分解ですが、一瞬何が起こったのかが分かりませんでした。ちょうどホーチミン(バーディン)広場を走っている時だったので、大勢の人がいて爆笑の渦だった記憶があります。ただ、当時のハノイには早朝から100メートルおきに自転車・バイクの修理屋さんがいたのであまり困ったことはありませんでした。空気入れが1回1000-2000ドン(当時のレートで10円ぐらい)ぐらいだったと思います。

自転車の続き

自転車でハノイを走り回りました。路地裏も自転車だとあまり気がつかれませんでした。外国人が自転車でウロウロしているとは思わなかったようです。自転車で色々な所を回ると改めて一般の人々の暮らしの一端が見えてきました。貧しいながらも元気いっぱい楽しそうに生活していました。ハノイの通りは100%とは言いませんが、殆ど一度は通ったのでは?アパートがあった西の郊外から東に向かって中心部を通り紅河まで30分も走れば到達したのではと思います。直進だけでなくモーターバイクの洪水の中を左右にも曲がりました。西湖を一週したり、ロアンビン橋を渡り紅河の向こう側にもよく行きました。一度、緑がきれいなハノイの中でもより緑が深い何かの施設内の道路(私には普通の道路に見えたのですが)を通過しようとしたら、他のモーターバイクや自転車は普通に走っているのに、私だけ若い警官から止められたことがありした。穏やかな表情でしたがお前は駄目だと言っているようでした。場所は西湖と官邸街との間ぐらいだったと思いますが、翌日Ms.Vに聞いたら、おそらく軍の施設ではないかとのことでしたが真相は分かりません。ブレーキがない自転車が結構走っていて、よく後ろからぶつけられました。ブレーキがない自転車を止める時は足で蹴って止めていました。後ろからモーターバイクに引っかけられたこともありました。今テレビでハノイの交通事情を紹介する番組を見ると、あの中をよく自転車で走っていたなと改めて思います。


  

Posted by tsukuma at 05:06Comments(2)

2012/06/23

初めての休日



初めての休日

ハノイの最初の1週間はアットいう間に過ぎて初めての休日を迎えました。当時のベトナムは土曜日も仕事をしていて、それも夕方までといこところが多かったと記憶していますが我々は土曜日は休みにしていました。話がそれますが、1985年から2年間国内でJVに出向をしていて出向直後に親元のJLCが完全週休2日制になったのに出向先のJVは土曜日も夕方まで仕事をしていてえらい損をしたなと思ったこともありますが、当時は若かったのでめげずに一生懸命仕事をしていました。さてハノイに戻りますが、土曜日は市内の名所・博物館巡りをした記憶があります。1997年だったので予想もしなかったたレーニン像を見たときは正直驚きました。その時は世界で現存する唯一のレーニン像ではないかと思ったのですが、数年前にテレビを見ていたら旧ソ連のどこかかの国だったと思いますがレーニン像が写っていました。2月のハノイは天気は悪いですが我々の感覚ではそれほど寒くはないのですが、ベトナム人はモーターバイクに乗るせいもあると思いますが、まるでスキーに行くような格好で、それもかなり古いファッションで、ビックリするような厚着をしていました。大宇のそばの湖にトゥーレー公園(Cong Vien Thu Le)があり、日曜日に散策した時のことはよく覚えています。動物園と遊園地があり大勢の人が訪れていました。動物園には象や猿の他数種類の動物がいました。ベトナムの山間部には野生の象が生息しているという話を聞いたことがあります。遊園地の乗り物はおそらく旧ソ連製か東欧製だと思われ、私が子供の頃遊園地で乗った乗り物とちょっと違っていたような気がしました。家族連れの多くは正装姿で小さな女の子はバレーの発表会のような衣装を着ていた子も多くいました。そういえば私も子供の頃は遊園地にはよそ行きの格好で行っていたようです(福岡県大牟田市の松屋デパートの屋上の遊園地で撮影した写真が残っています)。ベトナム麺(Pho)を売る屋根なしの屋台があったり、体重計を前にして座っているおばあさん他とにかく賑やかでした。体重計とおばあさんが何をしているのか分からなかったので翌日Ms.Vanに聞いたところ、料金を取って体重を計るシステムだとのことでした。人が集まるところには体重計とおばあさんをよく見かけました。ハノイの有料の施設は営業時間外は開放していて、入場料なしに自由に出入りすることができ、私もこの公園では朝と夕方はよく散歩していました。入場料は外国人は別料金になっている所が多く(全部そうだったかもしれません)、何度か黙って(何か喋るとすぐバレるので)普通の料金を出してみたことがありましたが100%バレました。料金をごまかすのが目的ではなかったので念のため。
  

Posted by tsukuma at 08:45Comments(1)

2012/06/22

住居探し、大宇アパート



住居探し

住居については、単身なので何処でもよいと思っていたのと忙しくて時間が取れなかった事もあり放っておいたのですが、東京からも催促されたので前任者が紹介してくれた不動産会社に頼んでいくつかの物件を紹介してもらいました。香港(だったと思いますが)から帰国したという若い女性の不動産屋さんで非常に流暢な英語をしゃべっていました。法律で決められていたわけではなかったと思いますが外国人が住む住居はかぎられており、なかにはY氏が住んでいたアパート(これは運転手のMr.Cが気がついたので中には入りませんでした)やガードマン付きのコロニアル風一軒屋(古くて大きすぎる)等もありましたが、あまり選択の余地はなかったと記憶しています。家賃がちょっと高いなと思ったのですが当時はみな一様に高かったのでどうにもなりませんでした。ちなみに、1990年代初めにロンドンで家族でタウンハウス(セミディータッチ)に住んでいましたが、それとの単純比較でも高かったと思います。どうせ高いのなら面倒だということもあり、宿泊していた大宇ホテルの中にサービスアパートがあり、形式的に韓国人のマネージャーから一通り説明してもらいましたが、そこに住むことにしました。7階の部屋でいざというときにホテルの屋上に飛び降りることができました。実は当時ハノイにははしご車の消防車がなかったということでした(ところで、ハノイで火事や消防車を見たことはなかったような気がします)。ホテルに台車か何かを借りてアパートに引っ越しました。荷物も少なく簡単なものでした。アパートの管理人にわら半紙のような紙に氏名等を記載して渡しました。外国人の居住場所を警察に届け出る必要があるという説明でした。ちなみに後日一時滞在のため何回か訪れた私の家内についても同じ用紙を提出した記憶があります。アパートの管理人は気さくな30歳ぐらいのベトナム人でした。韓国人の30歳ぐらいのマネージャーも玄関の受付でよく見かけました。

大宇アパート

韓国製の電気製品が一通り揃っていてすぐに生活出来る状況になっていました。ドラム式洗濯機だけは韓国製ではなくスゥエーデン(デンマーク?)製でした。食器洗浄機もあり試しに何回か使ってみたことがありましたが、単身赴任者には全く必要ありませんでした。
調理はIHというのでようか?ロンドンと同じような(よりも立派な)調理システムになっていました。とにかくしょうがないですが分不相応のアパートで生活をしていたような気がします。但し、ハノイの高温、湿気、カビ、蚊等にはずいぶん悩まされました。これらについては別の機会に記載します。ラジオカセットだけは電気街に行って個人で買いましたが、別に音のマニアでもないので、高い日本製(当時ハノイで売っていたのはマレーシア生産だったと思います)ではなく安めの韓国製を買いました。従って、ハノイでは電気製品は全て韓国製を使っていました。当時ラジオカセット(そんなに高いものではないのです)の日本製と韓国製の価格差はかなりのものだったと記憶しています。私みたいな人間ばかりだと、個人向け家電製品の分野で日本メーカーが苦戦しているも無理はないかと思います。アパートの韓国製品のメーカーは大宇だったと思います。テレビにDaewooの記載があったのは覚えています。大宇は翌1998年のアジア通貨危機のあと財閥は破綻しましたが、大宇の名前を有する会社は今でもいくつか残っていて、テレビを含む電気製品を今でも生産しているという話を聞いたことがありますが、そう言えば日本の家電量販店でDaewooの冷蔵庫か洗濯機をものすごい値段で安売りしているのを見たような気もします。ハノイの大宇複合施設にはホテル・アパートに加えオフィス棟もあり韓国大使館がそこにありましたが(今でもあると思います)、今年の3月にJVの韓国側のシェアー70%をベトナム側のパートナーが取得して、JVは100%ベトナムの会社になりました。後日の新聞報道で、大宇(建設?)が有する韓国側のシェアーは韓国ロッテが取得との動きが会ったが、ベトナム側がJV契約に定める先買権(First Refusal Right)を行使して取得したという記事がありました。2010年12月のハノイ再訪のときに懐かしくて大宇を訪れましたが、ホテルのレイアウトが昔の記憶と全く同じで、レストランをはじめとするテナントも全く同じでした。韓国系なのに何故か韓国レストランがなく日本レストランがあったのも、閑散としていたのも昔と同じでした(昔より閑散としていたかもしれません。確実に競争相手が増えているようです)。おそらくホテルの稼働率は低いまま10年以上営業していたのでは?ただ昔と確実に変化していたのは、昔は考えられなかったのですが、ホテルの利用者にベトナム人が多いということでした。隣の沼地だったところには韓国ロッテが大規模なビルを建設中でした。大宇複合施設を有する会社は韓国資本ではなくなったのですが、今後何か変化が出てくるのでしょうか?  

Posted by tsukuma at 05:57Comments(0)

2012/06/20

赴任直後

出社1日目

ホテルまで運転手のMr.Cが旧式のトヨタカムリで迎えに来てくれました。前任者がタクシー会社との間で運転手付きレンタルとして契約していたものを、そのまま引き継いだものです。Mr.Cは合弁会社設立後は運転手として社員になりました。今は、VCBの支店で運転手をしているそうです。彼は、おそらくベトナム人の中で、一緒の時間を一番長く過ごした人だと思います。少なくとも飲んだ回数は圧倒的に一番多いと思います。ホテルからHITCまで車で約10分。彼と一緒に毎日通勤することになりました。

ベトナム中央銀行(”SBV”)と戦車

赴任後すぐに、ハノイ市内の中心部のホアンキエム湖のすぐ側にあるSBVに挨拶に行きました。立派な歴史的建造物であるSBVの玄関を入ると、かなり広い銀行窓口フロアーでしたが、そこはSBVではなくVCBの窓口だったそうで、我々が訪れたSBVのセクションは裏の建物にありました。担当セクションの局長と部下数人と会った記憶があります。その局長はたしかその後ニューヨークに転勤しました。ところで驚いたことに、玄関の前に戦車があり兵士数人が戦車の廻りにいました。ベトナムのことを全く知らない私は、それを見て戦車がSBVを警備していると思ったのですが、実は映画かドラマの撮影だったそうで、カメラがどこかにあったと思うのですが余裕がなく全く気がつきませんでした。もちろんそれ以降、ベトナムで戦車を見たことはありません。13年後の2010年12月にSBVの前を通りました。土曜日だったので玄関は閉まっていましたが、昔と同じ佇まいでした。

VCBリータイトー(Ly Thai To)支店

SBVから歩いて行ける距離の Ly Thai To 通りに、VCBリータイトー(Ly Thai To)支店があり、そこの2階の合弁セクションが我々の合弁交渉の窓口になっていました。部長以下3-4名全てが女性でした。男性もいたような記憶がありますが、我々には関係なかったようです。SBVと同じようにここにも挨拶に行ったはずなのですが、どうも記憶が定かではありません。その後ここにはよく通いました。VCBは当時(今でもそうだと思いますが)ベトナム最大の国営銀行で、SBVの近くの紅河側に本店がありました。当時、高層のベトコンバンクタワーを建設する予定があり、玄関に完成予想の模型が飾ってありましたが、2010年12月に実際にベトコンタワーらしき高層ビルを見かけました。最近、みずほ銀行がVCBに15%資本参加し関係を深めているようです。15%というのは、SBVを除き最大の出資者になるのでは?

ベトナム式ドキュメンテーション

そもそもベトナムには仕事のために行ったわけですが、時間が経過しているので記憶がかなり曖昧になっていてなかなか思い出せません。ひとつには、合弁設立に関してはいくつかの理由により、私の裁量で出来ることが殆どなかったことも原因かもしれません。1996年12月にSBVの仮ライセンスが出た段階で、かなり詳細な合弁契約のドラフトが出来ていたのですが、ちょうど私が赴任した直後にベトナム側からそのドラフトに対して実に多くのコメントが出てきて、従って、当面の仕事は合弁契約の交渉ということになりました。契約書は英語版とベトナム語版の両方で準備していましたが、ベトナム側はベトナム語版を見ており、コメントもベトナム語で出てきました。ベトナム語のコメントを見て日本側の英国系弁護士事務所が英語版にベトナム語のコメントを反映させ、我々がそれを検討するというやり方をやっていました。秘書のMs.LとMs.Vanもベトナム語のコメントの英訳をしていました。我々が、カウンターコメントを英語で準備してそれをベトナム語に翻訳して返していたので、とにかく時間がかかりました。先方のコメントを反映した英語版を見てもよく分からない部分も多くあり、要はベトナム語の言い回しに関するコメントでそれを無理やり英語版に反映させてもよく分からないということだったようです。この辺は、英国系の弁護士事務所に任せるしかありませんでした。一度コメントを送ると、カウンターが返ってくるまで時間があるので、その間いろんなことをやっていました。そうやって一週間があっという間に過ぎていきました。とにかく、ベトナム人は非常に細かいということがよく分かりました。


  

Posted by tsukuma at 04:34Comments(1)

2012/06/17

ホーチミンそしてハノイへ

韓国系リース会社の設立レセプション

2月22日(土)は、ホーチミンのとあるホテルで開催された韓国とVCB以外のベトナムの国営銀行との合弁リース会社の設立レセプションに参加しました。会社の名前はVietnam Finance Leasing Company(”VLC”)だったと思いますが、現在どういう状況かは全く知りません。1996年に施行されたリース法に基づき、VLCと韓国系もう1社がホーチミンで、我々の会社がハノイで設立準備中で、VLCが一足先に設立を迎えました。VLCの外国側パートバーは、韓国の銀行・リース会社が中心でしたが、複数の国が参加しており、レセプションの司会はたしかインドネシアの方でした。また、日本債権信用銀行も参加しており日本人H氏が副社長に就任していました。VLCの韓国人社長とH氏はたまにハノイに来ていたので、来るたびに食事をしていました。H氏は、私と同じ年齢だったと思いますが、日本債権信用銀行が破綻後銀行を退職したそうですが、2000年から2001年にハノイに滞在しておりその時偶然に再会しました。その件は、また別の機会に報告します。韓国系のもう1社は韓国輸出入銀行100%の会社だったと思います。当時100%の外資は原則認められていなかったのですが、何か特別な事情があったようです。

タクシーでメコンデルタへ

日曜日はオフでY氏もハノイに帰ったので、ホーチミン市内観光をと思ってタクシーをつかまえたところ、運転手からメコンデルタへ行かないかとの提案があり行くことにしました。タクシーの中からですが、一般の人々の生活は貧しいという印象を受けました。ところでタクシーですが、街中を走っているうちはまだ良かったのですが、郊外に出るとセンターラインを無視したスリル満点の運転になり(センターラインはなかったかもしれません)、何度か運転手にゆっくり走ってくれと懇願したのですが、他の車も同じような動きをするので生きた心地がしませんでした。この国で駐在・生活をするのは無理だと思った1回目の出来事です。メコンデルタまで3時間程だったと思います。メコンデルタはメコン河の河口付近にあり生まれて初めて見る大河で珍しい生活様式も見ることができましたが、またタクシーでホーチミンまで戻るのかと思うとそれだけで憂鬱になりました。ちなみにベトナム最後の2001年5月に再度ホーチミンからメコンデルタにタクシーで出かけましたが、このときは新しい道路が出来ていたようで、時間もそれほど掛からず恐怖もあまり感じませんでした。慣れもあったかと思います。

ハノイへ

月曜日いよいよ飛行機でホーチミンから任地のハノイに向いました。距離・時間的には東京・福岡間と同じぐらいかと思います。ハノイ・ノイバイ空港に到着したのは午後遅い時間だったと思いますが、Y氏が車で迎えに来てくれていました。運転手のMr.Kはハノイで初めて会った身近なベトナム人になります。ちなみに彼は現在は運転手ではなく、VCBリース子会社で経理部長をしています。空港を出ると韓国系の看板が目立ちました(1997年のことです)が、冗談ではなく、道路は水牛が占拠し、アヒルの集団が歩いていました。水田では田植えか何かをしていて、ビックリするほど多くの人々が働いていました。風景はホーチミンとはかなり異なり、どこか中国的な風景に見えました(但し、この時点で私は中国に行ったことはありませんでした)。経済的には抽象的な表現ですが、ホーチミンの70%程度との印象でした(あくまで個人の感じです)。車で最初に到着したのがハノイ市の西の外れにあるHITCというシンガポール系のオフイスビルです。ビルの廻りはハノイ的風景が広がっていました。このビルの2階にLTCBとJLCの狭い共同準備室があり、Y氏の秘書のMs.Lと私の前任者の秘書のMs.V(従って、この日から私の秘書になるわけですが)がいました。2人ともハノイ外国語大学の出身でMs.LがMs.Vより1歳上だったと思います。当時23-4歳の若い二人でした。 Ms.Vには慣れない土地でその後本当にお世話になりましたが、とても一度では書ききれないので都度報告します。二人に挨拶したあと、当面のホテルである大宇ホテルに向いました。2月のハノイは鉛色の空という表現をしますが、気温は低めですが天気が悪く始終霧雨が降っていてとにかく暗いという印象を受けました。ホテルまでの見慣れない街並みもどこか暗く正直気が滅入りました。ホテルは私が選んだわけではないのですが立派で、部屋から前面に小さな湖が見えるのですが、天候が悪いこともあり、先のことを考えると暗澹たる気持ちになりました。その日の夜は、中心部の古い西洋式教会の隣にあった日本レストランでY氏と食事をしました。とにかく、慣れない土地で、慣れない人と一緒だったので、大変疲れました。

ノイバイ空港
1997年当時のノイバイ空港はとても静かでした。混雑で遅延ということは一切なく、発着到着時間はJRの電車のように正確でした。ターミナルビルは古い倉庫のような建物で、首都の空港としてはお粗末だという人もいましたが、私はとても好きでした。ちなみに最後にベトナムを離れた2001年5月に、近代的なターミナルビルを建設しており完成間近という状況でした。2010年12月にハノイを再訪した時に、その新しいターミナルビルは若干古くなりかけていて、10年という歳月の重さを感じました。飛行場の中に、北爆の時の空爆で出来たという大きな跡が残っており、写真でしか見たことがない旧ソ連製のミグ戦闘機数機が並んでいました。ただ、飛んでいるところを見たことはないのですが。当時のノイバイ空港の風景が本当に懐かしいです。

神戸市営バス

ノイバイ空港で、飛行機とターミナルを結ぶ神戸市営バスに乗りました、ちなみに、日本で神戸市営バスに乗ったことはありません。バスの中にも、神戸市内の路線図や広告がそのままの状態で残っていました。但し、初めて乗ったときは気がつかなかったのですが、改造して運転席と乗降口を反対側にしており、そこまで改造するのなら路線図等も外せばいいのにと思ったのですが、もしかして譲渡した時の契約書に神戸の表示は残すことになっていたのでしょうか?空港に限らず街中でも、日本から持ってきたと思われる中古車をよく見かけました。日本の少子化の影響でしょうか、幼稚園バスもたくさん見かけました。もちろん普通のベトナム人には、それが日本の幼稚園バスだとは分かりませんが。その後ベトナムの法律改正で右ハンドルや改造車が走れなくなり、日本車は姿を消し、今では中古の韓国車でいっぱいだと聞いたことがあります。ただ、2010年12月にハノイを再訪したときには、日本式漢字、ひらがな、カタカナが書かれた中古の建設機械を多く見かけました。


  

Posted by tsukuma at 20:44Comments(1)

2012/06/17

ベトナム・ハノイへ



私がベトナムへ行くことになるまでの経緯は・概略以下のとおりです。
1.1990年代半ば頃、国営のベトナム外国貿易商業銀行(いわゆるベトコン銀行、以下”VCB”)と日本長期信用銀行(”LTCB")と私が勤務していた日本リース(”JLC")との間の間でハノイにおける合弁リース会社設立の話が持ち上がっていました。
2.ベトナム戦争終了後もアメリカはベトナムに対して経済制裁を行い、ベトナムはアメリカの銀行に口座を開設出来なかった時期があり、そのためにアメリカドルの決済ができずにドル建ての貿易取引に支障が出るのを防ぐために、LTCBが援助していたという話を聞いたことがありますが、詳しいことは分かりません。ただ、そういうことを通じてLTCBはベトナムとの関係を強めていったようです。
3.1996年(だったと思いますが)に、ベトナムでリース法が制定施行され、その法律に基づきリース会社の設立・営業ができるようになりました。LTCBとJLCの社内で合弁会社設立に向けてプロジェクトチームが作られて、派遣社員候補も各1名づつ指名され具体的にいろいろ動いていたようです。ちなみに、この時点で私は全く関与していません。プロジェクトチームと同じフロアーにいたので、何となくベトナムという言葉が聞こえていたような気はしますが。
4.私が具体的に関与するようになるのは、JLCで派遣候補者の後任を早急に決める必要が生じたことから始まります。
5.通算のベトナム滞在期間はそれほど長くないのですが、自画自賛になりますが、中味はそれなりの濃かったのではと自分では思っています。1997年2月から1998年4月まで合弁会社の設立等に参加、2000年7月から2001年5月までは逆に合弁会社の解散に従事し、その後一旦ベトナムから完全に離れたのですが、2008年11月に東京新宿であるベトナム人との思いがけない再会があり、2010年12月にはハノイに再訪することが出来て現在に至っています。

本ブログはタイトル通り「ベトナムの思い出」を綴るもので、企業・会社名への言及は必要最低限とします。LTCBもJLCも1998年に破綻し、今では存在しません。但し、ご存知のとおりLTCBは一時国有化を経て名前を変えて別の銀行になっています。多くの元行員・元社員等の皆様が破綻・再生について多数の本を執筆されているので、興味がある方はそちらを参照ください。また個人名は原則イニシャルで記載します。

あまりに突然のベトナム・ハノイへの赴任

1997年1月のある日、人事部から当然呼ばれ「ハノイ赴任」の通告。あまりにも突然の話でこちらもあっけにとられ、とにかく断らねばと重いNoと言ったが、命令だということで行かざるを得なくなりました。 ベトナムというバックグラウンドが全くない私が何故という点については、「新規合弁会社設立」と「海外」という2つのキーワードの経験者が他に居ないというものでした。私は、いくらでもいるだろうと反論したのですが、確かに海外の経験者はいくらでもいるのですが、2つのキーワードの両方の経験者が以外と少ないというのも事実でした。後で知ったことですが、ベトナム中央銀行(”SBV")による合弁会社設立の仮ライセンスが1996年12月に出て、本格的に合弁交渉が始まるのでLTCBから早く後任を決めろと矢のような催促があったようです。通常、ベトナムにおける外資による投資管理はMinistry of Planning and Investment( “MPI”)の管轄でしたが、ファイ
ナンス関係についてはMPIではなくSBV管轄になっていました。私は、その時点で44歳になっており、10年ほどヨーロッパに関する仕事をしておりイギリス駐在の経験も有りましたが、ベトナムを含むアジアにはプライベートでも行ったことがなく、途方にくれた記憶があります。家内もビックリ仰天していました。とにかくすぐに赴任ということだったので、パスポートの期限切れが近い(これは事実)という理由で抵抗しましたが所詮無駄でした。こうして、ベトナムのことを勉強する時間もなく、語学学校でベトナム語の勉強もできないまま、ベトナム・ハノイに赴任することになりました。英語圏・中国圏以外の国に赴任する場合は、事前に語学学校で現地語を勉強することになっていたようですが、私の場合は多分勉強しても無駄だったと思います。難解なベトナム語については後で記載します。

代々木のベトナム大使館

パスポート更新後、代々木の住宅街にあるベトナム大使館に出向きビジネスビザを取得しました。当時は、ビジネスビザ期間の最長は6ヶ月間で、出張でも赴任でも6ヶ月ごとに延長の必要がありました。大使館は倉庫のような建物で、ビザを貰いに来た人でいっぱいでした。旅行会社の人が多かったようです。ところで、この代々木のベトナム大使館には2008年頃再訪したことがありますが、場所は同じですが見違えるような立派な建物に建て替えられており、現在のベトナムの勢いみたいなものを感じました。なお、現在は短期の観光ビザは必要ないようです。

東京でLTCBのY氏と面会

この短い期間中、ハノイから一時帰国していたLTCBのY氏と面会。私より10歳近く年長で後日合弁会社の社長に就任しました。エコノミストとして海外経験も豊富で英語も非常に堪能でした。ホーチミンに1年ほど駐在しハノイに転勤したばかりとのことでした。私のベトナム赴任にあたっては、まずホーチミンで韓国系リース会社の設立レセプションに招待されているのそれに参加したあと、ハノイに赴任ということになりました。Y氏についてはLTCBから色々聞かされていましたが、第一印象は予想通りの人でした。

羽田空港から関空経由でホーチミン・タンソンニャット空港へ

1997年2月21日金曜日(当時のパスポートが残っており日付は正確。パスポートには日本とベトナムの出入国記録が多数押されているが、日本のスタンプは問題なく読めるが、ベトナムのスタンプはインクが滲んでいて判読できないものが多いようです。)。羽田空港で家内に見送られて、ベトナムに関して何の予備知識もないまま、関空経由でホーチミンに向いました。当時は両国の直行便はホーチミンと関空との間のみで、それも毎日ではなかったと思います。 ホーチミンに着陸する直前にメコンデルタと思われる地域が見えてきて、中学・高校・大学時代毎日のようにベトナム戦争に関するニュース等に接していましたが、いよいよベトナムかと思うと、とても不安な気持ちに襲われたことを、今でも昨日の事のように覚えています。飛行機を降りると暑くて汗が吹き出てきました。最後の税関を出るときにもX線での荷物検査がありました。麻薬やビデオ等の最終チェックをしていると聞いたことがありますが、ハノイ・ノイバイ空港で実際に見つかったビデオを検査視聴しているのを見たことがあります。2010年12月にハノイを再訪したときには、少なくともハノイでは、この検査は廃止されていたようです。 空港から宿泊先のサイゴンプリンスホテルに向かう頃には薄暗くなりかけていましたが、タクシーの中から生まれて初めて見る大量のモーターバイクが道路を疾走する光景をただ唖然として見ていました。ホテルに到着後の記憶は曖昧ですが、Y氏とY氏の後任としてホーチミンに駐在していたLTCBのK氏(Y氏の1-2年後輩)と一緒に近くの日本レストランで食事をしました。体がとても疲れていたことだけはよく覚えています。
  

Posted by tsukuma at 03:49Comments(3)

2012/06/10

ベトナムの思い出話

猪谷大栄さんのご好意で「ベトナムの思い出話」というブログを開設させていただきました。
殆どの件は10年経過しているので時効だと思いますが、内容によっては曖昧な記載になるかも
しれません。 又、私以外の個人の方のプライバシーに係る件は極力割愛させていただきますので
分かりにくい場合があるかもしれません。 10年前のベトナム・ハノイの話なので現在とは大きく
異なっている場合も多々あるかと思います。 何れにしても記憶を辿りながらゆっくり書いて行きますので
宜しくお願い致します。

  

Posted by tsukuma at 04:40Comments(1)