Liên kết tài trợ / スポンサーリンク
Quảng cáo này xuất hiện trên các Blog không cập nhật bài viết trên 1 tháng
Nếu bạn cập nhật bài viết mới thì quảng cáo này sẽ mất đi
上記の広告は1ヶ月以上記事の更新がないブログに表示されます。
新しい記事を書くことでこちらの広告は消えます。
2013/01/27
海外でのリスク管理(2)



2. イギリス・ロンドン
テロの危険がある地域に赴任の経験はないと書いてしまいましたが、テロの危険はどこにでもあり、特にイギリスでは1990年代の前半の赴任時にはIRAの爆弾テロ事件が相次いでいました。その後IRAとイギリス政府との間で和解が成立しましたが、最近はまたやや不穏な報道があります。イギリスは日本よりも面積はやや小さい国ですが、大雑把にいうと先住民で被征服民族の「スコットランド」「ウエルズ」「北アイルランド」と、征服民族の「イングランド」という位置づけのようです。IRAは北アイルランドの独立運動から派生した過激派のようですが、当時爆弾テロを繰り返していました。ロンドンをはじめ大都会は移民も多く、インド系、中東系、黒人、中国系の多数派はもちろん世界中からの人種・民族が入り乱れていました。一口に黒人と言っても黒人の中にもいろいろな人種・民族・宗教が存在するのはロンドンに住んでいるとよく分かりました。
(1) 爆弾テロとは関係ありませんが、今考えてもぞっとする出来事がありました。ある日深夜とんでもない時間に玄関のチャイムが鳴り、覗き窓から見ると4-5人の男性が居て警察手帳を出して、行方不明の少女をお宅の裏庭で見かけたという情報があり捜索するとのこと。半分眠っていたこともあり、勢いに押されてついドアを開けてしまいました。男性たちは裏庭に廻り捜索らしきことをしていましたが、何事もなかったように帰っていきました。おそらく本物の刑事たちだったと思いますが、時間帯がおかしかったこと、そもそも外から裏庭が見えるわけがない、警察手帳を提示されても本物かどうか分からない等、後で考えるとむやみに玄関を開けるべきではなかったと反省しきりでした。今考えてもゾッとする出来事でした。
(2) 当時ロンドンでは空き巣が多く、幸い我が家は被害に会ったことはありませんが、かなりの日本人が被害にあっており、中には一回だけでなく複数回被害に会った人もいました。被害に会った日本人によると米櫃の米まで散乱していて力を無くしたそうです。私が働いていた現法でも日本人だけでなくスリランカ人の社員も被害に会っていて、子供たちが通っていた日本人学校でもかなりの被害者がいたそうで、かなり蔓延していたようです。夏休みやクリスマス休暇には大陸の方に旅行に行くことが多かったのですが、ミニキャブというタクシーを呼んで空港まで行くと、留守の間に被害に会うケースが多かったという情報もあり、我が家では自家用車で空港の近くの駐車場まで行って車を預けていました。無駄な努力だったかもしれませんが留守中も留守だと思わせないように居間の電気をつけたままにしていました。そういえば会社に空き巣が入り、私のカバンと応接の置時計等が無くなっていたということがありました。おそらくカバンの中に置時計を入れて持ち出したものと思われます。そのときの保険金でカバンを買い直しましたが、ハノイで鍵が壊れて修理したことがありました。運転手のチンさんに頼んだのですが器用に修理されていました(変なことを思い出しました)。そのカバンは今でも我が家にあります。ちなみにロンドンの正規のタクシーは世界一と言われており、聞いた話では中心街の地理の試験が難しく合格まで3-4年かかるそうでまるで司法試験のようですが、ロンドンの労働者階級が多く住むイーストエンド出身者が多く、地理にハンディキャップがある地方出身者では合格が難しいと聞いたことがあります。運転手の話す英語はコクニーと呼ばれるイーストエンドの訛りが強く日本人には分かりにくい英語です。レベルは違いますが金融街で働くイギリス人も分からないと言っていました。言葉だけで言えば、オランダやデンマークの運転手の方が立派な(我々には分かりやすい)英語をしゃべります。母国語ではないので訛りは無いということだと思いますが、それにしても例えばオランダ人の英語力の高さにはびっくりします。そういえば、英国人の弁護士がオランダの英語教育はレベルが高く、普通のイギリス人より英語のレベルが高いと言っていました?イギリスのサッカー選手にベッカムというスター選手がいますが彼の英語はコクニーですね。とにかくロンドンのタクシーも正規のものはレベルが高く全く問題ありませんが、白タクは避けた方がいいようです。
(3) 午後3時ごろには暗くなる冬だったと思いますが、残業していたら近くのパブで突然爆弾が爆発したことがありました。「ブスッ」という鈍い音が聞こえたのですが、生まれて初めて爆発の音を聞いたので、最初は爆弾の爆発だとは思わなかったのですが、人が集まり出し警察がやってきて非常線を張り始めました。そのうちビルの管理人と警官がやってきてすぐにビルから退避しろとのこと。最寄の地下鉄の駅も封鎖されていたので隣の駅まで歩いて行きました。爆発自体は小規模なものだったようですが、客の一人が亡くなったそうで、よく行くパブで当日はたまたま残業していて無事でしたが、ちょっとショックでした。当時ターミナル駅やショッピングセンターで爆弾テロが起こり、確か日本人学校の中学生が巻き込まれて怪我をしたことがありました。
(4) 通勤は地下鉄(住宅地は地上)を使っていましたが、爆弾予告電話でよくストップしたり遅延したりしました。時々、退避命令が出てとにかくすぐに地上に出て駅から離れなければならないのですが、ロンドンの地下鉄は地下深く掘られていて、エスカレーターがよく故障して動いていないことがあったのですが、そういう時に限ってエスカレーターが止まっていて、息も絶え絶えに地上まで上がっていました。最初の頃は英語のアナウンスがよく聞き取れなかったのですが、あまり頻繁にあったのですっかり覚えてしましました。幸い、私が経験した範囲では、予告電話が実行されたことはありませんでした。ロンドンの地下鉄は世界最古ですが、古いので日本人の感覚ではトラブル・遅延も多く、行き先が突然変わったりするので、当時は何も無いときは日本のように発車ベルや車内アナウンスはなかったのですが、車内アナウンスがあるときはとにかく何か問題が発生したときで、そういう時はアナウンスをいつも緊張して聞いていました。そういえば自宅の最寄駅は始発・終点でしたが、発車ベルが鳴らずに突然ドアが閉まって発車するので、最初の頃は乗り遅れたことが何回かありました。帰りは午後9時ごろになるとブラックボックスのように乗客が少なくなることがあり、30分弱ぐらいの乗車時間でしたが、車両の中で最後は屈強そうな若者と2人だけになったりすると、車両間の移動ができなかったので、正直不安になったりもしました。
(5) 1992年の秋頃だったと思いますが、金曜日の夜に金融街の高層ビル(ロンドンの金融街で高層ビルは少なかったのですが)で第二次大戦後最大と言われた爆弾テロ事件が起きました。一階から最上階までの窓側が滅茶苦茶に破壊されましたが、日系企業も数多く入居していて、当日デンマークかどこかでECに関する重要な国民投票があり証券・銀行等が遅くまで仕事をしていたそうです。外にいた警備員1名が亡くなったという記憶がありますが、中で仕事をしていたある日本人によると窓ガラスが一旦内側にへこんだ後外側に向かって割れたそうです。私は当日は事件のことは知らなかったのですが、多数の怪我人が出てロンドン時間の深夜に日本で大きく報道されて怪我をした日本人が登場したそうで、心配した親戚からの電話が福岡の母親のところに殺到したそうです。ちょうど仕事の関係で被害にあった某邦銀ともめていて、担当者が軽い怪我をしたこともあり、もめごとは一時中断となりました(決してザマミロとは思いませんでした)。翌週仕事で現場を通りましたが、とにかくものすごい光景でした。



Posted by tsukuma at
07:14
│Comments(0)
2013/01/26
海外でのリスク管理



海外進出企業のリスク管理についてテレビでの報道が増えました。私自身はテロの危険がある地域での赴任経験はありませんが、やはり慣れない地域での生活にはそれなりに注意はしていたつもりではあります。それでも失敗談もかなりあります。以下いくつか思い出したことです。
1. パリ
1988年の今頃(1-2月)だったと思いますが、日本の某商社の不動産プロジェクトに出資することになったので、その件で東京から出張したのですが、出張中に地下鉄でパスポートをすられるという大失態を演じてしましました。盗られたのは金曜日で、すでにパリでの仕事は終わっていて、週末ロンドンに移動し現法で一仕事して日本に帰国する予定のところそれも行けなくなりました。ホテルの人が親切で週末の日本大使館に連絡を取ってくれて、担当の日本人の自宅の連絡先が分かったので電話したところ、とにかく月曜日の朝一番に大使館に来るようにとのこと。しかし、それからが大変でした。
(1) 朝一番で凱旋門の近くのパリ大使館に出向いたところ、警察の盗難証明が無いと中に入れないとのこと、それもフランス人ではなく日本人の係官の言葉。とにかくグッと我慢して教えられた近くの警察へ。当時日本赤軍の問題が世界各地で多発していたのでその対応もあったのかと思います。
(2) 警察の受付嬢は女優かと思うような美女で英語も堪能。しかし出て来た女刑事は受付嬢とは全く違うタイプで英語も話さない。書類に必要事項を書けというが説明はフランス語で何も分からない。それでもフランス語ができないにも拘わらず何とか盗難証明を貰い日本大使館へ。おそらく私みたいな日本人が多いので向こうも慣れていた様子。
(3) 日本大使館の窓口で今度は帰国証明に貼る写真が必要だということで、凱旋門の地下にあるスピード写真機で写真を撮って来いとのこと。しょうがないのでスピード写真機まで行ったが説明書きがフランス語で手順が分からない。たまたま英語を話す大学生らしき若者がいて教えてもらい何とか写真撮影。
(4) 大使館の窓口に写真を持っていったら、今度はパリ在住の日本人の保証人のサインと在留許可の写しが必要と言い出した。確か日本の免許証等の身分証明があれば良かったのですがそんなものは持っていません(その後の出張では日本の運転免許を必ず持参しました)。私もさすがに頭にきて必要なものはまとめて言えと文句を言った記憶があるのですが、先方は規則だと対応したような気がします。普通の出張者にサインしてくれる保証人などいるはずもないが、東京から困ったときのためLTCBパリの住所と所長の名前を聞いていたので、とにかくLTCBパリに行き初対面の所長にサインをいただきました。在留証明は自宅にあるところ、たまたま事務所に置いていたという幸運もありました。その所長とはその時が初対面でしたが、その後日本で何度か会ったことがあります。
(5) こうして最大の問題をクリアーして日本大使館に戻ったのが午後1時を過ぎていたと思いますが、日本大使館はなんとフランス風に午後3時ごろまで昼休みで中に入れません。もうこっちも完全にあきらめの境地に達してしまいました。
(6) 午後3時過ぎに窓口に行くと、今度は(最後ですが)日本への帰国便の航空券が必要とのこと。旅行代理店にいって予約したが、当時航空便は非常に混んでいて、2-3日後の便、それも直行便ではなくジュセルドルフとアラスカ経由の成田経由で最終大阪の便(あとで分かったのですが成田まで36時間かかりました)。とにかくそれを持って大使館に行ってやっと日本への帰国証明を貰いました。ぎりぎり5時だったと思います。
とにかくどうしようもなく、すっかり開き直っていたので、帰国まで滞在していたパリのモンパルナスでゆっくりしました。同じホテルに滞在していた某商社の不動産担当の日本人と朝食の時ばったり会ってしまい、ロンドンにいるはずの私が何故パリにいるのが不思議そうでしたが適当にごまかしていました。こうして、ドイツ、アラスカ経由で36時間かけて日本に戻りました。ちなみにJALの機内ニュースで、大韓航空機爆破の犯人の女性を韓国に移送するニュースをやっていました。
パリでのパスポート紛失事件の顛末は上記のとおりで大使館での出来事は順番も含めてすべて事実です。長くなったので、その他は次回ということで。ちなみに写真の寺院らしき建物はノートルダムですがなんとなくハノイの大教会と似ていますね。



Posted by tsukuma at
10:30
│Comments(1)
2013/01/20
落し物



1997年の終わり頃だと思いますが、休日に自転車で移動していたときに気がついたら前の荷台に括りつけて入れていたカバンが消えてしまったということがありました。落ちないように(大丈夫なように)2-3重に括り付けていたはずなので、まるで狐につままれたような感じだったのですが、とにかく事実としてカバンを紛失してしまいました。中には、現金入りの財布とノキアの携帯電話が入っていたと思うのですが、財布の中には現金以外に何故か必要もないのに日本の運転免許証も入っていて、携帯電話も前に洪水を契機として購入したものですが実は殆んど使ったことはなく、結果として必要もないものをわざわざ自転車での移動中に持参して紛失してしまったという間抜けな話です。経緯はよく覚えていないのですが事後直ぐに合弁会社のスタッフ達と会ったので、とにかく紛失の件を話したところ、何故か彼らはすっかり私が盗難に会ったと思い込み、私も紛失か盗難か断定的によく分からず、とにかく警察まで出向き通訳を介して事情聴取を受ける羽目になりました。警察は有名な文楼の近くの旧式な建物だったと思うのですが、ベトナムの警察の内部に入ったのは後にも先にもとにかく初めてだったので興味津々だった記憶があります。携帯電話には何度もコールをしたのですが結局電源が切られていて(私がそもそも切っていたのではと思います?)、日本の免許証も日本大使館の玄関付近に捨てられているケースがあるという話を聴いたので大使館に連絡して出てくるのを待っていたのですが結局出てきませんでした。盗難という認識はなかったので紛失だったとは思いますが、狐につままれたような話ではありました。
はっきり盗難というケースは、家内も一緒だったのですが、アパートの近くの古い住宅街で自転車を置いて数分間だけ買い物をして自転車に戻ったら、自転車のペダル(それも片方だけ)がなくなっていたということがありました。ほんの数分の間の早業で唖然としたのですが、片方のペダルを一体どうしたのでしょうか?道路は舗装されていなくて自転車を置いたあたりには大勢の人が居たのですが?ちなみに2010年12月にハノイを再訪したときには、その古い住宅街一帯はきれいさっぱりなくなっていて立派な道路が走っていました。
似たような話ですが、イギリスに駐在中の連休のときに泊りがけで英国中央部にある湖水地方(ピーターラビットの作者の家がありました)に出かけたのですが、途中の高速道路のサービスエリアでの数分間のトイレタイムのときに、愛車のローバーのシグナルのガラス部分が取り外されて盗まれたということがありました。こちらもほんの数分の間の出来事でした。



Posted by tsukuma at
05:52
│Comments(0)
2013/01/13
タバコ



タバコを止めて7-8年になりますが、ハノイ駐在時は吸っていました。当時ベトナムでは外国タバコの輸入は禁止されていたと理解しているのですが、Vinataba社(というタバコ会社だったと思いますが)が外国タバコ会社と提携して、マルボーロ等のベトナム産の外国銘柄がいくつか流通していました。外国タバコは輸入禁止だったわけですが、街中で堂々と営業していて、日本のタバコもマイルドセブンス-パーライト等が(当時のレートで)1箱1ドル=100円=10,000ドン程度で売られていて驚いたものです。成田や香港の免税店でも1箱1.7ドル=170円ぐらいの価格だったと思いますので破格の安さでした。味が日本で販売されていたものとはかなり異なり、生産地はおそらく日本以外でのライセンス生産で、生産時期についてもかなり古かったのかもしれません。当時某国が生産したニセモノが出回っているという噂があったのですが真偽のほどは分かりません。何れにしても密輸なので税金を払っていなかったと思われますが、当時ノイバイ空港の免税店でも日本のタバコを同じような価格で売っていたのでもう訳が分かりませんでした。当時タバコの販売の中に占める密輸タバコがかなりの割合(私が聞いたのは何十%というものすごい割合でした)で逸失税収金額はものすごい金額だったと思います。ベトナムではモノの値段がよく分からなくなる出来事がいくつかあったのですが、これもそのひとつでした。ハノイではタバコ販売店が至る所にありましたが、特にホアンキエム湖の北側の旧市街の入り口のところにタバコ屋さんが集中している地域があり、私はマイルドセブンスーパーライトを箱買いしていたのですが、在庫は豊富にあったようで仮に在庫がないときにもお店の間で融通していて買えなかったことは一度もありませんでした。一度お世話になっていた日本人の葉巻好きの年長の人がハノイに来たときに、ホアンキエム湖のタバコ屋さん通りに気がついて少しの時間立ち寄ったのですが、時間がなかったのでそのまま日本に帰国して帰国後私に葉巻購入の依頼がありました。私がタバコ屋さんに行くと指定されたキューバ産の葉巻があったのですが、値段を聞いても私には高いのか安いのかさっぱり検討がつかなかったので、とりあえず日本に電話して本人に確認したところ、あまりの安さに絶句していました。そういえばハノイのタバコ屋さんではタバコのばら売りをしていて、1-2本単位で買っていく人がいました。タバコのばら売りは、ベトナムに限らず東南アジアではよくある販売スタイルだそうです。



Posted by tsukuma at
07:10
│Comments(0)
2013/01/06
頭痛 爪楊枝



何の脈絡もない標題ですが、新聞を見ていて思いだしたので忘れないうちに。
当時ハノイで主に女性(比較的若い女性も多かったような気がしますが)が「こめかみ」に白いものを張っているのをよく見かけたので「それは何か」と聞いたことがあるのですが、記憶によれば、頭痛の時に張っていたそうで張っていた「しろいもの」は久光製薬のサロンパスを細かく切ったものだったそうです。久光製薬は私が幼少の頃住んでいたことがある佐賀県鳥栖市に本拠がある医薬品メーカーですが、子供の頃に祖父母が肩こり用に張っていた記憶はありますが、日本で私自身が特に身近に感じたことはありませんでした。同社がベトナムに進出したのは1990年代前半らしいのですが、私がハノイにいたのはそのわずか数年後のことです。しかし久光製薬・サロンパスは当時すでにかなり浸透していて、正直なところ私は老人用という認識しかなかったのですが、ベトナムでは医薬品として広く使われていたので大変驚いたものです。前にも投稿しましたが、突き指をして診療所でサロンパスを処方されました。
爪楊枝は日本でも一般的で、ただ中年の男性が歩きながら使っているのを見ると見苦しい感じがして私は同年代の男性として気をつけてはいます。ちなみにロンドンでは見た記憶がないのですが、パリでは爪楊枝を下さいと言ったら(フランス語は知らないのでおそらく英語で言ったのだと思いますが?)店の奥から爪楊枝を持ってきてくれたことがありました。ベトナムでは爪楊枝は一般的に使われていて、(当時は)若い女性も歩きながら使用していたのを多く見かけて、非常に印象に残っています。
(特定の商品の宣伝ではないので念のため)



Posted by tsukuma at
08:09
│Comments(0)
2013/01/05
初日の出・夕陽




個人的にはそうでもないのですが、日本人には太陽信仰があるようで、正月になると「初日の出」が必ずニュースになります。ベトナム人も同じような太陽信仰があるのかどうか定かではありませんが、少なくとも「初日の出」という概念はベトナムにはないのではと思います。
「日の出」ではなく「日没」ですが、ハノイの西湖(Ho Tay)の「夕陽」は派手ではないのですが、私が見た中では世界で一番美しい夕陽ではと思います。前にもどこかで投稿しましたが、ハノイでは太陽は南から出て北に沈むような気がしますが、錯覚でしょうか?ネットを見ていると、私と同じように西湖の夕陽が綺麗だと思う人は結構多いようです。そういえば、ハノイに住んでいた時に夕刻に西湖に行くと、たまに高級そうで専門家が使うようなカメラで夕陽を撮影していた日本人がいました。当時は日本人の居住者が少なかったわけですが駐在員には見えなかったのですが? 結局どういう職業の人か話をしたことはありません。




Posted by tsukuma at
09:22
│Comments(0)