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Posted by vietnhat at

2012/08/30

若干不思議ないくつかの出来事(2)

 
















ハノイ中央郵便局
不思議な出来事とはちょっと違いますが、アパートの郵便受けにベトナム語の文章が書かれたペラペラの紙が入っていたので読んでもらうと、ハノイ中央郵便局から小包が届いているので取りに来るようにとの連絡。そういえば家内が日本から小包を送るからと言っていたなと思いながら、この国では小包は取りに行くのかということで中央郵便局まで出かけました。中央郵便局では女性の係官2名が小包の中味の逐一検査を行い(おそらく)読めない日本語の本数冊は全てのページを検査していました。たまたま従妹が結婚してミニアルバムに結婚式の写真が貼っていましたが全ての写真を一旦剥したりしていました。問題はビデオテープでしたが、係官が盛んに何が録画されているのか確認してきました。実は日本のテレビドラマが録画されているのは家内から聞いていたのですが、まだ見ていないので分からないとか答えてしまいました。ベトナムではビデオテープの取り扱いが微妙なのは私も知っていたのですが、係官がビデオテープの検査は別の官庁の管轄なのでそちらに移送する必要があると言い出しました。しかし係官はビデオにはミニアルバムにあった結婚式の様子が録画されているのねと気を利かせてくれ(実際は違うのですが)、その代わりお金を少し係官に支払うことで小包を受け取れることになりました。
  

Posted by tsukuma at 20:55Comments(0)

2012/08/26

若干不思議ないくつかの出来事(1)

















私がハノイに赴任することになった時に中国での駐在経験が有る先輩から尾行と盗聴に気をつけろという忠告があり彼の経験談をいろいろ聞かされましたが、正直中国の公安もそんなに暇ではなかっただろうなと思い適当に聞いていました。ハノイのアパートの電話での通話中に妙な金属音が聞こえるということはありましたが、おそらくホテルの交換と通じていたため機器の関係で生じたもので、そもそも私は重要人物では全くありませんでした(仮に盗聴だとしても聞かれて困ることは話していなかったので気にしませんでした)。ただハノイでは日本とは一味違った経験もあり以下いくつか紹介します。あくまでも1997-8年のことですので念のため。

NHKのアジア向け衛星放送
たまたま家内が一緒だったのですが、東京首都圏の何処かでモーターバイクを盗んでいたベトナム人の窃盗グループが逮捕されたというニュースが始まった途端に画像が乱れ見えなくなり音も消えてしまいました。それまで妨害電波を見たことが無かったので最初何が起こったのか分からなかったのですが直ぐに状況を理解するに至り、日本語が分かる誰かが何処かでテレビの番組を監視していて直ぐに妨害電波を出す体勢にあったことにある意味感心しました。おそらく日本人以外でそのニュース番組を見ていて、しかも内容を理解した人は殆んど居なかったと思いますが。そのニュースが終わった頃には元に戻り何事もなかったように別のニュースを放映していました。たまたま同じニュース番組でベトナム戦争の後遺症で苦しむ患者を収容していたベトナム郊外の病院を取材した映像が流れ、こちらはベトナム当局の取材許可を得ていたと思われますので問題なく放映されていました。
  

Posted by tsukuma at 16:00Comments(0)

2012/08/25

日本人社会の世話役















当時のハノイの日本人の間ではT海上のY氏が世話役として非常に重要な役割を果たしていました。本業はベトナムの保険会社との合弁保険会社の社長でしたが、ハノイでは古株で日本人社会の事情にかなり通じていました。夫人もY氏に勝るとも劣らず世話好きで私の家内もハノイに来るたびにお世話になっていました。ハノイの前にインドネシアで駐在経験があったようで子供はいなかったようです。私と一緒に仕事をしていたLTCBのY氏とたまたま同じ苗字で年恰好も同じような感じでした。自宅は大宇からそれほど離れていなかったタンコン(Thanh Cong)というところの集合住宅にありました。この集合住宅は完全に日本仕様で居住者も日本人だけだと言っていました。敷地内にテニスコートが有り(当時ハノイでテニスコートはここだけと聞いたような気がします(?))日本人のテニス同好会の世話役もやっていたようです。日本レストランもあり珍しく日本人シェフがいました(名刺をもらったことがあるのですが中国名だったので日本生まれの華僑の人だったかもしれません)。一度LTCBのY氏と私と一緒に夕食に招待され夫人の手料理をご馳走になったこともありました。私は仕事の関係で日本人と会う必要はあまり無かったのですがそれでも数少ない日本人社会のネットワークは仕事を進める上で非常に助かりました。また私自身が合弁会社で営業を進めるにあたり損害保険は非常に重要でいろいろと教えてもらいました。ただ当時ベトナムでは損害保険が発達段階にあり流動的な部分が多く話を聞いても何時もよく分からない部分が残るというフラストレーションもありました。要は事例が少ないので事故が起こって見なければ分からないということだったかと思います。とにかく我々の合弁会社設立後はこの合弁保険会社には非常にお世話になることになります。  

Posted by tsukuma at 20:51Comments(0)

2012/08/24

日本からの助っ人















LTCBでは私よりひと回り若いK君とO君が合弁プロジェクトに関わっていて時々ハノイに来ていました。K君はLTCBから米国への大学への留学経験がありO君はいわゆる帰国子女でスイスの現地校に通っていた経験があったそうです。私の赴任前はK君が中心で動いていたようですが後日ジャカルタ支店に転勤したこともあり、私の赴任後はO君に比重が移っていったようです。彼は直前にLTCBから日本の政府系の金融機関に出向していてベトナムの鉄道プロジェクトを担当していたそうで、ベトナム全般に詳しくベトナムの関連官庁とのコネクションも有り鉄道にもかなり乗った経験があったそうです。彼から聞いた当時のベトナムの鉄道の状況はかなり興味深いものでしたが、私はとうとうベトナムでは鉄道に乗ることはありませんでした。O君がハノイにいる間は夜の部も勿論参加してくれて、雨季のときには私の家内を含め3人で豪雨の中でゴルフをしたことがありものすごい数のボール(3人で100個?)を湖の中に打ち込んだりしていました。合弁設立後はJLCのK氏が営業活動と称して何回か来てくれました。K氏は逆に私よりひと回り年長で当時既に60歳に近かったのではと思います。社歴の殆どを東南アジア各国及びブラジル駐在員として過ごした人で豪放な性格でしたが実はあまり会ったことはなく、ただ今から20年以上前に上司に連れられて銀座の飲み屋に行ったところ、ブラジル駐在中で一時帰国していたK氏が飲み代の借金を払いに来てバッタリ会ったことがありました。その後も殆んど会う機会は無かったのですがベトナムでのプロジェクトの時は定年間近で東京の本社に居てじっとしているのが我慢できなかったようで、何かと理由をつけてはハノイにやって来ました。私も同じ会社の人間という安心感もあり夜の部もY氏抜きでよく飲みに行きました。LTCBもJLCもその後しばらくして破綻してしまいますが、破綻直前の1998年7月ごろにジャカルタに出張したことがあり1週間弁護士事務所で打ち合わせをしていたのですが、近くのビルにLTCBジャカルタ支店があるのを見つけアポなしで訪問したところたまたまK君がいて久しぶりに会うことが出来ました。当時LTCBでは行員の退職が相次いでいてK君も退職するということをそのとき聞きました。O君はLTCB破綻後に外資系の金融機関に転職したようですが仕事絡みで2回ほど会ったことがありました。その後は2人と会う機会もありませんが、2人とも優秀な人材なので元気にやっていることと思います。K氏はJLC破綻後子会社の整理に参加していましたが、年齢的なこともありその後引退してしまいました。彼は隣の市に住んでいて、休日に近くの手賀沼を散歩していたらたまたま2-3回会ったことがあります。相変わらず声が大きく見るからに元気そうでした。炭焼きをしながら隠遁生活をしているという噂を聞いたことがありますが、実際は子供が全員海外に住んでいて本人と奥さんも昔駐在していた東南アジア関連の商売をしているらしく今でも日本にはあまりいないようです。  

Posted by tsukuma at 23:20Comments(0)

2012/08/20

ホテル(1)










シエラトンホテル・ハノイ

シェラトンホテルは西湖の東側に位置していて2004年にオープンしたそうですが、事情は全く分かりませんが、1997年2月当時既に躯体らしきものが存在していました。プロジェクトの主体が誰で何時工事がスタートしたのか全く知りませんが、当時工事は行われておらず躯体らしきものが吹きさらしの状態になっていました。私が聞いた話では東南アジアの某国の投資家からの資金がストップして工事が中断していたとの事でした。私が最後にハノイを去った2001年5月の段階でもそのままだったと記憶しているので、その後の2-3年で事態が動いたようです。現在5つ星のホテルとして営業しており、2010年12月には少し離れた位置の車の中からこのホテルを見ることが出来ました。















ドラゴン・ホテル

ドラゴンホテルは宿泊等で使用したことは無いのですが派手な装飾等で印象に残っています。このホテルも西湖の東側に位置していますがVCBがよく使用していたという話を聞いたことがあります。後日の合弁会社設立後VCB出身の副社長に誘われて何度かわざわざお茶を飲みに出かけた事がありました。確認したことはなかったと思いますが、ホテルの佇まいや装飾品等がベトナム的ではないような気がしました。或いはベトナム南部の雰囲気かもしれません。ガーデンにはとにかく鳥籠がたくさんありました。
その他のホテルもいろいろ印象に残っている事がありますが別の機会に。
  

Posted by tsukuma at 04:56Comments(0)

2012/08/19

雨季















7-8月ごろだと思いますがハノイは雨季の季節になります。短時間でものすごい量の雨が降り道路があっという間に冠水してしまいます。ただ、床下浸水でも平常どおり生活しており下半身が水に浸かりながら飲食をしている様子を見たことがあります。この程度ではビクともしないという印象を受けました。朝起きて雨が降っている情景はなかなか日本語でぴったりの表現はありませんが、生易しいものではなく荒々しい様子でした。休日の朝は雨季でも雨具を着て自転車での散歩は休みませんでしたが、さすがに雨が強い時は心が折れました。ハノイで着ていた雨具は日本に持って帰りましたが処分してしまいました。文章力があれば雨季の様子を上手く書けるのですが残念ながらそこまでのレベルに達していません。日本に帰任後雨季の時期のハノイを舞台にしたベトナム映画をテレビで見る機会がありその情景を非常に懐かしく感じました。

  

Posted by tsukuma at 02:00Comments(0)

2012/08/16

NHKのアジア向け衛星放送
















NHKのアジア向け衛星放送は面白くなさそうな番組ばかりをやっていたのでニュース以外はあまり見た記憶がないのですが、日本語を喋っていたのでチャンネルはつつけたままにしていたことが多かったのではと思います。テレビのニュースは新聞よりも手っ取り早く日本の状況にキャッチアップできる手段でした。前にも書きましたが、ちょうど朝6時過ぎに起きた頃に朝の連続テレビ小説をやっていて毎日見ていました。日本では絶対に見ることがなかった番組ですが、当時私が見ていたのはネットで調べてみると灘の酒造家を舞台にした「甘辛しゃん」という番組のようです。単身生活が長くなると、よく夜に一人で一杯やりながらNHKを見てテレビを相手に日本語で独り言を言うことが多くなりました。ちなみに英国では衛星放送で日本の民放系の番組が視聴可能だったようですが我が家には衛星放送の設備がなかったので英国にいた間は全く日本の番組に触れることがありませんでした。新聞だけでは印象が薄く、最近は英国駐在時から時間が経過しているのでそういうことも無くなりましたが、当時の日本での状況がすっぽり頭から抜け落ちているので人の話がよく分からないことが結構ありました。当時小学生の高学年だった娘はその間流行した音楽やテレビドラマを知らないので友人と話が通じないことがあると言っていました。どうでもいい話ではありますがついでということで。  

Posted by tsukuma at 05:32Comments(0)

2012/08/12

合弁準備の途中経過


















ハノイに赴任後2ヶ月3ヶ月過ぎても忙しいのは相変わらずでしたが具体的に何がどうなっていたのかは時間が経過していることもありなかなか思い出せません。当時、Y氏は毎月1週間程度日本に一時帰国していました。一時帰国の前にはY氏から宿題が出てそれをこなすだけでも大変な作業でした。Y氏は一時帰国毎にVCB側にその旨を伝えていなかったと思いますがVCB側は当然のように知っていて、Y氏がハノイにいない時を狙って私がVCBに呼び出されて話し合いの場を持っていました。話の内容は今でも内緒ですが本音と建前を使い分けながら何時も汗だくの対応でした。Y氏の一時帰国の週の金曜日は毎回私とMs.VとMs.Lの3人での食事会が恒例になっていました。場所はホアンキエム湖の近くにあった日本レストラン「サイゴンさくら」が多かったと思います。3人のガス抜きの性格が強かったのですが、一番ガス抜きが必要だったのは私だったかもしれません。このレストランはネットを見ると現在でも営業しているようです。一度、家内がたまたまハノイに居てアパートに2人を呼んで4人で食事をしたことがありました。それを契機に私を抜きにして女性3人だけで食事に行ったりしていたようです。家内の英語力で対応できるのか心配していたのですが、女性同士の話として家内経由で初めて聞いた話が結構あって100%ではないにしても何とか意思疎通は図れていたようです。
  

Posted by tsukuma at 04:59Comments(0)

2012/08/11

サッカー
















オリンピックのサッカーで思い出しましたが、合弁会社設立後の1997年秋頃の事ですが東南アジアのサッカー選手権があり、ベトナム以外の国の開催でベトナムがフィリッピンとシンガポールに勝ったことがありました。合弁会社の勤務時間は8:00から17:00までだったと思いますが、どちらかの試合が平日の夕刻開始でベトナム人社員はテレビ観戦による応援のため早退してもよいということになり、サッカーそのものには興味がないと思われるMs.VやMs.Lも急いで帰宅しました。閑散としたオフィスにはY氏と私の日本人2人だけが残り、おそらく私は面白くなさそうに仕事をしていたのではないかと思います。我々にはもちろん試合経過は分からなかったわけですが、ベトナムが試合に勝った瞬間ハノイ中がどよめいたのが分かりました。私はそれまでサッカーに勝って街がどよめくという経験が無かったので最初何が起こったのか分かりませんでしたが、すぐに多くの人が通りに繰り出し大勢の若者達が国旗を持ってモーターバイクで疾走を始めたので私もやっと何が起こったのかが理解出来ました。次に思ったのが「早く帰らないと帰れなくなる」ということでした。合弁会社はホアンキエム湖の南側にあり市内の中心に位置していましたが、あっという間に人とモーターバイクが溢れ大変な状況になっていました。とにかく車で帰ろうとしたのですがとても無理で諦めて西の外れにあったアパートまで歩いて帰りました。改めて地図で確認すると約4kmあり歩けない距離では無いのですがスムーズに進めなかった記憶があり、かなり時間がかかったのではないかと思います。日本でもサッカーの国際試合に勝って渋谷で若者たちが大騒ぎしている様子をテレビで見たことがありますが、ハノイの場合は桁外れで帰路の4kmはものすごい状況でした。おそらくホーチミンを含むベトナム全土でそういう状況だったと思われます。私にとってはサッカーは単にサッカーですが、多くのベトナム人にとってはサッカーはサッカー以上のものでサッカーを通じたベトナム人の愛国心というものに非常に驚きました。渋谷の日本人の若者達とは次元が違うような気がします。2010年12月にハノイを再訪したときにはスズキ自動車の名前がついたスズキカップという東南アジアサッカー選手権がたまたま開催されていて、このときはベトナムはマレーシア(?)相手に負けたようですが、合弁会社の元社員達は10年経過して更に大人になったこともあり冷静にテレビ観戦をしていました。女性達の多くはテレビ観戦もせず興味がなさそうでした。やはり国力も向上してきたという感じがしました。ちなみに東南アジアサッカー選手権は以前はシンガポールのタイガービールがスポンサーだったようですが数年前からスズキ自動車になったようです。スズキ自動車の車はもちろん日本でも走ってはいますが、アジア諸国での比重がかなり高いようです。最近某国でのストライキで新聞に大きく取り上げられたりしましたが。  

Posted by tsukuma at 07:07Comments(0)

2012/08/07

日本発の商品
















テレビを見ていると日系の会社がよくコマーシャルを提供していました。車や電気製品のコマーシャルもありましたが、印象に残っているのは「味の素」や「サロンパス」等でベトナム人の日常生活に深く浸透していた商品でした。他にもいろいろあったと思いますが残念ながら時間が経過しているので思い出せません。

「味の素」は個人的には日本では全く認識していなかったのですが、ベトナムではレストランの卓上にも普通に置いてあったような記憶があります。市場に行くと大きな袋入りの味の素を売っていました。たまたま見ていたテレビでの料理番組でもかなり大量に使っていた映像を見たことがありとにかくその使用量にびっくりしたことがあります。味の素を全く使わない私の家内もベトナムでの味の素の人気に非常に興味を持っていました。韓国の調味料(Miwon?だったと思いますが?商品名か会社名か知りませんが。)のコマーシャルはテレビ以外でもよく見かけベトナムでは市販の調味料の人気が高かったようです。

ある日酔っ払って転んだ反動で親指を突き指したことがありました。翌日結構腫れていましたが、出勤したら何と驚いたことにMs.Vが私の突き指を目ざとく見つけました。おそらく私の家内であれば気がつかなかったと思います。ビルの中に医務室みたいなところがあって年配の男性の医師とMs.Vがベトナム語で話をしていて、医師が私の親指を見て結局久光製薬のサロンパスを張ってくれました。私はそれまでサロンパスは老人の肩こり用ぐらいの認識しかなかったので内心驚いたのですが、考えてみれば湿布薬なので突き指にも効果はあったようで数日して治まりました。私はハノイで病気になったことは無かったのですが、一度高熱が出たことがあって念のため大宇ホテルの中の診療室で診察を受けたことがありますが、医者は若い女性で英語が堪能ではありましたがお互いがネイティブではないので、こちらもそういう状況で症状を英語で説明しようとすると普段そういう訓練をしていないので説明が雑になり、医者も型どおりのことしか聞かないのでどうもチグハグな感じでした。高熱の方はたいしたことは無く一晩寝て落ち着きました。英国で歯を治療したことがありましたが、このときは医師がエストニアだかリトアニアの出身と言っていましたが英国人と違い(?)英語が正確で分かり易かったので大きな問題は無かったと思います。

それにしても、Ms.Vは私の突き指を目ざとく見つけましたが、ベトナム人女性の気のつかい方等はおそらく世界屈指といっても過言ではないのではと思います。私の家内も当時もう40歳台前半でしたが、食事会等でベトナム人の若い独身女性ですらそういった特性があることにただただ脱帽していました。

(行きがかり上特定の商品や企業の名前を出しましたがの宣伝ではありません・・念のため)
  

Posted by tsukuma at 04:49Comments(0)

2012/08/06

ベトナムの自動車産業
















1997年当時ベトナムでMPIの許可を受けていた合弁等の自動車会社が記憶では11社あったと思います。日系が一番多かったと思いますが、アメリカ系、ドイツ系、韓国系等があり、また日韓欧の合弁もあったような記憶があります。当時ちょうどトヨタやホンダが動きだすところでしたが工場は何れもハノイの郊外のノイバイ空港の近くにあったようです。事実かどうか全く知りませんが、MPIが工場を南ではなく北に建設することをプロジェクトの条件として許可していたという話を聞いたことがあります。北は南と比較して経済的に遅れていたのでそのような配慮をしたとのことですが?ただ当時は北で生産しても販売のために南に運搬することが多く、これが当時の交通インフラでは大変な作業だったという話をよく聞きました。当時のベトナムでの自動車の生産・販売台数の具体的な数字は覚えていませんが、11社でパイを分け合うにはあまりにも小さすぎる数字で短期的にはとても採算が取れない規模だと言われていました。そのためかどうか分かりませんがアメリカのビッグ3の1社がMPIから取得した許可を返上したということがありました。後日ですがホーチミンに出張したときにトラックを製造していた日系の会社・工場を訪問したことがあります。現地の社長がJLCで私が親しかった先輩と大学の同級生ということで先輩から紹介を受けて訪問したのですが、素人の私でも分かるほどの低い生産実績で、社長も初対面の私に向かって嘆いていました。ただその会社は現在でも元気にベトナムで生産販売を行っているようです。ベトナムは当時裾野産業が育っていなくて、自動車をベトナムで生産する場合もかなりの部品を輸入していたようです。完成車の輸入もそうだったようですが、部品の輸入にも高率の関税が課せられたようで現地生産でもかなりの価格になったようです。合弁会社設立後、日系とマレーシアの合弁の自動車会社から現地生産の新品の4WD車(三菱パジェロですが)を購入しましたが、確か6万ドルだったと思います。あれから10年たったので全体のパイ自体はかなり大きくなったようですが、根本的な問題は解決していないという話を聞きました。ネットによれば、関税についてはWTO協定により2014年までに削減、またアセアン協定に基づき2018年までに原則域内での撤廃を予定していて大きな転機になるようです。ただ、2010年12月にハノイを再訪したときには、当時の若い社員たちが立派になって皆社用車に乗っており、中にはトヨタ車(初めて見た車種。おそらくベトナム限定車)を個人の自家用車として保有していた女性も居て確実にモータリゼーションの時代は来ています。  

Posted by tsukuma at 01:30Comments(0)

2012/08/05

ホンダ(2)


















ホンダ・タイのモーターバイクの新品には大学生のような若者を含めて多くの人が乗っていました。当時は所謂個人向けローンもそれほど普及していたとは思えず、一家全員がホンダのモーターバイクを保有しているケースもあり、いったいどうやって資金調達をしていたのか不思議でした。これは私だけではなく多くの外国人が同じ疑問を持っていました。モーターバイクの購入は投資としてお金がある親戚知人から金を集めて投資をする、あるいは日本でいう無尽組織が発達している等いろいろな説がありました。お金に関することは日本人的発想で聞き難いということもあり、いまひとつよく分からない分野でした。日本のマイカーのように1家に1台というケースも多かったようで、家族全員で1台に乗車しているモーターバイクをよく見ました。ハノイではあまり極端なケースは無かったと思いますが、ホーチミンでは5人乗り(6人乗りも走っていたかもしれません)をよく見かけました。よく倒れずに運転できるなと感心しきりでした。当時のハノイにおけるモーターバイクの洪水も相当なもので騒音もすごかったのですが、それでもホーチミンに比べればずっと静かで落ち着いた雰囲気の町でした。ホーチミンのモーターバイクの量はもう半端ではありませんでした。ホーチミンに出張して数日間過ごした後ハノイに戻ったときは、ハノイに住んでいたということもありましたが、何時もほっとしたものでした。  

Posted by tsukuma at 01:15Comments(0)

2012/08/04

ホンダ(1)

















私が小学生だった1960年代前半に父親がモーターバイクで通勤していましたが、九州の田舎町だったこともあり町にモーターバイクが溢れていたという記憶はなく旧型のバスや自転車が走りのどかな雰囲気でした、ただ日本ではその頃から急激に車社会へ移行して行ったのではと思います。日本にはベトナムのようなモーターバイクの時代はなかったのかもしれません。ネットによると、1980年代前半にホンダとヤマハが日本におけるモーターバイクの覇権を争ったHY戦争が勃発したと書いてありますが個人的には全く記憶に無く、1997年当時日本ではモーターバイクの需要は相当に冷え込んでいたのではないかと思います。日本ではそういう状況の時にベトナムに赴任して生まれて初めて見たモーターバイクの洪水には本当にびっくり仰天しました。特にホンダのブランドイメージが高く、有名な話ではありますがホンダはモーターバイクという意味でベトナムに深く浸透していました。当時ハノイで走っていたホンダのモーターバイクはホンダ・タイで生産されたものを輸入していたようです。商品名は「Dream」「Wave」その他ではなかったかと思います。また当時ホンダはベトナムでもモーターバイクの生産販売を開始したようです。ホンダ・タイのモーターバイクの値段は1500ドルではなかったかと思いますが、他の日系メーカーや台湾メーカーのモーターバイクの価格はホンダ.タイよりも低く設定されていました。またホンダ・ベトナムのモーターバイクは同じホンダですが更に低い価格だったと記憶しています。当時、中国のモーターバイクがホンダ.タイの1/3~1/2の価格でものすごい勢いで台数を伸ばしていたということを聞きました。中国のメーカー名は私の耳にはホンダと聞こえるメーカーで、商品名もホンダと同じような名称を使っていました。ホンダはこれに対して法的手続きをとったはずですが、当時中国はまだWTOに加盟しておらずうまく行かなかったと聞いたことがあります。ただ私がこの件で話しをしたベトナム人によれば、私が同じに聞こえる日本のホンダと中国のホンダの発音の区別も商品の区別もベトナム人はよく分かっていたようです。耐久性等は別にして価格の安さはやはり魅力があったのではと思います。  

Posted by tsukuma at 04:09Comments(0)