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2016/01/24
Hanoi旅行(15)
11月14日(土)
いよいよ最終日となりました。当日の深夜便(正確には翌日の0時過ぎ)で帰国するわけですが、その前の夕方6時にアパートに皆が集まり最後のパーティーを開催してくれることになっていました。それまでは時間があるので自転車でHo Tayを1周し、前日と同じようにバナナの朝食の後、また土地勘があるDaewoo Hotelまで歩いて行きました。

昔はDaewoo Hotelの裏側にアパートの入口があり、その前を比較的広い道路が走っていましたが直ぐに行き止まりで、行き止まりの向こう側は舗装されていなかった道路が走っていて、古い住宅が立ち並んでいました。今では舗装されていなかった道路と古い住宅は消えていて、広い道路がずっと伸びています。その道路の向かい側には超高層のロッテビルが建っているという感じですね。当日は土曜日だったので前日のことだったと思いますが、アパートに住んでいると思われる若い日本人(韓国人ではなかったと思います?)が出勤のため玄関に出てきて、車に乗り込んでいるところに出くわし、自分もそうだったなと昔のことを思い出してしまいました。

舗装されていない道路と古い住宅が消えてしまっていたことで思い出したのですが、Daewoo Hotelの東側にある広い道路(片側3車線?)は、1997年の1月に私がハノイに赴任した時は、車1台がやっと通れる舗装されていない道路と、両脇に古い住宅が立ち並び人々が普通に生活していたのですが、3月だったと思いますが、僅か3週間で、人を追い出して、建物を壊し、広い道路を完成させたことがありました。なぜ3週間という工事期間を記憶しているかというと、家内が初めてハノイに様子を見にやって来て3週間滞在した時に、来たときは舗装されていない道路を通って、帰国する時は広い道路を通って帰ったからですが、家内によれば3週間の間は工事の埃が凄くて窓を開けられなかったそうです。立ち退きの話は前から進んでいたとは思いますが、それにしても僅か3週間という工事期間は脅威的でした。日本だともう何年かかるか分かりませんね。

アパートのそばにはトゥーレ公園(Cong vien Thu le)があり、動物園も併設されています。入場料は1万ドン(約60円)でしたが、記憶が定かではないですが、当時は4-5千ドンだったのでは?しかも、当時は、外国人とベトナム人は入場料の金額が異なり、ベトナム人は1千ドンぐらいだったかもしれません。一度、黙ってベトナム人の入場料を窓口に出したことがありましたが、即外国人の入場料を請求されたことがありました。もっとも、今はどうか知りませんが、当時は営業時間以外は門は解放され(これはハノイでは他の施設も同様でした)、入場料なしで中に入れたので、私は朝と夕方6時ごろ動物園を散歩することが多かったので、入場料を払った記憶は実はあまりありません。
http://244room.blogspot.jp/2013/07/hanoi-zoo.html

中にいる動物の種類はそんなに変わっていませんが、やはり来園者の服装等は昔と比べて随分と垢抜けています。また乗り物等は、当時は旧ソ連製のようなタイプ(旧ソ連には行ったことはありませんが)のものが多かったのですが、今はすっかり洗練された乗り物が多いようです。露天も昔に比べればすっかり少なくなりましたね。そういえば、当時は人が集まる場所には、必ず体重計の前に座っているお婆さんがいたのですが、今ではもう見当たりませんね、その他の場所でも見かけなかったような気がします。私が初めてこの動物園で見た時に、何のためにお婆さんが体重計の前に座っているのか理由が分からずに、翌日事務所で秘書のVanさんに聞いたところ、ハノイではそういう場所でお金を払って体重を量る人が多いということで納得した次第です。とにかく当時はよく理解できないことが多く、聞いてみて初めて納得ということが結構ありました。しかし結局理由がよく分からなかったこともあり、例えば、場所はHo Tay近くの官庁街だったと思いますが、休日に自転車で走っていると、大勢の人がモーターバイクや自転車で緑が多い何かの施設内を通過していたので、私も後ろからついて行ったら、私だけが警官から止められて通過出来ないということがありました。翌日事務所で何故私だけが駄目だったのか聞いてみたのですがよく分からず、おそらく軍の施設だったからではということになったのですが、これはもう確認のしようがありませんでした。

動物園の中にはお寺があり、1997年の秋ごろだったと思いますが、5年毎のベトナムの総選挙があり、ここが投票所になっていました。朝の6時か7時に係員が整列して、ラジカセから流れる音楽を聞いていたのですが、何処かで聞いたことがある歌だと思ったら、昔懐かしい「インターナショナルの歌」で、たしか過去に日本語版、中国語版、英語版を聞いたことがあったので、4カ国語目の「インターナショナルの歌」でしたね。
https://www.youtube.com/watch?v=KFlGfHCCZdQ

動物園の中には何の変哲もない橋があったのですが、この橋を通ると何時も数名の所謂ストリートチルドレンがどこからともなく現れ、もう私は顔を覚えられていたので逃げようがありませんでした。たしか近くに孤児院みたいなものがあると言う話を聞いた記憶があります。そういうこともあり、当時は財布は持たずに散歩に出かけることにしていましたが(ポケットを引っ張ってI have no moneyという。)、全く現金を持っていないのも逆に危険なので、小額紙幣を10枚ほど何時も持っていました。一度、腕時計を腕からもぎ取られそうになったので、散歩の時は腕時計も止めました。

当時のハノイではこういう話が多く、物乞い、靴磨きの強要等もうキリがありませんでした。当時、合弁会社からイギリス系の弁護士事務所まで数分だったので、歩いて行くことが多かったのですが、私は東洋人なので少しは紛れてしまうこともありましたが、それでも捕まることも結構ありました。イギリス人の弁護士は私のことを「Brave」と妙に褒めていましたが、あれは「向こう見ずだと」少しは「揶揄」する気持ちもあったのかもしれませんね。

また小さな子供が、道路を横断するとき等に非常に危険な行為をすることも多く、大人が教えた訳でもないだろうに、と思ったことも多くありました。見ているこっちがヒヤヒヤすることが結構あったものです。

以上は当時の状況ですが、しかし、今回私はかなり歩きましたが、一度もそういう場面に遭遇しませんでした。そういう局面でも、私が見た範囲では、かなり生活水準が向上していると感じました。
(注)旧ソ連には一度も行ったことはないと書きましたが、1990年ごろモスクワの空港に2-3回Transitしたことがあるのを思い出しました。(一部私の推測ですが)1980年代まで航空機は旧ソ連を通過出来ずに、欧州便は北極点の上空を飛んでいたと思いますが、1980年代の後半になると(おそらくお金の問題が関係あると思いますが)旧ソ連の上空を通過できるようになり、(おそらく交換条件として)便によってはモスクワの空港に立ち寄ることがありました。それも深夜の変な時間帯で、しかし免税店は開いていて日本製の電化製品等を売っていました。日本人はおそらく日本製の電化製品は買わなかったと思いますが、私はお土産にキャビアを買ったことがありました。何時か忘れましたが歌手の北島三郎がいましたね。トイレトペーパーがペーパーではなくて、とにかく固かった記憶があります。結局、旧ソ連は1991年に崩壊しましたが、当時ロンドンに勤務していましたが、英国の銀行がアレンジした旧ソ連向けのプロジェクトファイナンスの案件に参加していて、全部だめになったので東京の本社からエラク怒られました。あんたが大丈夫と言ったんでしょう、怒られる筋合いはないと、電話で言いたかったのですが、グッとこらえたことがありました。ロシアになった今では(最近は欧州便には乗らないけど)もちろん寒そうなシベリア上空も飛んでいますね。

いよいよ最終日となりました。当日の深夜便(正確には翌日の0時過ぎ)で帰国するわけですが、その前の夕方6時にアパートに皆が集まり最後のパーティーを開催してくれることになっていました。それまでは時間があるので自転車でHo Tayを1周し、前日と同じようにバナナの朝食の後、また土地勘があるDaewoo Hotelまで歩いて行きました。

昔はDaewoo Hotelの裏側にアパートの入口があり、その前を比較的広い道路が走っていましたが直ぐに行き止まりで、行き止まりの向こう側は舗装されていなかった道路が走っていて、古い住宅が立ち並んでいました。今では舗装されていなかった道路と古い住宅は消えていて、広い道路がずっと伸びています。その道路の向かい側には超高層のロッテビルが建っているという感じですね。当日は土曜日だったので前日のことだったと思いますが、アパートに住んでいると思われる若い日本人(韓国人ではなかったと思います?)が出勤のため玄関に出てきて、車に乗り込んでいるところに出くわし、自分もそうだったなと昔のことを思い出してしまいました。
舗装されていない道路と古い住宅が消えてしまっていたことで思い出したのですが、Daewoo Hotelの東側にある広い道路(片側3車線?)は、1997年の1月に私がハノイに赴任した時は、車1台がやっと通れる舗装されていない道路と、両脇に古い住宅が立ち並び人々が普通に生活していたのですが、3月だったと思いますが、僅か3週間で、人を追い出して、建物を壊し、広い道路を完成させたことがありました。なぜ3週間という工事期間を記憶しているかというと、家内が初めてハノイに様子を見にやって来て3週間滞在した時に、来たときは舗装されていない道路を通って、帰国する時は広い道路を通って帰ったからですが、家内によれば3週間の間は工事の埃が凄くて窓を開けられなかったそうです。立ち退きの話は前から進んでいたとは思いますが、それにしても僅か3週間という工事期間は脅威的でした。日本だともう何年かかるか分かりませんね。


アパートのそばにはトゥーレ公園(Cong vien Thu le)があり、動物園も併設されています。入場料は1万ドン(約60円)でしたが、記憶が定かではないですが、当時は4-5千ドンだったのでは?しかも、当時は、外国人とベトナム人は入場料の金額が異なり、ベトナム人は1千ドンぐらいだったかもしれません。一度、黙ってベトナム人の入場料を窓口に出したことがありましたが、即外国人の入場料を請求されたことがありました。もっとも、今はどうか知りませんが、当時は営業時間以外は門は解放され(これはハノイでは他の施設も同様でした)、入場料なしで中に入れたので、私は朝と夕方6時ごろ動物園を散歩することが多かったので、入場料を払った記憶は実はあまりありません。
http://244room.blogspot.jp/2013/07/hanoi-zoo.html



中にいる動物の種類はそんなに変わっていませんが、やはり来園者の服装等は昔と比べて随分と垢抜けています。また乗り物等は、当時は旧ソ連製のようなタイプ(旧ソ連には行ったことはありませんが)のものが多かったのですが、今はすっかり洗練された乗り物が多いようです。露天も昔に比べればすっかり少なくなりましたね。そういえば、当時は人が集まる場所には、必ず体重計の前に座っているお婆さんがいたのですが、今ではもう見当たりませんね、その他の場所でも見かけなかったような気がします。私が初めてこの動物園で見た時に、何のためにお婆さんが体重計の前に座っているのか理由が分からずに、翌日事務所で秘書のVanさんに聞いたところ、ハノイではそういう場所でお金を払って体重を量る人が多いということで納得した次第です。とにかく当時はよく理解できないことが多く、聞いてみて初めて納得ということが結構ありました。しかし結局理由がよく分からなかったこともあり、例えば、場所はHo Tay近くの官庁街だったと思いますが、休日に自転車で走っていると、大勢の人がモーターバイクや自転車で緑が多い何かの施設内を通過していたので、私も後ろからついて行ったら、私だけが警官から止められて通過出来ないということがありました。翌日事務所で何故私だけが駄目だったのか聞いてみたのですがよく分からず、おそらく軍の施設だったからではということになったのですが、これはもう確認のしようがありませんでした。
動物園の中にはお寺があり、1997年の秋ごろだったと思いますが、5年毎のベトナムの総選挙があり、ここが投票所になっていました。朝の6時か7時に係員が整列して、ラジカセから流れる音楽を聞いていたのですが、何処かで聞いたことがある歌だと思ったら、昔懐かしい「インターナショナルの歌」で、たしか過去に日本語版、中国語版、英語版を聞いたことがあったので、4カ国語目の「インターナショナルの歌」でしたね。
https://www.youtube.com/watch?v=KFlGfHCCZdQ



動物園の中には何の変哲もない橋があったのですが、この橋を通ると何時も数名の所謂ストリートチルドレンがどこからともなく現れ、もう私は顔を覚えられていたので逃げようがありませんでした。たしか近くに孤児院みたいなものがあると言う話を聞いた記憶があります。そういうこともあり、当時は財布は持たずに散歩に出かけることにしていましたが(ポケットを引っ張ってI have no moneyという。)、全く現金を持っていないのも逆に危険なので、小額紙幣を10枚ほど何時も持っていました。一度、腕時計を腕からもぎ取られそうになったので、散歩の時は腕時計も止めました。
当時のハノイではこういう話が多く、物乞い、靴磨きの強要等もうキリがありませんでした。当時、合弁会社からイギリス系の弁護士事務所まで数分だったので、歩いて行くことが多かったのですが、私は東洋人なので少しは紛れてしまうこともありましたが、それでも捕まることも結構ありました。イギリス人の弁護士は私のことを「Brave」と妙に褒めていましたが、あれは「向こう見ずだと」少しは「揶揄」する気持ちもあったのかもしれませんね。
また小さな子供が、道路を横断するとき等に非常に危険な行為をすることも多く、大人が教えた訳でもないだろうに、と思ったことも多くありました。見ているこっちがヒヤヒヤすることが結構あったものです。
以上は当時の状況ですが、しかし、今回私はかなり歩きましたが、一度もそういう場面に遭遇しませんでした。そういう局面でも、私が見た範囲では、かなり生活水準が向上していると感じました。
(注)旧ソ連には一度も行ったことはないと書きましたが、1990年ごろモスクワの空港に2-3回Transitしたことがあるのを思い出しました。(一部私の推測ですが)1980年代まで航空機は旧ソ連を通過出来ずに、欧州便は北極点の上空を飛んでいたと思いますが、1980年代の後半になると(おそらくお金の問題が関係あると思いますが)旧ソ連の上空を通過できるようになり、(おそらく交換条件として)便によってはモスクワの空港に立ち寄ることがありました。それも深夜の変な時間帯で、しかし免税店は開いていて日本製の電化製品等を売っていました。日本人はおそらく日本製の電化製品は買わなかったと思いますが、私はお土産にキャビアを買ったことがありました。何時か忘れましたが歌手の北島三郎がいましたね。トイレトペーパーがペーパーではなくて、とにかく固かった記憶があります。結局、旧ソ連は1991年に崩壊しましたが、当時ロンドンに勤務していましたが、英国の銀行がアレンジした旧ソ連向けのプロジェクトファイナンスの案件に参加していて、全部だめになったので東京の本社からエラク怒られました。あんたが大丈夫と言ったんでしょう、怒られる筋合いはないと、電話で言いたかったのですが、グッとこらえたことがありました。ロシアになった今では(最近は欧州便には乗らないけど)もちろん寒そうなシベリア上空も飛んでいますね。


Posted by tsukuma at
19:09
│Comments(0)
2016/01/11
Hanoi旅行(14)
11月13日(金)
この日は朝から晩まで特別な予定が入っていない唯一の日でした。
1.早朝はHo Tayを自転車で1周。たしか途中で雨が降り出し、暫く雨宿りをしていました。何度も書きましたが、11月にこんなに雨が降っていたかと思うぐらいによく雨が降りました。朝食は何処かでパンを買ってアパートでと思ったのですが、何時もはよく見かける銀行のATMが探すと見つからないのと同じで、何時もはよく見かけるパン屋さんが探すとなかなか見つからない。ということでアパートの近くの露天で、パンの代わりにバナナを買って食べました。

2.バナナの朝食が終わると歩いてハノイの街へ。この日も午前中は昔住んでいたDaewooを目指すことにして、但し、少し南のGiang Vo通りやLa Thanh通りを歩いて向かってみました。途中、トイレ休憩ということで、Fast Foodの店(KFCだったかな?)に入ってコーヒーを飲みましたが、こういうお店は20年近く前には無かったですね。レジのところで、若い男性から片言の日本語で話かけられましたが、やはり何も言わなくても日本人だと分かるようです。不思議なことに、今も昔も韓国人と言われたことは数えるほどしかないですね。ロンドンにいた頃は、私が見ても日本人か韓国人かよく分からなかったことが多かったのですが不思議ですね。ここら辺に、当時はハノイでは珍しかったスーパーマーケットのようなお店があり、よく買い物をしたのですが、当然といえば当然ですが、今は見当たりません。Giang Vo通りには電化製品を売っている店が並んでいて、昔は中国製の扇風機が所狭しと並べられていましたが、11月のせいか或いはエアコンの時代になったのか、扇風機は殆ど見かけませんでしたね。そういえば前日のNgaさんの家でもエアコンが作動していました。当時、私が住んでいた韓国系のアパートには、韓国製の電化製品が一通り揃っていて、なかには私は日本では使ったことがなかった食器洗浄機もありましたが、唯一個人のお金でラジカセを、ここら辺で買いましたね。こちらも韓国製でした。日本製もありましたが桁が一桁高かったような記憶があります。このラジカセは私が帰国する時に運転手さんにあげましたが、今ではラジカセもすっかり時代遅れになってしまいましたね。

3.通りには比較的大きな展示場があり(この展示場は1997年にもあったような気がしますね?)何かの催しをやっていて大勢の人がいました。

4.Giang Vo通りからLa Thanh通りに向かう所にBao Son Hotelというホテルがあり、このホテルは昔からあったのですが、昔は道路は舗装されていなくて掘立小屋が立ち並び、その小屋で大勢の露天商が商売していたのですが、今は様相が一変していて、ホテルは見覚えがあるので(おそらく)昔のままだと思うのですが?

5.La Thanh通りは、家具を売っているお店が並んでいて、この通りは昔と同じですね。帰国直後にたまたま朝日新聞にLa Thanh通りに関する記事が掲載されました。
http://www.asahi.com/articles/ASHD804PCHD7UHBI01Q.html

とりとめもなく書いてみましたが、この日は他にも昔懐かしい場所を訪れ懐古的になった日でした。


この日は朝から晩まで特別な予定が入っていない唯一の日でした。
1.早朝はHo Tayを自転車で1周。たしか途中で雨が降り出し、暫く雨宿りをしていました。何度も書きましたが、11月にこんなに雨が降っていたかと思うぐらいによく雨が降りました。朝食は何処かでパンを買ってアパートでと思ったのですが、何時もはよく見かける銀行のATMが探すと見つからないのと同じで、何時もはよく見かけるパン屋さんが探すとなかなか見つからない。ということでアパートの近くの露天で、パンの代わりにバナナを買って食べました。


2.バナナの朝食が終わると歩いてハノイの街へ。この日も午前中は昔住んでいたDaewooを目指すことにして、但し、少し南のGiang Vo通りやLa Thanh通りを歩いて向かってみました。途中、トイレ休憩ということで、Fast Foodの店(KFCだったかな?)に入ってコーヒーを飲みましたが、こういうお店は20年近く前には無かったですね。レジのところで、若い男性から片言の日本語で話かけられましたが、やはり何も言わなくても日本人だと分かるようです。不思議なことに、今も昔も韓国人と言われたことは数えるほどしかないですね。ロンドンにいた頃は、私が見ても日本人か韓国人かよく分からなかったことが多かったのですが不思議ですね。ここら辺に、当時はハノイでは珍しかったスーパーマーケットのようなお店があり、よく買い物をしたのですが、当然といえば当然ですが、今は見当たりません。Giang Vo通りには電化製品を売っている店が並んでいて、昔は中国製の扇風機が所狭しと並べられていましたが、11月のせいか或いはエアコンの時代になったのか、扇風機は殆ど見かけませんでしたね。そういえば前日のNgaさんの家でもエアコンが作動していました。当時、私が住んでいた韓国系のアパートには、韓国製の電化製品が一通り揃っていて、なかには私は日本では使ったことがなかった食器洗浄機もありましたが、唯一個人のお金でラジカセを、ここら辺で買いましたね。こちらも韓国製でした。日本製もありましたが桁が一桁高かったような記憶があります。このラジカセは私が帰国する時に運転手さんにあげましたが、今ではラジカセもすっかり時代遅れになってしまいましたね。








3.通りには比較的大きな展示場があり(この展示場は1997年にもあったような気がしますね?)何かの催しをやっていて大勢の人がいました。




4.Giang Vo通りからLa Thanh通りに向かう所にBao Son Hotelというホテルがあり、このホテルは昔からあったのですが、昔は道路は舗装されていなくて掘立小屋が立ち並び、その小屋で大勢の露天商が商売していたのですが、今は様相が一変していて、ホテルは見覚えがあるので(おそらく)昔のままだと思うのですが?




5.La Thanh通りは、家具を売っているお店が並んでいて、この通りは昔と同じですね。帰国直後にたまたま朝日新聞にLa Thanh通りに関する記事が掲載されました。
http://www.asahi.com/articles/ASHD804PCHD7UHBI01Q.html



とりとめもなく書いてみましたが、この日は他にも昔懐かしい場所を訪れ懐古的になった日でした。







Posted by tsukuma at
07:19
│Comments(1)
2016/01/09
Hanoi旅行(13)
11月12日(木)夜
当日夜は、Ngaさんという人の家に集まり、皆でパーティーをしました。彼女はHa Long BayでのReunion Meetingには参加しませんでしたが、この日は自宅をパーティーの会場に提供してくれました。私は、夕方早い時間にはアパートに戻り一休みしていたら、彼女から電話があり、彼女の会社の車が迎えに行くのでそれに乗るようにとのこと。この頃になってやっと分かったのですが、それまでは皆が盛んに「ラクチン、ラクチン」と言っていて、一体何が「楽ちん」なんだろうと思っていたら、アパートの住所が「Lac Chinh」という地名だとのこと。そうこうするうちに車がやって来て、私は車に乗りこみましたが、そういえば5年前にハノイに来たときにも、やはり彼女の車に乗り、その時は私と私の娘も一緒でしたが、おそらくその時と同じ運転手さんでしたね?

彼女はVietcombankのJV Sectionにいて、合弁会社設立の交渉時には直接の窓口としていわば交渉相手で、毎日何回も電話でのやり取りをしていました。何時もは私からの電話は事務の女性が受けて、私が「May I speak to Ms.ガ, please.」と言うと、電話は彼女に転送されて、私と彼女との話が始まったのですが、ある日急ぎの用事があってお昼休みに電話をしたことがあるのですが、そのとき事務の女性がいなくて彼女が直接電話を取ったことがありました。私は何時ものように「May I speak to Ms.ガ, please.」と言ったところ、彼女は数秒の沈黙の後やっと私からの電話だということが分かり、かなりの時間「ゲラゲラ」と笑っていました。それまでもベトナムでは、人名ですらなかなか通じないというケースはあったと思いますが、この時も私の(日本語の感覚では)たった一言の「ガ」が本人にも通じないということがよく分かりました。普段は、おそらく、事務の女性は私の「ガ」という発音を理解していなかったかもしれないのですが、聞き返された記憶はなく、変な日本人(私ですが)からの電話は彼女が応対することになっていて、とにかく訳が分からなくても電話を転送していたのかもしれません。

お昼休みといえば思い出したのですが、JV Sectionはハノイ市のど真ん中にあった同行のLy Thai To支店の2階にあったのですが、5月の暑い季節だったと思いますが、ある日のお昼休みに書類を届けに行ったところ、支店は真っ暗で、何かが蠢いているのが分かりましたが、目が慣れてくると、どうも机の上に毛布を敷いて、そこで行員たちが昼寝をしているようでした。夏の暑い時には、昼間はベトナム人は外を歩いていなかったのですが、実際に昼寝をしているのを見たのは初めてで、昼寝もこの国では必要なんだと思った瞬間でした。日本人は仕事中に昼寝の習慣はないので、戸惑うことも多いようですが、「郷にいっては郷に従え」ですかね。

昔のいろんなことを考えながら車は進むのですが、中心街を通ったのは間違いないのですが、それから先がよく分かりません。橋は渡っていないので、おそらくハノイ市の南の方にむかって行ったのだと思います。所要時間はよく覚えていませんが、結構な距離走って住宅街の密集地にある彼女の家に着きました。ハノイの住宅街は、日本以上に狭い通りも多く、車が進むのも大変です。彼女は事業をやっているようで、どうも自宅が事業所になっているのではと思いますが、かなり大きな住居で台所やリビングは2階にありました。最初に目に入ったのは台所にあった大きな冷蔵庫で、業務用ではないと思いますが、私はあんなに大きな家庭用の冷蔵庫は初めて見ました。ちなみに日立の製品のようで、日本ではあんなに大きな冷蔵庫は家電販売店でも見たことがない(少なくとも私の家の台所には入らない)ので、おそらく日立の東南アジアの何処かの国の工場で作った製品だと思いますが?

パーティーには、Reunion Meetingに参加出来なかった人も含め、殆どの元staffが参加したのではと思いますが、中には私が5年前にハノイに来た時にはアメリカに住んでいたので約15年ぶりに会う人もいたりしました。ちなみにNgaさんの子供(2人?)はいましたが、旦那さんは居ませんでしたね?数年前に、別のベトナム人から彼女の旦那を見た人はいないと言う話を日本で聞いたことを思い出しましたが、今もそうなのかどうか知りませんが、当日はいなかったようです。

5年前にも感じたことですが、とにかくみんな仲がよくて、今でも家族ぐるみの交流をしています。特に今回は、私が日本からやって来たので集まったようで感謝感激です。実は、私が日本に帰る直前の11月14日(土)の夕方にも、もう1度みんながアパートに集まり最後のパーティーを開いてくれました。

とにかくみんなで楽しくお喋りをして料理をたくさん食べました。鍋料理の時に、アヒルの卵を割って入れていたのですが、卵を割ると中にはヒナが入っていて一瞬吃驚したのですが、吃驚していたのは当然私だけで、「ホビロン」というらしいのですが、ホーチミン等のベトナム南部で食べられるものと聞いていたのですが、私も実は見たのは初めてで、どうもハノイを含む北ベトナムでも食べるようです。

帰りも同じ車に乗って帰ったのですが、途中まで1家族を一緒でしたが、やはりハノイの南だったようです。

当日夜は、Ngaさんという人の家に集まり、皆でパーティーをしました。彼女はHa Long BayでのReunion Meetingには参加しませんでしたが、この日は自宅をパーティーの会場に提供してくれました。私は、夕方早い時間にはアパートに戻り一休みしていたら、彼女から電話があり、彼女の会社の車が迎えに行くのでそれに乗るようにとのこと。この頃になってやっと分かったのですが、それまでは皆が盛んに「ラクチン、ラクチン」と言っていて、一体何が「楽ちん」なんだろうと思っていたら、アパートの住所が「Lac Chinh」という地名だとのこと。そうこうするうちに車がやって来て、私は車に乗りこみましたが、そういえば5年前にハノイに来たときにも、やはり彼女の車に乗り、その時は私と私の娘も一緒でしたが、おそらくその時と同じ運転手さんでしたね?


彼女はVietcombankのJV Sectionにいて、合弁会社設立の交渉時には直接の窓口としていわば交渉相手で、毎日何回も電話でのやり取りをしていました。何時もは私からの電話は事務の女性が受けて、私が「May I speak to Ms.ガ, please.」と言うと、電話は彼女に転送されて、私と彼女との話が始まったのですが、ある日急ぎの用事があってお昼休みに電話をしたことがあるのですが、そのとき事務の女性がいなくて彼女が直接電話を取ったことがありました。私は何時ものように「May I speak to Ms.ガ, please.」と言ったところ、彼女は数秒の沈黙の後やっと私からの電話だということが分かり、かなりの時間「ゲラゲラ」と笑っていました。それまでもベトナムでは、人名ですらなかなか通じないというケースはあったと思いますが、この時も私の(日本語の感覚では)たった一言の「ガ」が本人にも通じないということがよく分かりました。普段は、おそらく、事務の女性は私の「ガ」という発音を理解していなかったかもしれないのですが、聞き返された記憶はなく、変な日本人(私ですが)からの電話は彼女が応対することになっていて、とにかく訳が分からなくても電話を転送していたのかもしれません。



お昼休みといえば思い出したのですが、JV Sectionはハノイ市のど真ん中にあった同行のLy Thai To支店の2階にあったのですが、5月の暑い季節だったと思いますが、ある日のお昼休みに書類を届けに行ったところ、支店は真っ暗で、何かが蠢いているのが分かりましたが、目が慣れてくると、どうも机の上に毛布を敷いて、そこで行員たちが昼寝をしているようでした。夏の暑い時には、昼間はベトナム人は外を歩いていなかったのですが、実際に昼寝をしているのを見たのは初めてで、昼寝もこの国では必要なんだと思った瞬間でした。日本人は仕事中に昼寝の習慣はないので、戸惑うことも多いようですが、「郷にいっては郷に従え」ですかね。



昔のいろんなことを考えながら車は進むのですが、中心街を通ったのは間違いないのですが、それから先がよく分かりません。橋は渡っていないので、おそらくハノイ市の南の方にむかって行ったのだと思います。所要時間はよく覚えていませんが、結構な距離走って住宅街の密集地にある彼女の家に着きました。ハノイの住宅街は、日本以上に狭い通りも多く、車が進むのも大変です。彼女は事業をやっているようで、どうも自宅が事業所になっているのではと思いますが、かなり大きな住居で台所やリビングは2階にありました。最初に目に入ったのは台所にあった大きな冷蔵庫で、業務用ではないと思いますが、私はあんなに大きな家庭用の冷蔵庫は初めて見ました。ちなみに日立の製品のようで、日本ではあんなに大きな冷蔵庫は家電販売店でも見たことがない(少なくとも私の家の台所には入らない)ので、おそらく日立の東南アジアの何処かの国の工場で作った製品だと思いますが?



パーティーには、Reunion Meetingに参加出来なかった人も含め、殆どの元staffが参加したのではと思いますが、中には私が5年前にハノイに来た時にはアメリカに住んでいたので約15年ぶりに会う人もいたりしました。ちなみにNgaさんの子供(2人?)はいましたが、旦那さんは居ませんでしたね?数年前に、別のベトナム人から彼女の旦那を見た人はいないと言う話を日本で聞いたことを思い出しましたが、今もそうなのかどうか知りませんが、当日はいなかったようです。


5年前にも感じたことですが、とにかくみんな仲がよくて、今でも家族ぐるみの交流をしています。特に今回は、私が日本からやって来たので集まったようで感謝感激です。実は、私が日本に帰る直前の11月14日(土)の夕方にも、もう1度みんながアパートに集まり最後のパーティーを開いてくれました。


とにかくみんなで楽しくお喋りをして料理をたくさん食べました。鍋料理の時に、アヒルの卵を割って入れていたのですが、卵を割ると中にはヒナが入っていて一瞬吃驚したのですが、吃驚していたのは当然私だけで、「ホビロン」というらしいのですが、ホーチミン等のベトナム南部で食べられるものと聞いていたのですが、私も実は見たのは初めてで、どうもハノイを含む北ベトナムでも食べるようです。


帰りも同じ車に乗って帰ったのですが、途中まで1家族を一緒でしたが、やはりハノイの南だったようです。


Posted by tsukuma at
19:12
│Comments(0)
2016/01/04
Hanoi旅行(12)
11月12日(木)午前・午後
この日は夜まで予定が入っていないので、それまでは自由に時間を使えました。
自転車での移動を諦めたので、歩いてハノイの西側にあるDaewoo Hotelへ。昔はここのアパートに住んでいたので、お馴染みの場所です。地図で見ると、今宿泊しているHo Tayのアパートから、Daewooまでは約2kmですね。しかし2kmの道のりも、昔と比べると随分と変わりました。このホテルはもともと韓国のDaewooが建設して所有していたが、ちょうど私がハノイにいた頃のアジア通貨危機による韓国の経済破綻によるIMF管理の際に、会社の組織がどうなっているか知りませんが、Daewoo財閥が破綻した時もホテルを持っていたDaewooは生き残ったようで、但し、Daewooとは関係ない韓国人から聞いた話ですが、当時既にホテル等の売却の話を進めていたようです。結局、売却の話はうまく行かなかったようでその後も持ち続けたようで、やっと2012年にベトナム側の合弁相手に持ち分を売って、ベトナム資本100%になったようです。ただ、おそらく売買契約でそうなっているのだと思いますが、その後もDaewooの名前はそのまま使い続け、今でも「Daewoo Hotel」ですね。お客も韓国人が多いようで、見た目では韓国系ですね。ちなみに、ホテルの隣にアパートとオフィス棟があり、オフィス棟には韓国大使館があったのですが、よく確認していませんが、今はないようです。また、ホテルには昔はもっと従業員がいたような気がしますが、明らかに減少しており、ホテルに入る時もノーチェックでした。

なお、Daewooの隣には超高層のロッテビルが出来ていて、風景が一変してしまいました。昔は、ここはハノイによくあった大きな沼地だったのですが、5年前に訪れた時はロッテビルの建設中で、その後完成して今回初めて見ましたが、よくこんなに大きくて高いものを造ったなというのが正直な感想です。そういえば、1997年にDaewoo Hotelを持っている会社の女性会長が、韓国から視察に来たときに、ホテルで大掛かりな歓迎レセプションが行われ、私はアパートからそれを眺めていたのですが、管理会社の知り合いの韓国人が、沼地にハノイで初となるボーリング場を造れと女性会長から命令されたとぼやいていましたが、経済危機等で結局実現しませんでした。当時から沼地は韓国系が権利を持っていたのかもしれません。

Daewoo Hotelで休息のあと、さらに西へ向かって歩き始めました。最終の目的地は合弁会社が出来る前に準備室があった、HITCというシンガポール系のビルです。まだ朝食を食べていなかったので、何処かでと思っていたら、Daewoo Hotelの敷地内にパンを売っている小さな店舗があり、Daewooのパンは美味しかったなということを思い出しまし、久しぶりにまた美味しいパンを食べました。そういえば、家内はハノイに来て日本に帰る時は、必ずお土産としてパンを持って帰っていましたね。ハノイはフランスの影響が強いということがあり、まだベトナムに行ったことがない時に、湿気が低いフランスのパリで、長いフランスパンを手で持って歩くのを見て、いかにもフランス的だなと思ったのですが、その後ベトナムを初めて訪れて、同じ光景を湿気が高いハノイでも見て吃驚仰天したものです。

朝食の後さらに西へ進みました。地図で見ると、目的地はDaewooからさらに1kmほど西にあるようです。Cau Giayという通りですが、道路の真ん中で工事をしていて、道路に掲げられた看板を見ると、おそらくですが高架の鉄道路線を建設しているようです。通りには多くの店舗が並んでいますが、当然ながら街並みが昔と比べて比較にならない程洗練されていますね。

目的のHITCビルは9階建てですが、昔は周りに目立ったビルがなく遠くからでも直ぐに分かったのですが、今は高層ビルが立ち並び、よく見ないと分からなくなってしまいました。当時は、周りには今にも崩れそうな店舗や民家や小学校が建っていましたが、今ではすっかり消えて、近代的な街並みに生まれ変わっていました。

HITCビル自体は昔と同じです。中に入ると1階から直接3階にエスカレーターで行けるようになっています。当時は、たしかハノイで唯一のエスカレーターで、3階で何か催し物がないと動いていませんでしたが、今は常時動いているようです。3階には食堂があって当時は外国人しか利用していませんでしたが、当日は私以外はベトナム人でした。食堂のレイアウトや壁の色合いが、1997年と全く同じように見えて懐かしくてしょうがありませんでした。壁にかけていたテレビの位置も全く同じで、そういえば1997年にペルーで起こった日本大使館人質事件で軍隊が突入して日本人の人質が解放されたニュースはここで見ましたね。食堂の従業員に、部屋の写真を撮っていいかどうか確認したらNoだったので、残念ながら写真はありませんが。ただ、当時はもう一人の日本人と何時も一緒だったので窮屈でしょうがありませんでした。今思い出しても嫌な思い出のひとつです。

行って思い出しましたが、HITCから道路の向かい側に大学があり、大学のことをベトナム語でDai Hocということをついでに思い出しました。教育大学と聞いた記憶がありますが、残念ながら道路の真ん中で鉄道高架工事をやっていてよく見えません。当時は、学生を含むベトナム人は一般的にサンダル履きが多く、靴を履いている人が比較的少ないという印象でしたが、今回は11月ということもありましたが、学生も全員が靴を履いていて服装も当時と比べると格段に垢ぬけています。そういえば、私も福岡の学生時代は夏に靴を履いたことがなく、社会人になって東京に来て東京の大学生は夏でも靴を履いているのを見て驚いたことがありました。ちなみに当時私は社会人として、夏でも靴を履かざるを得ず、水虫になりました。

帰りも当然行きと同じく歩いて帰ったのですが、超高層のロッテホテルや一応韓国系のDaewoo Hotel等がある韓国村の目と鼻の先に、かなりの数の日本レストランがあるのを発見しました。その一角にある高層ビル(V Towerというらしい。但し、ロッテビルに比べれば比較にならない程小さいですが。)は表玄関に日ノ丸が掲揚されているのでおそらく日系だと思いますが、このビルは2000年ごろには建っていてキーテナントとして日系のスーパー(西友だったかな?)が入居していました。今は別のテナントが入居していますが、その関係でこの一帯には日本レストランが多いのかもしれません?私も我慢できずに、その中の一軒に入りサバ定食を食べました。
この日は夜まで予定が入っていないので、それまでは自由に時間を使えました。
自転車での移動を諦めたので、歩いてハノイの西側にあるDaewoo Hotelへ。昔はここのアパートに住んでいたので、お馴染みの場所です。地図で見ると、今宿泊しているHo Tayのアパートから、Daewooまでは約2kmですね。しかし2kmの道のりも、昔と比べると随分と変わりました。このホテルはもともと韓国のDaewooが建設して所有していたが、ちょうど私がハノイにいた頃のアジア通貨危機による韓国の経済破綻によるIMF管理の際に、会社の組織がどうなっているか知りませんが、Daewoo財閥が破綻した時もホテルを持っていたDaewooは生き残ったようで、但し、Daewooとは関係ない韓国人から聞いた話ですが、当時既にホテル等の売却の話を進めていたようです。結局、売却の話はうまく行かなかったようでその後も持ち続けたようで、やっと2012年にベトナム側の合弁相手に持ち分を売って、ベトナム資本100%になったようです。ただ、おそらく売買契約でそうなっているのだと思いますが、その後もDaewooの名前はそのまま使い続け、今でも「Daewoo Hotel」ですね。お客も韓国人が多いようで、見た目では韓国系ですね。ちなみに、ホテルの隣にアパートとオフィス棟があり、オフィス棟には韓国大使館があったのですが、よく確認していませんが、今はないようです。また、ホテルには昔はもっと従業員がいたような気がしますが、明らかに減少しており、ホテルに入る時もノーチェックでした。
なお、Daewooの隣には超高層のロッテビルが出来ていて、風景が一変してしまいました。昔は、ここはハノイによくあった大きな沼地だったのですが、5年前に訪れた時はロッテビルの建設中で、その後完成して今回初めて見ましたが、よくこんなに大きくて高いものを造ったなというのが正直な感想です。そういえば、1997年にDaewoo Hotelを持っている会社の女性会長が、韓国から視察に来たときに、ホテルで大掛かりな歓迎レセプションが行われ、私はアパートからそれを眺めていたのですが、管理会社の知り合いの韓国人が、沼地にハノイで初となるボーリング場を造れと女性会長から命令されたとぼやいていましたが、経済危機等で結局実現しませんでした。当時から沼地は韓国系が権利を持っていたのかもしれません。
Daewoo Hotelで休息のあと、さらに西へ向かって歩き始めました。最終の目的地は合弁会社が出来る前に準備室があった、HITCというシンガポール系のビルです。まだ朝食を食べていなかったので、何処かでと思っていたら、Daewoo Hotelの敷地内にパンを売っている小さな店舗があり、Daewooのパンは美味しかったなということを思い出しまし、久しぶりにまた美味しいパンを食べました。そういえば、家内はハノイに来て日本に帰る時は、必ずお土産としてパンを持って帰っていましたね。ハノイはフランスの影響が強いということがあり、まだベトナムに行ったことがない時に、湿気が低いフランスのパリで、長いフランスパンを手で持って歩くのを見て、いかにもフランス的だなと思ったのですが、その後ベトナムを初めて訪れて、同じ光景を湿気が高いハノイでも見て吃驚仰天したものです。

朝食の後さらに西へ進みました。地図で見ると、目的地はDaewooからさらに1kmほど西にあるようです。Cau Giayという通りですが、道路の真ん中で工事をしていて、道路に掲げられた看板を見ると、おそらくですが高架の鉄道路線を建設しているようです。通りには多くの店舗が並んでいますが、当然ながら街並みが昔と比べて比較にならない程洗練されていますね。


目的のHITCビルは9階建てですが、昔は周りに目立ったビルがなく遠くからでも直ぐに分かったのですが、今は高層ビルが立ち並び、よく見ないと分からなくなってしまいました。当時は、周りには今にも崩れそうな店舗や民家や小学校が建っていましたが、今ではすっかり消えて、近代的な街並みに生まれ変わっていました。

HITCビル自体は昔と同じです。中に入ると1階から直接3階にエスカレーターで行けるようになっています。当時は、たしかハノイで唯一のエスカレーターで、3階で何か催し物がないと動いていませんでしたが、今は常時動いているようです。3階には食堂があって当時は外国人しか利用していませんでしたが、当日は私以外はベトナム人でした。食堂のレイアウトや壁の色合いが、1997年と全く同じように見えて懐かしくてしょうがありませんでした。壁にかけていたテレビの位置も全く同じで、そういえば1997年にペルーで起こった日本大使館人質事件で軍隊が突入して日本人の人質が解放されたニュースはここで見ましたね。食堂の従業員に、部屋の写真を撮っていいかどうか確認したらNoだったので、残念ながら写真はありませんが。ただ、当時はもう一人の日本人と何時も一緒だったので窮屈でしょうがありませんでした。今思い出しても嫌な思い出のひとつです。



行って思い出しましたが、HITCから道路の向かい側に大学があり、大学のことをベトナム語でDai Hocということをついでに思い出しました。教育大学と聞いた記憶がありますが、残念ながら道路の真ん中で鉄道高架工事をやっていてよく見えません。当時は、学生を含むベトナム人は一般的にサンダル履きが多く、靴を履いている人が比較的少ないという印象でしたが、今回は11月ということもありましたが、学生も全員が靴を履いていて服装も当時と比べると格段に垢ぬけています。そういえば、私も福岡の学生時代は夏に靴を履いたことがなく、社会人になって東京に来て東京の大学生は夏でも靴を履いているのを見て驚いたことがありました。ちなみに当時私は社会人として、夏でも靴を履かざるを得ず、水虫になりました。


帰りも当然行きと同じく歩いて帰ったのですが、超高層のロッテホテルや一応韓国系のDaewoo Hotel等がある韓国村の目と鼻の先に、かなりの数の日本レストランがあるのを発見しました。その一角にある高層ビル(V Towerというらしい。但し、ロッテビルに比べれば比較にならない程小さいですが。)は表玄関に日ノ丸が掲揚されているのでおそらく日系だと思いますが、このビルは2000年ごろには建っていてキーテナントとして日系のスーパー(西友だったかな?)が入居していました。今は別のテナントが入居していますが、その関係でこの一帯には日本レストランが多いのかもしれません?私も我慢できずに、その中の一軒に入りサバ定食を食べました。

Posted by tsukuma at
06:40
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