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Posted by vietnhat at

2013/02/24

日本のテレビ番組

     


今回は昔話ではないですが、昨夜テレビで「世界不思議発見」という番組を見ていたら、ベトナムの特集をやっていました。30分の番組でいろいろな不思議発見がありました。鶏の「チャボ」は江戸時代にベトナムから日本に輸出されたものを品種改良したもので、その名前の由来はチャンパ王国だという説は初めて聞きました。

http://www.tbs.co.jp/f-hakken/bknm/20130223/p_1.html



ここ数年テレビでベトナムが取り上げられることが多くびっくりしてしまいます。ベトナムに関する最近の映像や写真を見ていると、私が知っている10年前のベトナムと全然違うので驚いてしまいます。日本の何倍何十倍も変化のスピードが速いような気がします。少し前にカード会社のテレビCMで「VNDが無くても・・カード」というのがあり、ベトナム・ドンが登場しましたが、ベトナム・ドンがテレビで取り上げられること自体10年前にはとても考えられないことでした。食品や住宅で等のCMでも多くのベトナムに関する映像が出てきてベトナムの存在が更に大きくなっているのを感じます。

添付写真の2枚目の凱旋門のような建物は2010年12月にハノイに行ったときに見ましてね。


      

Posted by tsukuma at 04:52Comments(0)

2013/02/17

テト攻勢

    


今週はテトということでお休みと思いましたが、「テト攻勢」という言葉が気になったので調べてみたら、1968年1月30日から起こった一連の事件をいうようです。1968年1月というと私は福岡で高校受験を間近に控えていた中学3年生でしたが、日本でも大々的に報道されたのでかなり記憶に残っています。特にアメリカ大使館の占拠事件は何日か何週間かに亘り続いたのでよく覚えています。最終的には占拠した兵士たちは全員射殺されたのでは?アメリカ大使館跡は軍事博物館か何かになっていて、1998年だと思いますが中を見学したことがあります。かなり衝撃的な出来事だったので参考まで。

ネットから
「1968年1月30日~
ベトナム戦争の転換点となった戦い。1968年旧正月(テトとはベトナムでの旧正月の意)に行われたことでこの名がある。
南ベトナムの各都市で解放戦線側による一斉蜂起が行われ、特に古都フエが一時制圧された他、サイゴンのアメリカ大使館などが攻撃され、また、ダナンとケサンの米海兵隊基地への攻撃も実施された。
純軍事的に見れば大失敗といってよく、北ベトナムは5万を超える損害を出したとされる。
が、政治的には大勝利であり、アメリカはベトナムにおける完全勝利の夢を打ち砕かれ、以後、「名誉ある撤退」による戦争終結を模索することを余儀なくされる。」

      

Posted by tsukuma at 06:37Comments(0)

2013/02/09

    




やっとベトナム編です。リスク管理に関しては欧州を中心に考えていたそれまでの感覚と少し違っていたような気がします。おそらく何度も書いたように、私のハノイ行きが前任者の病気というハプニングによるもので、時間も無くてベトナムに関する知識がないまま全くの白紙(というより偏見だったかもしれません)の状態で赴任せざるを得なかったことにあったと思います。赴任前後は早く任務を終えて「とにかく絶対に健康で無事に日本に帰る」ということを強く思っていました。赴任にあたっては時間が無い中で、アジア駐在経験者たちから色々とアドバイスをもらい、余計な知識が一杯詰まって少し頭でっかちになっていたかもしれません。笑い話みたいですが当初は歯磨き用の水としてミネラルウォータを使用していました。しかし段々慣れてきて冷静になってくると、アジア駐在経験者といえども誰もベトナムに行ったことがある人はいなくて、後で考えると的外れなアドバイスもあったかもしれません。ただ病気に関しては、実際に病気になった日本人の話はかなり聞いたことがあり、最低限の用心の必要はありました。私は幸い一度も経験は無かったのですが、食べ物が原因で病気になる日本人が結構多かったようです。よく日本人だけがひ弱で病気になりやすいという話を聞きましたが、残念ながら実際そういう傾向はあったような気がしました。身近にいた保険会社の知り合いからは熱帯病に罹り、保険事故としてヘリコプターでシンガポールかバンコックに搬送された日本人の話を実際に聞いたこともあります。経験者の中でも前に投稿した先輩のK氏のアドバイスはとても参考になり、「食べ物にはケチケチせずに金をかけろ」「ビールに氷は絶対に入れるな」「日本の自宅とはFaxで頻繁に連絡を取れ(E-mailがまだ一般的ではなかったので)」等殆んど実行していました。ただ中には「プールの水が口に入るとA型肝炎になることがある」等?ということも言っていましたが?ハノイでの仕事や生活に慣れてくると、イギリスやフランスは国家のことも社会のことも良く分からないというのが正直なところでしたが、ベトナム語が全く分からないにもかかわらずベトナムの国家や社会のことは何となく分かっていたような気がしたものです。同じアジア人で親近感があったこと、また、おそらく仕事で国家や政府の中枢に近い人と会う機会があったことも影響していたのではと思いますが、これは当然のことながら完全な錯覚でした。ただ、ハノイでは身の危険を感じたことは殆んどなく、自転車で中心部の殆どの通りは通過したと思いますが、私自身の感覚では、外国人が何故こんなところにという目で見られることはあっても、危ないと思ったことはありませんでした。 危険ということではないですが、社会主義国という制約に縛られていたという感覚は時々感じました。ただ、勿論100%安全な社会は何処にも無いわけで、ホーチミンからは時々凶悪犯罪のニュースが流れてきて、オランダ人かベルギー人の女性が強盗に抵抗したので殺害されたということがありました。ベトナム戦争後初めての外国人の犠牲者というととだったと思います。ただ安全でも、原因は分かりませんが、何か目に見えない得体の知れない圧迫感を感じたことは時々ありました。

      

Posted by tsukuma at 08:23Comments(0)

2013/02/02

海外での

    



イギリス・ロンドン(2)

ついでで恐縮ですがロンドン編続けます。次回はベトナム編を書きます。この件に関してはベトナムについてはあまり書くことはないのですが。

1. 再び地下鉄ネタですが、ロンドンに赴任して間もない頃パリかベルギーのブラッセルに日帰りで出張したのですが、朝1番の8時ごろの飛行機に乗るためにヒースロー空港から比較的近いところに住んでいたので、朝が早いこともあり地下鉄(但し、当時の我が家から空港までは地上ですが)で移動と思い時間も事前に入念に調べて、当日の朝に最寄駅まで行ったところどうも様子がおかしいわけです。数人の人が駅の前で何かを待っているように見えたので私も同じようにしばらく待っていたのですが、思い切って待っている人に聞いたところ、何と地下鉄は動いているが駅員が出勤しないので駅は閉まっていているとのことで、住宅地の小さな駅だったので駅の塀を乗り越えて構内に入ろうかとも思ったのですが、結局急遽ミニキャブを呼び何とか飛行機には間に合いました。後で知ったのですが、駅員が出勤しないので駅が閉まっているのはよくある話だそうで、次回以降の出張では公共交通機関はやめ全て事前にミニキャブを手配しました。イギリス人は公共交通機関に関しては非常に従順であるとの印象を受けました。夜アルコールが入ると手がつけられなく人もいるにはいましたが。とにかくイギリスでは行列を作る機会が多いのですが、子供も含め、皆が行儀よく並んでいます。たまに子供が列を乱す行為をすると大人が直ぐに注意していました。私が経験した範囲では、大陸では行列は割り込みが常識でしたが、イギリスでは割り込み等とんでもないことで見たことはありませんでした。

2. イギリス赴任時の出来事で外せないのは、個人のリスク管理の話とは次元が違いますが、何といっても湾岸戦争だと思われます。改めて調べてみると、多国籍軍がイラクバクダットへの攻撃を開始した1991年1月17日に始まり同年の3月3日に停戦となっていますので、戦争の期間はそれ程長くはないのですが、イギリスは戦争当事国であり日本とは異なる緊張感が肌で感じられました。子供達が通っていた日本人学校の警備も非常に厳重だったので、本人達もよく分からないが何か戦争の恐怖みたいものを感じていたようです。私は見ていませんが、ヒースロー空港では万が一の状況に対応できるように戦車が配備されていたそうです。湾岸戦争でひとつ良いことがあったとしたら、海外出張自粛令が出て物見遊山的な出張がなくなったことでした。私の記憶では1991年の前半は勿論後半も殆んど出張者は居なかったのではと思います。話は若干脱線しますが、当時ロンドンには日本の地銀の多くが駐在員事務所を有していましたが、駐在員の仕事の多くが日本の地元からやってくる取引先のアテンドで、殆んど毎日ヒースロー空港との間の往復で夜は取引先の接待に明け暮れていたという話を聞いていました(あくまでも聞いた話です)が、実際に関西方面の地銀の駐在員から「自分は旅行会社のロンドン添乗員」という自嘲気味の話を聞いたことがあります。そういえば私の出身地の地銀が駐在事務所を支店に昇格させ、超一流のサボイホテルでオープニングセレモニーを行いました。当時イギリスは第二次大戦後最大の不況といわれる中で内心驚いたのですが、支店長は私と同年代のロンドンでも博多弁丸出しの好人物でしたがHPを見るとロンドン支店はその後閉鎖したようです。 湾岸戦争とは何の関係もないですが、ロンドンで最初はフラット(アパート)に住み、その後引越して2軒目はセミディタッチ(タウンハウス)に住みましたが、1軒目の大家はイラン人で、2軒目の大家はイラク人でした。イラン人は我が家の近くに住んでいて、たまに「何か困ったことはないか」という口実で様子を見に来ていました。奥さんが来るときは英語が得意ではないので幼稚園ぐらいの娘が通訳(?)でついて来たりしていました。イスラム教徒だと分かってはいたのですが、ウイスキーを勧めると飲んでいました。結局イラン人の大家がフラット(アパート)を売却したので我が家はイラク人が大家の2軒目に引っ越したのですが、1992年のある日、電話が鳴るので出たらものすごい騒音で最初は聞いたことがない言語で話していたのですが、どうもイラクのバクダットからで大家と話したいと言っているよう。湾岸戦争が終わってずいぶん時間は経過してはいましたが、こういうケースは本当に困ってしまいますが、大家の連絡先を教えていいものかどうか分からなかったので一旦電話を切って、南の港町のポーツマスというところに住んでいた大家に連絡したら教えても構わないと言っていたようだが、結局それ以降バクダットからは電話はなかったと思います。イギリスの場合は、電話も手紙も人頭税も家が基準なので、引っ越しても電話(番号)はそのままで、手紙も過去の居住者の手紙が舞い込んできます。そういえばフラットのとき中東のどこかから現金入りの手紙が舞い込んできて何と書いてあるのかも分からず処理に困ったことがありました。2軒目は、隣に住んでいたおじいさんによると、その数年前にシングルマザーの女医が診療所を開設していたようで、とにかくその関係の手紙が数多く舞いこんできました。 普通は「Redirect」(だったと思いますが)と書いてポストに投函すれば返送してくれるのですが、封筒に発送人が書かれていないことがあり、そういう場合はしょうがないので開封するとどこかの病院からで、よく分からないが結構深刻そうなことが書いてあって、あわてて返送したことが何回もありました。

日本人の視点から少しマイナス面も含めてイギリスについて書きましたが、イギリスが嫌いかというと全くそんなことはありません。見習うべき点が数多くあるということを念のため強調しておきます。またイギリスの田園風景は世界一美しいと個人的には思っています。


      

Posted by tsukuma at 09:01Comments(0)