2013/06/29

1999年7月~2000年3月 東京 ハワイ

1999年7月~2000年3月 東京 ハワイ 1999年7月~2000年3月 東京 ハワイ 1999年7月~2000年3月 東京 ハワイ

1999年7月ごろだったと思いますが、ただでさえ忙しいのにハワイのゴルフ場向けローン案件の処理が新たに担当案件として加わりました。もともとJLC国内の不動産部隊が日本人社会の中で手がけて不良債権になっていたものが、更生会社の不動産チームに移管されて、不良債権ということで英語の世界になってしまうので、再度国際部に移管されたものです。それまでは日本人の弁護士が間に入って膨大な英語の契約書や裁判書類の翻訳等も作成されていてよく出来た翻訳ではありましたが、それでも翻訳は翻訳なのでオリジナルの英語版を見ざるを得ず、膨大な翻訳は時間とお金の無駄だったかもしれません。この案件はある有名な日本のリゾート会社が手掛けたものですが、ゴルフ場の開発許可が完全ではなくオープン出来ずにいました。 ちなみにLTCBも実に深く絡んでいました。LTCBは、本件だけではなく、このリゾート会社に対して信じられないないほど多額のエクスポージャーがあり、LTCBが破たんした原因の一つと言われていました。とにかく私が担当になった時はこの案件は一言で言って「ぐちゃぐちゃ」で、案件の出口としては担保物件のゴルフ場の処分に決まっていたのですが、ハワイと日本で訴訟合戦になっていてもうどこから手をつけていいのか分からない状況でした。この時期LTCBは一時国有化されていて我々と同じような状況でしたが、私の印象では我々以上に当事者能力がなく、多くの優秀な人材が流失していたせいもあったと思いますが、本件でLTCBとミーティングを持っても、大勢出席するだが一体誰が中心人物かもよく分からず、もう時効なのでぶっちゃけて言ってしまうと「雁首ばかり揃え」「口先だけ達者で実は何もしようとしない」のでミーティングをしても時間の無駄というのが正直な感想でした。ということでこちらが主体的に動かざるを得ない状況でした。この時期、管財人代理みたいな立場で国際部を管掌するH氏が更生会社に加わり私もH氏と一緒に本件の処理をすることになります。H氏は当初は経歴もよく分からなかったのですが、とにかく驚くほど英語が読み書きも含めて達者な老人(20歳年長)でしたが、よく聞いてみると元某石油メジャーの日本法人社長という経歴で管財人と旧知の間柄ということだったようです。英語力だけでなく色々な方面に卓越した能力を有していることはすぐに分かりました。本当はレベルが違いすぎて仲良くお付き合できるような間柄ではなかったのかもしれませんが、私は本件も含め多くの仕事を彼と一緒に行いずいぶんと懇意にさせてもらいました。ところでリゾート会社の社長は当時民事刑事の多くの裁判の被告人という立場だったと思いますが、マスコミでは結構有名で私も初めて会う時はかなり緊張したのですが(実はH氏もそうだったと後で言っていました)、会ってみると年下の私に対しても紳士的でマスコミを通じて私が持っていたイメージとかなり違うなというのが私個人の正直な印象でしたが、ただ実務的な細かい話は苦手なようでした。H氏によれば社長は老人キラーだということを言っていました。あれほど深くLTCBに食い込んだのでそうだったのかもしれません。仕事の分担としては、大まかな方針は政治的な話も含めH氏が担当し、私は実務面を担当していました。少し話が脱線しますが、実は日本には他にも本件に係る当事者が数人いましたが、H氏もこの社長も含め私以外は慶応大学出身(H氏は中学から大学まで、社長は小学校から大学まで慶応だったそうです)で、敵味方にかかわらず“慶応”という共通の基盤を部外者である私が感じたのは一度や二度ではなかったような気がします。“慶応”が本件解決の手助けになったと言っても過言ではなかったと思います。こうして数カ月はかかりましたが、本件は解決に向かうことになりゴルフ場は開発許可が不完全なまま売却されることになりました。数か月かかったとは言えむしろ短い期間だったかもしれません。今でもH氏がいなければあれほど短期間で処理できなかったと思っています。

2000年3月 ハワイ

本件の最終処理としてハワイで契約書のドキュメンテーションミーティングが行われ、管財人団の若手弁護士と一緒に参加しました。当時ハワイはリゾート関連資産の不良債権の山でその多くは日系の企業が絡んでいました。特に日本の某大手商社と某信託銀行は現地でも有名で知らぬ者はいなかったという状況でした。1979年の新婚旅行以来のハワイでしたがもちろん思い出に浸っている時間はありませんでした。ホテルはワイキキにありましたが、車で30分ぐらい(だったと思いますが)のところに弁護士事務所等があるオフィス街があり、もっぱらそこで過ごしました。ハワイには朝着いて直ぐに我々の弁護士事務所で打ち合わせをした記憶があります。ドキュメンテーションミーティングはおそらく翌日から2-3日間だったと思いますが、日本の当事者(JLC、LTCB、債務者、保証人、買主等)の代理人のアメリカ人の弁護士たちだけでなく、ハワイ州やホノルル市の弁護士も開発許可や滞納税金の関係で参加していて、もう訳が分からないというのが正直なところでした。最近は電子メール等が発達しているのでああいうドキュメンテーションミーティングはもうやらないようです。 こちらもかなり勉強して行ったつもりでしたがアメリカ人の弁護士同士の英語の交渉にはなかなかついていけず、法律面は弁護士に任せておけばいいのですが、ときどきコマーシャルに係る部分は我々だけ別室に入り弁護士から説明を聞いて結論を出してミーティングに戻るのでかなり時間がかかりました。H氏からは白紙委任状に近いものをもらってハワイ入りしましたが、そうは言っても日本では考えもしなかった問題が出てきたりして時差を利用してH氏への報告等も必要でした。実は現地で分かったのですが債務者であるリゾート会社がハワイの弁護士に対して多額の料金を滞納しており、取り下げる予定の訴訟をそのハワイの弁護士が取り下げないと言い出したりして、いろいろとあったのですがなんとか完了しました。空いた時間を利用して、ハワイの弁護士が問題のゴルフ場やランチ・ディナーのレストランに連れて行ってくれましたが、結局ハワイらしい思い出はありません。更生会社の出張だったのでしょうがないですが。リゾート会社の社長は会う時は何時も不健康そうな顔をしていましたが2005年に59歳で亡くなりました。新聞で病死のニュースを知りH氏にはメールで知らせたところ、H氏も新聞で読んだようで既にご存じでやはりショックを受けていたようです。一時はマスコミの寵児のようにもてはやされていましたが晩年(と言うほどの年齢ではなかったのですが)は大変だったようです。

Posted by tsukuma at 01:26│Comments(0)
Vui lòng nhập chính xác dòng chữ ghi trong ảnh
 
<Chú ý>
Nội dung đã được công khai, chỉ có chủ blog mới có thể xóa