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Posted by vietnhat at

2014/06/24

ロンドン旅行(3)

2014年6月1日(日曜日)

3日目はロンドンを離れ昔懐かしい土地を再訪しました。日本語の1日ツアーを申し込み、リーズ城⇒カンタベリー大聖堂⇒ドーバー⇒グリニッジ⇒テムズ川遊覧を楽しみました。ツアーのいい点はお金さえ払えばとにかく黙っていてもバスで目的地まで連れて行ってくれるところで、とにかく楽だというのが夫婦の一致した感想でした。当時はリーズ城へは何回か行ったことがあり、カンタベリー大聖堂からドーバーへはB&Bで一泊して旅行をしたことがありました。当時はカーナビがない時代に車で目的地まで行き、旅行会社を通じてですが宿の手配をして等思えば相当なエネルギーだったと夫婦で再認識した次第です。

1. Victoria Station
集合場所はロンドン中心街のやや南西にあるターミナル駅のVictoria駅のそばの大きなバス乗り場。イギリス英語で長距離バスのことは「coach」だということを思い出しました。そういえば当時この駅でIRAの爆弾テロ事件があり大騒ぎになったことがありました。たしか日本人学校の中学生が怪我をしたのでは?当時よく行ったソロモンブラザーズという投資銀行の広大なDealing roomを擁した巨大なビルが見えましたが今もそこに入居しているかどうか分からない。そもそもその投資銀行は買収・合併等で名前が変わっているはず。



2. リーズ城
最初の目的地はリーズ城。途中美しいKent州の緑豊かな田舎を通りました。ロンドンの街中は結構ゴミが多かったりするのですが、一歩郊外に出ると単調ではありますが本当に綺麗です。お城は12世紀に建てられたそうですが当時4-5回ほど行きました。ここも20年前と同じで殆ど変化がないように見えます。お城が見える向かいのレストランの外の特等席で家族全員で食事をしましたね。子供たちが体毎クルクル回転していた芝生の斜面も健在でした。ただ鳥の糞が至る所にあり子供たちはこの糞の中を転がって行ったのだろうかと思ってしまった。ツアーなのでお城の内部にも入ったが当時はもしかしたらお城の内部には入らなかったかもしれない。全く記憶がない。とにかく昔と同じ風景で綺麗なお城でした。

             

3. カンタベリー大聖堂
当時中に入ると老若男女の聖歌隊が綺麗な讃美歌を歌っていた記憶があるのですが、今回は残念ながら聖歌隊は居ませんでした。こういう教会に入るとやはり文化の違い、それもかなり大きな違いを感じてしまいます。カンタベリーはそれほど大きな町ではないですが大学が4-5校あるそうで、前の会社の昔の同僚がカンタベリーの大学に留学していたと言っていました。集合場所の近くのお店に「けん玉」を売っていました。そういえば「けん玉」がイギリスで結構人気があると日本のテレビで放送していましたね。

  

4. ドーバー
実はあまり認識していなかったのですが、当日ツアーの中にドーバー行きが含まれていることが分かり非常に懐かしくなりました。当時、家族で山の上のドーバー城に行ったことを思い出しました。当日は残念ながら山の上のドーバー城までは行かなかったのですが、海岸から山の上のドーバー城がよくみえました。当時山の上からフランスのカレーが見えたことを思い出しました。港に世界有数の船会社であるP&Oのマークが入った大きなフエリーが停泊していたが、P&Oは確か数年前にアラブ系の会社に買収されたのでは?

 

5. グリニッジ/テムズ河遊覧
最後はグリニッジでバスを降りて船に乗ってテムズ河遊覧を行いました。グリニッジでは残念ながら丘の上にある天文台には行かなかったので翌日再訪しました。船はグリニッジから再開発地域のカナリ―ウォーフ(ドッグランド)やロンドン塔やロンドン橋等に途中停泊し最後はビッグベンまで行きました。当時は1-2回やはり船でテムズ河を遊覧したような気がします。河から見るとロンドンは又違う顔があり高層ビルが立ち並ぶ再開発地域は昔と同じですが、金融街のシティーには昔では考えられなかった奇抜な形をしたビルを幾つか見ることができました。伝統的なイギリス風の建物とは明らかに違うのですが、投資家の大半を中東や中国が占めるからでしょうか(個人的な憶測です)?

    

  

Posted by tsukuma at 19:59Comments(0)

2014/06/20

ロンドン旅行(2)

2014年5月31日(土曜日)

9時間の時差は如何とし難いがしょうがない。夜中に何回も目が覚めてしまうが旅行に来たので時間になったら行動しなければならない。幸い1年で最も日が長い時期なので午前4時には明るくて朝食前に一人で散歩に出ることにしました。ちなみに朝食前の散歩には毎日出かけました。

(早朝)
1. 1日目の散歩は地下鉄に乗って当時働いて場所へ行きました。オフィスはBerkshier Houseという12階建のビルの11階だったと思いますが、1階のPubが小奇麗になっていることを除いて、気味が悪いくらい当時と全く変わっていません。そういえば1階にスポーツセンターがありロンドンには珍しく中庭に屋外の温水プールがあり冬でも泳いでいる人がいました。私は利用したことはありませんでしたが、日本人の同僚だったF君が会員で一泳ぎしては残業していたものです。




2. 隣のホテルは名前が変わっていましたが引き続きホテルとして営業していました。サンドイッチ屋さんは昔と同じですね。ロンドンのサンドイッチ屋さんはパンそのもの(白か茶色かその他?)から始まり中身もいろいろと選択しなければならないので注文するのも結構大変でした。新聞やタバコを買っていた売店も働いている人は変わっていましたが引き続きインド系の人が取り仕切っていて店構えも全く同じでした。瞬時に釣銭の計算をしていたのも同じでしょうか?たまに行っていたイタリアン・カフェが無くなっていました。会社のそばの裏通りにあった劇場では家族全員でCatsを見た記憶があるのですが、劇場の名前は変わっていましたが「War Horse」という劇を上映しているようです。この劇は日本のテレビでもコマーシャルか何かで見た記憶がありますが映画だと思っていたのですが劇なんですね?Catsは引き続き別の劇場で上映しているようです。

   

3. 驚いたことにたまに行っていた韓国レストランは、名前は変わっていると思いますが引き続き韓国レストランとして残っていて、しかも両サイドに新たに2店の韓国レストランが営業していました。端っこに「寄り道/よりみち」と日本語で書かれた日本レストランが申し訳程度にありましたが、よく見ると隣の韓国レストランと同じマークがありもしかしたら韓国系の経営と思われます。とにかくロンドンにおける韓国の進出ぶりはすさまじく別の機会に詳しく書きます。

 


(午前)
20年前に住んでいたロンドンの西のEaling/Acton地域へ。

1. West Acton
最初1年間住んだフラット(アパート)があります。3階建ての奥から2番目の2階。ここも驚くほど変わっていせん。当時築80年だったと記憶しているから20年経っているので築100年のはずですが20年前と同じように見えます。ちなみにハノイの場合は5年-10年も経過するとすっかり老朽化したように見えるのだが、ロンドンの場合は150年は住み続けると聞いた記憶があります。気候の関係でしょうか?ちなみに煙突は必要ないのだが、何故か全ての家に煙突がついている。このフラットの場合は暖炉に電気で明るくなる模型がありました。大家はイラン人でしたがイランに住んでいて会ったことはなく、近所に住むイラン人の家族が管理人をしていてたまに何か困ったことがないか言いながら実は様子を見に来ていました。中東系の銀行に勤めていた旦那は私と同じような朴訥とした英語を喋るので分かり易かったと思います。奥さんはあまり英語が得意ではなかったようで来る時は何時も10代の娘が通訳で来ていました。長女が居ないときはたまに5-6歳ぐらいの二女が通訳でついてきて結局何を言っているのかよく分からなくて困ったものです。イスラム教徒だと思いますが旦那が来たときにわざとウイスキーを奨めたら飲んでいました。結局1年後に大家がフラットを手放すことになり我々も退去せざるを得なくなりました。

      

2. ロンドン日本人学校
West Actonのフラットから徒歩10分ぐらいのところにあります。ここも昔と全く変わっていません。当時小学生だった子供たちが全日制に通っていました。校風は極めて自由だったようで子供たちも伸び伸び過ごせたようです。当日は土曜日だったので全日制は休みのはずだが、普段現地校に通っている子供たちが通う補習校の授業が行われていたと思いますが若干の人の出入りはあったが静かなものでした。昔はもっと活気があったような気がしますが?ちなみに2-3後の平日にも再度訪れたがその時は小学校低学年と思われる子供たちの大きな歌声が聞こえてきました。毎日子供たちを送り迎えしていた家内は特別に感慨深いものがあったようです。

     

3. Ealing Broadway
(1) West Actonの1駅先で地下鉄(この辺は地上を走っていますが)Central Lineの支線の終点です。ロンドンの地下鉄(地上部分)は必ず途中で本線から支線に分かれていて分岐駅までに行き先が変更になることがよくあり注意していないと支線行きが途中で本線行きになってしまうことがありました。まあ次の駅で戻ればいいのですが。

(2) ここはこの地区の最大の繁華街で駅前に大きなショッピングセンターがありましたが今でも全く昔と変わっていません。駅前で数年前に爆弾テロ事件があり大きなニュースになったと思います。そういえば当時は金曜日の夜に駅を降りて帰宅していると高校生連中が酔っぱらって大騒ぎをしていてよく帰りの地下鉄代の50ペンス~1ポンドをねだられたものです。



(3) 当時住んでいた家はショッピングセンターの裏側にあり、いわゆるセミディタッチ(2棟からなるタウンハウス)でした。ロンドンは驚くほど変わっていませんが、やはり変化もあり、例えばガーデニングの風習が少し変わってきているそうで、昔は道路に面した前庭もきれいにしていてその家もアジサイの花がきれいでしたが、今は前庭を駐車場にするケースが多いそうで、当時住んでいた家も前庭が駐車場になっていました。アジサイといえばロンドンの気候のせいと思われるが何カ月も咲きっぱなしで最後は気味が悪くなり花を切っていました。もう時効だと思いますが、私の母親が福岡から遊びに来て暫く(2-3カ月)滞在したあと帰国する時にアジサイの花を切って福岡に持ち帰ったのですが、福岡の実家の庭に毎年きれいに咲くそうです(私は見たことがないのですが)。但し花が咲く期間は日本のアジサイと同じで何カ月も咲くということはないそうです。この家の大家は若いイラク人でイギリスで教育を受けたようで普通のイギリス人と同じような英語を話していました。普段は南のポーツマス(だったと思いますが)に住んでいたそうであまり会ったことはなかったのですが、そういえば一度イラクのバクダットと思われるところから電話があり湾岸戦争が終わってすぐのころだったので緊張したものです。隣に老夫婦(確かご主人のFirst NameはHenryさんだった?)が住んでいて、ご主人はイギリス人には珍しく話好きで老人なので視野が狭そうでしたが目が合うと家に拉致されて何時間もウイスキーを飲むはめになるのでなるべく目が合わないようにしました。生きていればもう100歳ぐらいだと思いますが隣の家の前には「Sale Agreed」(売買成立)の看板が立っていて不動産会社の人間らしき人物が出入りしていました。イギリスは景観保護の見地から同じ通りには同じ形の・タイプの家が立ち並んでいるのですが、当時たまに夜に飲んで中心街からタクシーで帰ると暗くてしかも酔っているので、家の玄関に書かれてある住所(番号)しか目印がなく我が家の前でピッタリと止まったことがありませんでした。

 

4. Ealing Common
何の変哲もない公園ですが昔と違い子供用の遊具が設置してありました。一度1週間ほど移動遊園地が突然出現したことがあります。日本には無いですが大規模な遊園地が各地を転々とするようです。最後は娘が日本人学校の友人とこの公園を通って通学していたようです。公園を渡り切った所に駅があり日本の書籍を売っていた日系の本屋さんがありましたがさすがに見当たりませんでした。

    


(午後)
家内のたっての希望で中心部の劇場で「Mamma Mia」の観賞。劇場は地下鉄のCovent Garden駅から徒歩5分ほどのAldwych というところにあります。どこの劇場もそうですが古くてそれなりに趣があります。当時働いていた職場からも歩いて行ける距離でおそらく何度も劇場の前は通っているはずです。ミュージカルの英語は相変わらずよく分かりませんが歌は全てABBAのどこかで聞いたことがある歌ばかりでそれなりに楽しめました。帰りはCovent Gardenの市場を通って帰りましたがここも昔と変わりませんね。
http://www.boxoffice.co.uk/arts-and-theatre-tickets/musicals/mamma-mia-tickets.aspx?gclid=CJ3kibLNhb8CFUUAvAod0pAANw


    

Posted by tsukuma at 20:53Comments(0)

2014/06/13

ロンドン旅行

     



暫くブログを更新していませんが、先日のロンドン旅行について若干のコメントを。「ベトナムの思い出」というタイトルに偽りありですがご勘弁を。

ロンドン旅行についてはかなり前から夫婦で話していましたが思いきって今回出かけることにしました。1990年から1993年まで駐在ということで家族全員でロンドンで過ごしたわけですが、帰国後20年が経過し私は2000年2月の出張が最後で約15年ぶり、家内は実に20年ぶりの再訪になりました。

1. 2014年5月30日(金曜日)
成田空港でバージンアトランティックに搭乗。バージンアトランティックには1980年代の終わりに出張で2-3回搭乗したことがありますが、当時は大きな機体(ジャンボ?)で客席も豪華でビジネスには機内にバーラウンジがありましたが、今回は機体は一回り小さくエコノミー席ということもあり特に豪華という印象はありませんでした。思えば2000年以来ベトナムや中国へのフライトはありましたが、12時間の長時間フライトは久しぶりでエコノミー席での12時間は正直疲れました。

2. Heathrow空港
空港の内部を移動しても空港全体の様子は全く分かりませんが、入国審査までこんなに歩いたかなと思うほど延々と歩きました。イギリスは入国審査に時間がかかるという話をよく聞き、昔も中国からの便と一緒になると一体何時になったら順番が来るのだろうと思った記憶がありますが、今回は運よくスムーズに通過出来ました。空港からは旅行会社の手配した車でホテルへ。途中我々が住んでいた地域を通過しましたが昔と同じ風景が広がっていました。さらに市街地に入る前にHammer Smithという地域を通過し、駅ビルを含む新規オフィス開発に参加し不動産不況の中で紆余曲折があり駐在の終わりごろ何とか完成したのですが、驚いたことにあれから20年プロジェクトの一部を既に取り壊していました。

3. ホテル
ホテルはビッグベン・国会議事堂のテムズ河を挟んだ向かいにあり新しい近代的な建物でした。歴史的建造物であるCounty Hall(旧ロンドン市庁舎)の隣にあり、昔何があったか思い出せませんが、さらにその隣に昔からあった病院は思い出しました。とにかく今は1年で最も日が長い季節で日没は午後9時過ぎで朝は4時には明るくなっているようです。夜は一杯やって夜11時ごろでも薄明るく小鳥がさえずっているので変な感じなのですが朝の記憶はあまりありません。朝はギリギリまで寝ていたのかな?

4. County Hall(旧ロンドン市庁舎)
大観覧車(London Eye)がテムズ川のほとりに出来たのはテレビで見て知っていたのですが、何と歴史的建造物であるCounty Hallにぴったりと隣接していて景観を重視するイギリス人がよく許したなというぐらい一体となっています。County Hallについては様々な苦い思い出があり久しぶりにみて感慨深いものがありました。1989年だった思いますがイギリス側と日本側が50%ずつを出資して開発会社を設立しCounty Hallの再開発を行うことになり、日本側は大手信託銀行が旗振り役で大手ゼネコンと当時私が勤務していた会社が出資したのですが、途中でロンドンの不動産マーケットが急速に悪化したため、日本側の旗振り役の信託銀行が手を引くことになり、大手ゼネコンや私の会社も已むなく(個人的には已むなくという感じだったのですが?)撤退することになり、イギリス側を説得して開発会社を清算したものです。文章で簡単に書くとこんな感じなのですが、実は当時いろいろありとても全部は書ききれません。私はロンドン赴任前から本件に関わっていたのですが、ロンドンに赴任と同時に佳境に入り、毎日のように(1日何回もということがあったと思います)取締役会(私はたしか代理でしたが結局取締役本人(ロンドン現法社長)は一度も出席しなかったような?)があり英語が分からないところは教えてもらいながらとにかく必死で頑張った記憶があります。最後の取締役会終了後はイギリス側と日本側が握手をして別れこれがイギリス式かと思ったものです。County Hallの再開発についてはその後も紆余曲折があり今はメインとしてマリオットホテルが営業しているようです。London Eyeには最後の日に乗って一周しました。

(引き続き次回以降)


       

Posted by tsukuma at 23:21Comments(0)

2013/10/31

Halloween/ハロウィン

    

 ハロウィンはもともと古代ケルト人のお祭りが起源らしいのですが、キリスト教国ではない日本でも最近は子供や若い人が仮装しているようですね。
 ベトナムでは、少なくとも私の記憶では当時は日本と同じようにハロウィンが話題になることはなかったと思いますが、最近は様変わりで10月31日のハロウィンを盛大にお祝い(お祝いではないか?)をするようです。新聞等を見る限り、ベトナムでのハロウィンは恐怖やお化け等と結びついているケースが多いような気がします?もっともこれは私がハロウィンのことを知らないので、ベトナムに限ったことではなくて、日本でもあるいは他の国でも一般的にそうなのかもしれません。

http://vietnamnews.vn/life-style/246977/twee-hue-howling-for-halloween.html
http://vietnamnews.vn/life-style/246681/storytelling-event-focuses-on-fright-night.html
http://vietnamnews.vn/life-style/246678/city-to-celebrate-spooky-season-with-circus.html
 
 
 

 上記のとおり1990年代の日本ではハロウィンはテレビで見るキリスト教国のお祭り程度の認識だったと記憶していますが、イギリスに駐在中は日本人である家族もそれなりに楽しんでいたようです。また近所の子供たちが我が家にもやってきて、提供するお菓子に窮して、たまたま家にあった日本のあんこ餅を渡したことがありました。(渡す時に子供達にこれでいいかどうか聞いた記憶あります。実際に彼らがそれを食べたかどうかは分かりません)
 ところでハロウィンの季節になると思い出すのが、1992年10月にアメリカの地方都市で留学中の日本人高校生が射殺された事件です。当時の報道では、銃を突きつけられて「Freeze(動くな)」と言われたのに「Please」と聞き間違えて近づいたので射殺されたということになっています(そもそも本人が亡くなっているのに何故聞き間違えたと分かるのか等、個人的には疑問に思う点がいくつかあるのですが?)。当時、イギリスに住んでいたのでテレビでは見ていませんが、日本の新聞で大きく報道されたのでよく覚えています。
 当時は仕事の時に英語で苦労していたので家に帰ってまで英語を聞くのが嫌で嫌で、テレビは画面だけ見ていて音声は無視していたような気がします。ちょうどその頃テレビでアメリカ映画が放映されて同じ英語圏なので当然字幕はないのですが、・・・もっとも隣家のおじいさんはアメリカ映画で使われているアメリカ英語はよく分からないとブツブツ言っていました。・・・映画の中で主人公の刑事が犯人に向かって銃を突きつけて、確かに「Freeze(動くな)」というセリフを喋っていました。ああこれかと思ったのですが、事件がなければ聞き飛ばしてしまうところで、「Freeze」という英単語も「凍る」という意味以外に、こういう使い方があることなど知る由もなかったのかと思います。放映された映画はおそらく「Beverly Hills Cop」だったと思います。
http://www.youtube.com/watch?v=RzQDtZeJvLI
  

Posted by tsukuma at 22:16Comments(0)

2013/10/06

Meritus Hotel(3)

Sofitel Plaza Hanoi ( 旧メリタス)の記事が載っていました。私が滞在していたころはシンガポール系でしたが。その後すぐにフランス系になったようです。2枚目の写真はもしかしたら最上階の私も滞在していた長期滞在者用のフロアーかもしれません。

http://www.vir.com.vn/news/en/travel/sofitel-plaza-hanoi-receives-domestic-and-international-awards.html

Sofitel Plaza Hanoi receives domestic and international awards
The Sofitel Plaza Hanoi has been chosen by its guests and the magazine’s readers of the prestigious accolades: The Guide Award (Top Ten most favoured hotel), Booking.com, TripAdvisor Certificate of Excellence (both for hotel and Summit Lounge) and World Luxury Hotel Awards 2013.

In recent years, those awards have grown in stature to become among the most respected travel and hospitality honours.
Sofitel Plaza Hanoi offers a unique, non-standardised service combining its French roots – a classic combination of elegance, savoir-faire and the art of hospitality – with the best of local culture in Vietnam. The hotel's dedicated team constantly delivers memorable touches that create an exceptional experience tailored to each individual guest. They continuously maintain and upgrade their rooms and facilities to ensure of ultimate comfort and luxury experiences.

“Those awards are truly meaningful recognition for our dedicated team’s constant efforts throughout the hotel’s renovation and helps demonstrate Sofitel’s success in continually upgrading its products and services to provide guests with the best experience possible,” said Antoine Lhuguenot, general manager of Sofitel Plaza Hanoi. “We will savour those awards and then redouble our efforts to ensure our clients’ highest expectations are always met. Hopefully this will enable us to toast further success in years to come.”
Especially during last week, in line with its position as an ambassador of French culture and joie de vivre, Sofitel Plaza Hanoi came together with Sofitel Luxury Hotels across Asia to celebrate this year’s grape harvest in France through a dedicated French Wine Week 2013.

  

Posted by tsukuma at 09:09Comments(0)

2013/09/23

Meritus Hotel(メリタス・ホテル)(2)

   


Meritusは旧市街の北側の西湖の側にあり、早朝の散歩コースの選択肢はたくさんありました。ハノイに再び滞在することになって、自転車を買うかどうかどうか迷ったのですが、滞在期間がどのくらいになるか検討がつかなかったので、取りあえずホアンキエム湖の近くにあるレンタサイクル屋さんに行って、中古の自転車を長期で借りることにしました。レンタサイクル屋さんと書きましたが、レンタサイクルは片手間で何か他に観光客向けの本業を営んでいたと思いますが、それが何だったか思い出せません。ただお店の場所は何となく覚えていて、今でもそこに行けるのではと思います。人の良さそうな主人と小学生ぐらいの女の子がいて、借りる前に、古い自転車ではありましたが、丁寧に整備してくれました。ちなみにレンタル料は全く覚えていませんが、おそらく感覚的にはかなり安いと感じたのではないかと思います。ということで再びハノイを自転車で疾走(?)することになりました。1997-8年当時は自分用の運転手つきの車がありましたが、この時は当然ながら車はなかったものの、合弁会社の方で便宜を図ってくれて、私の後任の日本人の車が空いているときは使ってもいいことになり、毎朝少し時間は遅くなりましたが、Meritusホテルまで迎えに来てくれました。 ただ、車の都合がつかないこともあり、そういう場合は自転車で通勤していました。車のやりくりが面倒くさかったのと乾季でもあったので、後半は殆ど自転車で通勤していたような記憶があります。自転車で通勤しているときに感じたのは(2000年当時ですが)、交通量が確実に増えていたことで、ラッシュアワーの時には、モーターバイクで渋滞して全く動かない状況も決して珍しくありませんでした。帰宅途中に合弁会社の近くにあった日本レストラン「サイゴンさくら」でよくトンカツ定食を食べました。このレストランのトンカツは絶品で今でも忘れられません。ちなみにこのレストランの経営主体がどうなっているのかは知りませんが、2010年12月に再訪した時にも元気(そうに)で営業していました(「サイゴンさくら」は今でもあるようです)。長期滞在者用とはいえホテル住まいは夜になると窮屈で、ホテルの近くの古い建物の地下のバーや、青空に近い生歌を披露する飲み屋さんによく行っていました。生歌は本職らしき歌手が(有名かどうか知りませんが)入れ替わり立ち替わり歌っていて、料金はアルコールだけでそれほど高くなかったと思います。客は殆ど若い男女でした。2010年12月に再訪した時は青空飲み屋はなくなっていましたが、地下にバーがあった古いビルはまだ残っていて、朝の散歩のときだったのでよく分かりませんでしたが、地下にバーらしきものがありました。

      

Posted by tsukuma at 03:43Comments(0)

2013/09/14

Meritus Hotel 現在は別のホテル名

    

 会社清算の基本的な合意には達したものの、それから気が遠くなるほど細かい実務作業が始まりました。前述のように会社解散に至るドキュメントは日本側が準備するということで英国系の法律事務所でドラフトを作成してもらいベトナム側に送付したものの、一向に返事が無く、業を煮やしたH氏が私に対して取りあえず様子を見に行けということでハノイに出かけることになりました。2000年9月のことです。結果的には私がハノイに出かけた途端にドキュメンテーションが始まることになりましたが、私が行ったから始まったのか、たまたまそういうタイミングだったのかはよく分かりませんでした。ということで再びハノイに滞在することになりました。今回は駐在ということではなく長期出張ということになりました(何が違ったのかよく覚えていませんが、おそらく労働ビザの形態が違ったのでは?)。滞在先は西湖(“West Lake”)の側にあるMeritus Hotelということになりました。当時シンガポール系のホテルで1997-1998年当時は建設中だった記憶があります。ホテルの最上階は長期滞在者用のフロアーになっていて、食堂も一般ホテルとは別になっていました。西湖も含め市内が一望でき、部屋は紅河側に面していて紅河の向こう側の住宅街等もよく見渡せました。ホテル自体は快適でしたが、早朝多数のアヒルか何かの大きな鳴き声でたたき起こされるのには閉口しました。滞在者は主にヨーロッパ各国やオーストラリアのビジネスマン達で、殆どの人がベトナムと中国を一緒に担当していたようです。中にはベトナム語や中国語が堪能な人もいたようです(私は聞いても分かりませんが、本人たちがそう言っていたような記憶があります)。何人かとは朝食の時に話すことがあり、商売は中国の方がベトナムよりも難しいと例外なく言っていました。東洋系は私以外は殆ど見かけませんでしたが、たまに中国系の若いシンガポール人がいて、食堂では何時もノートパソコンを開いていてシンガポール英語で携帯に向かって何か話しているITオタクのようなタイプで、話をしたことはありませんでした。 日本人も殆ど居なかったのですが、ある日顔見知りの日本人と偶然再会して大変驚いたことがありました。ホーチミンの韓国系リース会社に株主の日債銀から出向していた人物で何度か会ったことがありましたが、LTCB破綻後に同じく日債銀が破綻し銀行を退職して別件で日本政府系のプロジェクトでハノイに滞在していたとのことでした。その後ほぼ同じ時期をハノイの同じホテルで過ごし、何度か外で食事をしたこともありました。ホテルの食事は朝食だけでしたが、夕食時も食堂のテーブルに(豪華な)軽食が準備されていて、面倒な時はそれで夕食を済ませていました。 
こうやって再びハノイで仕事に追われる日々が始まることになりました。

 ちなみにホテルは2001年ごろ売却か何かで株主の変更があったようで、名称がSophitel Plaza Hanoiに変更になったようです。2010年10月にハノイを再訪したとき、お世話になった旅行会社の日本語が分かる若いベトナム人の担当者にMeritusと言っても通じませんでした。


      

Posted by tsukuma at 04:10Comments(0)

2013/09/08

夏休み/休題 ロボット & LBO

    

夏休み/休題 ベトナムとロボット

ネットでの情報ですが、ベトナムのTOSY Robotics 社という会社が開発した踊るロボットが世界中の展示会で好評を博し、ベトナム他全世界(残念ながら日本は含まれないようです)で同ロボットを販売するとのことで、値段も25-50ドルと手頃なようです。音楽に合わせて踊る世界唯一のロボットで、56パターンの踊り方があるそうです。

http://www.youtube.com/watch?v=43HYs3ybYwc

ベトナム人はロボットにかなり興味があるのでは? 私は日本人なので日本の新聞に出てくロボットに関する記事は見落としていることもありますが、 ベトナムの英字新聞を見ているだけでもロボットに関する記事がかなり出てくるような気がします。日本でもよく話題になりますが、大学生によるロボットコンテストでは今年は先日ベトナムのダナンで開催された大会で金沢の大学が優勝したようですが、過去ベトナムの大学が圧勝しているようです。いずれベトナムが世界中のロボット産業をリードするかもしれません(今でもしているかもしれませんが)。

夏休み/休題 Leveraged buyouts (LBO)

http://www.vir.com.vn/news/en/money/leveraged-buyouts-to-create-waves.html

新聞を見ていたらLBOの見出しが久しぶりに目に留まりました。会社を買収する場合のファイナンス手法で、1990年ごろアメリカで流行し、日本でも幾つか例があるようです。実は当時はよく理解できなかったのですが利幅が大きいというのでローン部分に参加したことが何回かあり、証券会社が作成した訳が分からない英語の説明書を必死で読んで稟議書を作成していました。どうしても間に合わなくて徹夜したこともあったような記憶があります。今考えると何か空しいですが、添付の新聞記事の結論はベトナムでは時期尚早ということのようです。しかし変化が速い国なのであっと言う間に主流になるかもしれません。私は個人的にはああいう苦労は二度としたくありませんが。


      

Posted by tsukuma at 06:58Comments(0)

2013/08/24

夏休み/休題 火災  ホアンキエム湖の亀

    


「夏休み/休題 火災」

前回HCMで大規模な火災訓練が実施されたという記事を紹介しましたが、8月21日(水)にHCMの中心部から40分程度らしいのですが、Tan Tao Industrial Park(タンタン工業団地)にある繊維工場で大規模な火事が実際に発生したようです。幸い負傷者は居なかったようです。写真を見ると火災の規模もさることながら、実に大勢の労働者が工場で働いていることに驚きます。

http://vietnamnews.vn/society/243798/firefighters-tackle-textile-factory-blaze.html

「夏休み/休題 ホアンキエム湖の亀」

http://www.youtube.com/watch?v=UgWPsR1r3Nw

伝説では、「15世紀ごろベトナムの皇帝が湖の宝剣を手にし、その剣によって中国(明)との戦いに勝利した。その後、ベトナム皇帝は湖の上で金の大亀 (Kim Qui) から平和になったので持ち主である竜王に剣を返すように啓示され、湖の中心近くにある小島で剣を返した。それゆえ、湖は現在の名前で呼ばれるようになった。この物語は水上人形劇で見ることができる。小島にはその後、亀の塔(Thap Rua))が建てられている」そうです。

私がハノイに赴任していろいろと感じたことがありましたが、その中には亀の件がありました。亀はベトナム人にとっては非常に大事な存在のようで、特にホアンキエム湖の周辺には、亀に関する像や門やお土産物等まで含め実に多くのものを見ることができます。日本でも「亀は万年」と言いますが、当時ホアンキエム湖には100歳を超える大亀が生存しているという噂があり、実際の目撃談もあったようで、当時新聞で大亀の写真を見た記憶があります。私は、ホアンキエム湖の南側に面していた合弁会社に勤務していた頃は毎日のようにホアンキエム湖の周りを散歩していましたが、残念ながら大亀を見ることはできませんでしたが、2011年には実際に負傷した大亀を捕獲して治療したということもあったようです。また、湖の中にある玉山祠には、1968年に発見された推定年齢4-500歳の大きな亀の剥製が展示されていて、当時はベトナム語の説明書が読めなかったせいか正直あまり印象には残っていないのですが、そういえば見たような気がします。

http://www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g293924-d311070-i29320581-Lake_of_the_Restored_Sword_Hoan_Kiem_Lake-Hanoi.html


      

Posted by tsukuma at 05:30Comments(0)

2013/08/17

夏休み/休題 ホーチミンでの火災訓練

    


8月14日(水曜日)にホーチミンの高層ビルで大規模な火災訓練が実施され、約3000人が参加したそうです。添付の写真を見るとかなり真剣な様子で、日本のどこかのんびりした火災訓練とは全然違います。

http://vietnamnews.vn/society/243488/hcm-city-organises-huge-fire-drill.html

HCM CITY (VNS)— A major fire drill involving high-rise buildings will be held in downtown HCM City with assistance from the Ministries of Public Security and Defence.


 この記事を見て思い出したのですが、実は1997年当時ハノイでアパートに入居する際にいくつか(かなりだったかもしれません)の部屋が空いていて、決める基準になったのが火災等の万一の場合に対応できるかどうかということでした。結局入居することになったのは12-13階建てぐらいの7階の一番端の部屋だったのですが、アパートのベランダから隣接していたホテルの中庭に飛び降りられるようになっていて、自分としては万一火災が起きた場合にも対応できるようにと選んだつもりでした。何故そんなことをしたのかというと、当時聞いた話(実際に自分で確認したわけではない)ではハノイには高いビルに対応できる消防車(ハシゴ車)がなかったので、そういうビルが火災になった場合には対応できないと言われていました。実際にはハノイに住んでいた間は火災や消防車を見た記憶はありません。但し、火災が少ないかというとネットを見ると最近は結構発生しているようなので、私が住んでいたのは昔のことではありますが、たまたま遭遇しなかったということかもしれません。また添付の写真を見て思い出しましたが、ハノイではヘリコプターを見た記憶はありませんでした。ついでですが、ノイバイ空港に旧ソ連製のミグ戦闘機数機が駐機していました。但し、実際に飛んでいるところは見たことはありません。

 そういえば、ホーチミンの繁華街のビルで大規模な火災が実際に起こったことがあったことを思い出し、検索してみると、かなり以前のことではありますが2002年10月に発生し50人近くの方が亡くなったようです。この火事のニュースは日本でも大々的に報道され、日本の新聞で目撃者として登場していた人がたまたまハノイ駐在時にお世話になった人で、その後ホーチミンに転勤して火事を目撃したことをその報道で知りました。

http://www.vietnam-go.com/kuchikomi/topic.php?id=11380

 ホーチミンでの水曜日の火災訓練の様子を見ると、参加者の真剣な様子に加え消防車やヘリコプター等の設備・機材も充実して隔世の感があります。


      

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2013/08/10

休題 巨大プロジェクト

  


夏休みということで一休みですが。 ベトナムの新聞を見ていたら、ハノイでVincom Mega Royal Cityというプロジェクトの一部らしいのですが、地下の商店街が7/26にオープンしたという記事がありました。私は素人なのでハノイでわざわざ地下でなくてもいいのではと思いますが?まだ全部のオープンではないようですが東南アジア最大の複合施設だそうで、ハノイで初めてのアイススケート・リンクもオープンするようです。ハノイでアイススケートというと、沖縄でアイススケートみたいなものですが、沖縄にアイススケート・リンクがあるかどうかは知りません? 同プロジェクトはハノイの中心部から西に行ったところに位置するようで、1997-8年ごろに私が住んでいたアパートからも近いようです。当時のプロジェクト周辺の様子は何となく覚えていますが、いくら想像力を働かせても新プロジェクトの巨大な複合施設のイメージが湧きません。ただ英字新聞を見ている限り、オープンセレモニーの記事がそれほどでもなかったというのは気のせいでしょうか? ハノイには完成済みや建設中のものも含めて、高層ビルや複合施設がかなりの数になり、日本でバブルの崩壊を経験した者にはついオーバーサプライではないかと気になりますが、やはりベトナムは成長著しいので需要はいくらでもついてくるようです。 2010年12月にハノイを再訪した時には、ホアンキエム湖を中心とする地域はそれほど変化していなかったのでホッとしましたが、あれからもう2年これからもますます発展していくのでしょう。



  

http://vir.com.vn/news/en/corporate/vincom-megamall-royal-city-ready-to-open.html


Vincom MegaMall Royal City ready to open
Developers, tenants and visitors are eager to wait for the opening of Vincom Mega Mall Royal City – the biggest ever underground trading and recreation complex of South East Asia on July 26.

According to Vingroup – the developer of this mega complex, the opening ceremony of Vincom Mega Mall Royal City will be implemented at Royal City, 72A Nguyen Trai street, Thanh Xuan district of Hanoi.
The opening will be added with many different and sophisticated art performances and special promotion and gift presents will also be taken on this occasion.
Vincom Mega Mall Royal City is the first ever entertainment complex in Vietnam which has been developed accordingly to the international Mega Mall model which can meet the highest demand of the customers and visitors.
Organised with “all in one” model, the complex combines a range of values of tourism, shopping and entertainment, as well as social exchanges, friendship gathering and especially family entertainment. It is not a home for more than 800 booths but also offering unique and new entertainment activities to its visitors.

Vincom Mega Mall Royal City combines a range of different unique facilities. It has the largest indoor water park in South East Asia, the first ice-skating rink in Vietnam, Vinpearl games, Fairytale Garden, Cinema, hypermarket, electronics and furniture centre. It also has food street of 44,000 square metre with more than 170 restaurants.
Vinpearl Water Park Royal City is listed in the top attractive games of Asia countries. In the total area of 24,000 square metre, Vinpearl Water Park Royal City is divided into 14 different items such as family and children swimming pool, professional sport pool, waves created pool, extreme free-fall water slides, super-speed spiral slides and concave super sliding tube.
Apart from that, Vincom Mega Mall Royal City also has the biggest in Vietnam - Vinpearl Ice Rink Royal City. With total area of more than 3,000 square metre, the Ice Rink will serve 150 players for every turn and especially players will be trained by Russia trainers – the homeland of skiing.

World Games is also another item which can not be missed in this complex with different games and the KixCity – especially served for children from 3 to 15 years.
The opening Vincom Mega Mall Royal City will be served with a special art performance attended by leading singers in Vietnam now such as Dang Duong, Viet Hoan, Hoang Tung, Semi Classic orchestra and Ho Ngoc Ha – one of the most favour singers in Vietnam, and dragon dance.
Especially street activities under the European style will be held from 17 to 21pm on July 26, 27 and 28 at the Royal City Square to welcome visitors with many other greeting activities such as photos shooting with status, music performance, portrait painting and street magic.
Vincom Mega Mall Royal is developed by Vingroup – the owner of four strategic brands: Vincom in real estate, Vinpearl in tourism, Vincharm in healthcare and Vinmex in high-quality healthcare services.







  

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2013/08/03

2年ぶりのハノイ(4)

    

2年ぶりのハノイへの短期出張後、一旦帰国しニューヨークに出張したりしていましたが、その後日本でベトナムに関する細かい作業に入りました。残念ながら10年前のことであり細かいことは思い出せないのですが、当方は合弁設立の時に依頼した英国系の法律事務所に再びお願いすることになりました。メトロポールホテルのすぐ近くのInternational Centre(というビル名だったと思いますが)というビルに入居していて、合弁会社設立の時の担当だったオーストラリア人の女性弁護士は転勤した後で居ませんでしたが、主任弁護士みたいな英国人の弁護士はまだ居ました。その法律事務所に再びお願いするようになった経緯はよく思い出せないのですが、少なくとも短期出張の時にはそんな時間はなく、日本に帰った後に関係者の了解をとった上でFaxやメールでお願いしたようです。解散や清算に係る契約書についてはその法律事務所にドラフトしてもらうことでVCBからも了解をもらいました。これもFaxやメールでやり取りのうえ了解してもらったような記憶があります。とにかく毎日のようにあちらこちらにFaxやメールでやり取りをしていたような記憶がありますが、一歩一歩進むのにとにかく時間がかかりました。契約書は当然ベトナム語版と英語版が必要なので、ドラフトはその法律事務所のベトナム人の弁護士が作成しました。このベトナム人弁護士はまだ若く当時おそらく30歳ぐらいだったと思いますが、どこでどう勉強したのか最後まで聞かなかったと思いますが、ベトナム語(こちらは理解できませんが)はもちろんですが英語のドキュメンテーションの能力も非常に高かったことに驚いたものです。見た感じは普通のお兄さんだったのですが、とにかく舌を巻くほど優秀でした。後日ハノイでは、もっぱらこの若いベトナム人弁護士が実務を担当し、佳境の時には殆ど毎日会っていました。法律事務所は10階建てぐらい(と思っていたのですが添付の写真を見ると6-7階建ですね?当時はハノイでは数少ない近代的ビルの1つでした。)のビルの上の方の階に入居していましたが、その法律事務所から見ていたハノイの中心部の風景は今でもよく覚えています。




      

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2013/07/28

2000年5月 2年ぶりのハノイ(3)

    


 ハノイに到着した日、合弁会社の元の同僚たちが日航ホテルまで来てくれました。一緒に日本からやってきたH氏は機内での一杯(数杯か?)が効いて、うまい具合に(?)ホテルに到着するなりそのまま寝てしまいました。私は元同僚たちと何処かに食事に行った筈ですがよく思い出せません。私もその時かなり飲んだのかもしれません。わずか2時間の時差ですが、私は少しの時差でも適応できないようです。そういえばロンドン駐在時代に夏時間と冬時間の切り替えで、1年に2回(3月と10月だったと思いますが?)1時間の調整がありましたが、切り替え後1週間程度は体調がおかしかったようです。

 翌日はVCBとのミーティングでした。中国式(かどうかその時はよく知らなかったのですが、後年中国で同じスタイルの会談形式を見たことがあります。)の配置で、上座にVCBの頭取(と言っても私より若かったですが)とH氏が同じ方向に向かって(対面ではない)座り、横の席に私とVCB側にはJVセクションのスタッフたち(これまた懐かしい面々)が座り、通訳なしの英語でのやり取りになりました。かなり長いミーティングでしたが、なかなか本題に入らずにこちらもハラハラしていたのですが、H氏も同じだったようで途中で私に向かって日本語で苛立ったような発言があったのを記憶しています。最後は何とか合弁会社の解散・清算に向けての合意に達しました。個人的な意見ですが、ベトナムの社会は日本と似たような面があり、日本もベトナムも村社会だと言う人がいましたが、担当者同士でいくらやり取りを繰り返してもなかなか前に進まず、そういう時は長老同士が話をして合意をするのが早いということがよく言われましたが、本件はまさにそうだったようです。ただ合意をしたと言ってもそれはあくまで基本合意で、そのあとは担当者同士で気が遠くなるような細かい作業が待っていました。

 とにかく会談は無事終わり、VCBのスタッフたちとは久しぶりの再会を喜んだものです。翌日には私はH氏と一緒にひとまず帰国しましたが、帰りはさすがにファーストクラスとはいかず予約どおりエコノミーだったと思います。帰国後Y氏はLTCB(その時は行名が変わっていたかもしれません)に出向きLTCBのCEOと面会して本件の説明をして了解を求めたようです(もちろん要件は他にもいろいろあったと思いますが。)。ちなみにH氏とLTCBのCEOは外資系の別々の石油会社で社長をしていた経験があり、お互いに面識があったようです。私は、前に投稿したように、このあとニューヨークに出張しましたが、その後はまたベトナムのどっぷりと浸かることになりました。

(ちなみに写真の1枚目は中央銀行ですがMeetingの場所は写真には写っていませんが隣のVCB本店でした。当時は中央銀行に入ると何故か1階はVCBの広い窓口店舗でした。VCB本店は2010年12月に再訪したときは高層ビルに建て替えられていました(そういえば駐在中高層ビルの模型がVCB本店の玄関に飾られていました。)
  

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2013/07/20

2000年5月 2年ぶりのハノイ(2)

   

 ちょうどベトナムから離れていた1998年後半から2000年前半にかけて、わずか2年の間にベトナムには大きな変化があったようでした。ベトナムはドイモイ政策により積極的に外資を導入しましたが、主に1997年のアジア通貨危機の影響だったと思いますが、1998年から2000、年にかけて外国からベトナムへの投資が極端に落ち込むという事態になりました。私も当時やはり気にはなっていたようで報道等を通じて統計数字をよく読んでいました。VNニュースの英語版も、当時オンラインで見ることができるようになったのではと思います。ということでマスコミ等を通じて情報は入っては来ましたが、どちらかというと悲観的なニュースが多かったような記憶があります。為替も記憶が定かではないのですが、1997年当時1ドル=10,000ドン=100円だったものが、2000年5月ごろの段階で1ドル=15,000ドンぐらいではなかったかと思います(円は全く記憶にありません)?為替については貿易をはじめとする通貨政策の問題があり複雑に絡み合っているので、一概に善し悪しは言えませんが、インフレは間違いなく進んでいたようです。

 しかし2年ぶりに訪れたハノイは活気にあふれていました。(日本人だからそう思うのかもしれませんが)日本ではわずか2年間の変化はたいしたことはありませんが、ハノイにおける変化は驚くほどでした。例えば、モーターバイクの数がものすごく増えていて、1997年当時のハノイには信号は中心部に1か所あっただけでしたが、驚くほど信号の数が増えていました。ベトナムやハノイの交通事情はテレビでよく登場しますが、以前はあまり見た記憶は無かったのですが、通勤時間帯にはモーターバイクで渋滞して動けなくなる光景をたびたび目にしました。1997年当時は殆ど普及していなかった携帯電話も皆が持っていて変化の速さに驚いたものです。そもそも1997年当時は固定電話の普及率もそれほど高くはなかったような記憶があります。専門的なことはよく分かりませんが、もしかすると固定電話を飛び越して携帯電話・IP電話の時代になったのかもしれません。
 
 こういう状況で、再び仕事の件でまたバタバタすることになりました。


   
  

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2013/07/13

2000年5月 2年ぶりのハノイ

    


1998年9月27日に会社が破綻して以降、実に多くのことがありました。ハノイの合弁会社の件は当然ながら気にはなっていて、いろいろなことが情報として入ってきたのですが、敢えて聞こえないふりをしていました。しかしながら欧州の拠点の整理がほぼ見えてきて、ハワイのゴルフ場の件が終わった2000年3月ごろから、管財人代理のH氏からまた一緒にやろうと軽く言われて、再びハノイの件に関与することになりました。但し、今回は前回と全く逆で合弁会社の清算ということではありましたが。 ハノイの合弁会社はLTCBやJLCが破綻した1998年9~10月以降もそのまま中途半端な形で継続していました。海外の現地子会社はもちろんのこと、多くの合弁会社も日本の株主の破綻で整理をせざるをえなくなった状況の中では非常に異例だったのではと思います。但し、そうはいっても日本の株主が破綻したことから合弁会社としてなかなか前向きの方針も取れなかったようです。 人的にもLTCB出身のY社長はLTCB破綻後退社し合弁会社の社長も辞任してベトナム人の副社長が社長に就任していました。社員数人も転職して別のところに移っていたようです。私の後任だったJLC出身者は引き続き合弁会社に残っていましたが、もともと日本国内の営業畑出身で海外の会社云々については経験がなかったこともあり、結局私に嫌な役割が回ってきました。 H氏は私が再び関与する前に1-2度ハノイに出かけ合弁相手のVCBの頭取と会ってはいましたが、本格的に取り組むことになり2000年の5月にH氏と一緒にハノイに出かけることになりました。前と同じく香港経由のフライトでしたが、成田空港でチェックインしたところ香港行きのエコノミーがビジネスを飛び越えてファーストクラスに格上げされていて、最初事情がよく分からなかったのですが、後でH氏が航空会社のVIPだったことから同乗者の私まで恩恵に預かったことが判明して、とにかく生まれて初めてファーストクラスに乗り非常に緊張した記憶があります。香港は啓徳空港から新空港に変更されていて市街地スレスレで着陸するというスリルは味わえなくなっていました。香港国際空港には航空会社の香港人女性スタッフがVIPであるH氏を待ち構えていました。ハノイのノイバイ空港では運転手だったMr.Kが迎えに来てくれていて、宿泊先の日航ホテルに落ち着きました。日航ホテルは市街地の南の旧レーニン公園の近くにあり1997-1998年ごろは建設中でした。ホテルの運営形態がどうなっているのかは知りませんが、投資家の1社として日本の某中堅ゼネコンの名前を聞いた記憶があり、日航ホテルはオペレーターとして参加していたようです。なお3-4年前に日航ホテルは名前を残したまま別のホテルチェーンに身売りしたのではと思います。日航ホテルハノイは悪くはないのですが、(当時)韓国系の大宇ホテルに比べるとやはり見劣りがしました。2年ぶりのハノイは懐かしい匂い・・全く個人的な感覚ですが飛行機を降りた瞬間から米を炊くような匂い・・がしました。1年で一番暑い季節と身構えて行ったのですが、意外と涼しかったというのが久しぶりのハノイの印象でした。
  

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2013/07/07

2000年2月 ミラノ、ロッテルダム、ロンドン

   


欧州全体が暗くて寒い2月に、エコノミー席で12-13時間かけて出張するのは結構大変なのですが、中間の締めくくりとして上記3都市に出張しました(結局この出張が欧州最後の出張になりました)。

ミラノ

到着した夜はミラノ駅の近くのホテルに泊まり、夕食は近くの中華料理屋へ行った記憶があります。欧州で一人の時は中華料理に決めていました。言葉は通じなくてもメニューには必ず現地語の他中国語の記載があり何となく分かります。翌日は会計事務所で長時間の打ち合わせ。イタリア人との英語での打ち合わせは本当に疲れます。向こうも同じことを思っていたのでしょうが。ランチは会計士たちとパスタを食べましたが一口にパスタと言ってもいろいろな種類があります。イギリス人や日本人はパスタを食べるときはフォークとスプーンを使いますが、イタリア人は、私が見た限り、フォークしか使わないようです。ミラノはファッションの中心地で観光名所らしいのですが、結局そういう場所には行ったことがなく、数回の出張はいつも冬だったのでミラノは暗いというイメージしかありません。

ロッテルダム

ミラノからオランダへ。アムステルダムにはスキポール空港という実に馬鹿でかい飛行場があります。ロンドンに駐在していた頃、ロンドンから英国の地方空港に行く場合にはスキポール空港を経由した方が早いという話を聞いたことがありました。アムステルダムには何回か行ったことがありましたがロッテルダムは初めてでスキポール空港の地下駅から電車で1時間ほどだったと思います。駅の近くのホテルに宿泊しましたが夕食はやはり近くの中華料理屋に行った記憶があります。ロッテルダムではオランダ会社を管理していた法律事務所と会計事務所を訪問し最後の打ち合わせを行いました。記憶が定かではないのですがロッテルダムまで実際にMeetingで行ったのは私が最初で最後だったのではと思います。とにかくオランダ人は英語が堪能で驚きます。弁護士会計士はもちろん(職業差別ではないので念のため)タクシーの運転手も実に分かりやすい英語を話します。

ロンドン

最後はロンドンに行きました。やはり駐在経験があるのでとにかく落ち着きます。たまたま東京の航空機案件の担当者(ロンドン駐在時代の同僚・後輩)と一緒になり同じホテルに宿泊しました。管財人とのMeetingはもちろんですが、ロンドンのペーパー会社等の銀行口座閉鎖等に走り回った記憶があります。また重要な仕事として、オランダ会社の債権者とのMeetingがありました。ブロードゲートと呼ばれる数棟のオフィスを中心とする複合プロジェクト(世界で初めてノンリコースローンが考案されたプロジェクトと言われています)にあった某信託銀行ロンドン支店で担当者と初めて会いましたが、予想に反して若くて小柄で落ち着いた物腰の人物でした(電話では全く正反対のイメージを抱いていました)。Meetingではとにかく誠実に対応し過去の経緯を全てオープンにしてかなり長時間を要したと記憶していますが何とか無事に終わりました(分かってくれた?)。出張最後には英国現法で営業部長をしていたイギリス人がホテルまで私と後輩を訪ねてきてくれました。私より10歳ほど年長だったと思いますが、ホテルのバーで一杯やりながらいろいろな思い出を語りながら涙を流していました。イギリスで人が泣くのをあまり見た記憶が無かったのですがこちらも胸がいっぱいになりました。

2000年4月 東京

1999年4月に大半の資産と人員が新設のリース会社に譲渡・転籍した後、更生会社に残った我々は1年間更生業務を行っていましたが、2000年4月に米国自動車メーカー系金融会社がスポンサーとして残りの資産と人員を引き受けることになりそちらに転籍することになりました。但し、私は更生会社から委託された形で引き続き更生業務を行うことになり表面的には何も変化はありませんでした。

こうして、ハワイの資産処分が終わり、欧州の拠点・資産の処分もかなり目途がついたこともあり、再びハノイの合弁会社の件の関与が始まります。その前に当時のパスポートを見ていて思い出しましたが、この時期ニューヨークに出張に出かけています。

2000年7月 ニューヨーク

なぜこの時期にNYに行ったのかよく思い出せないのですが、ニューヨークには先輩の日本人が一人残りアメリカ現法の整理を進めていました。1999年6月のアリゾナ州フエニックスで一緒に仕事をして以来だったと思いますが、何か重要なことが起こり人出が足りなったので急きょ出かけたような記憶があります。アメリカについては私はサポートということで、主に日本サイドでアメリカの件での東京地裁からの許可取得のための申請書等を作成していました。電話で行われるニューヨークでの債権者会議には日本から変な時間に参加していました。また債権者である邦銀の東京本社や大阪本社での説明には私が出向いていました。ニューヨークでは先輩の住居兼オフィスの近くの安いホテルに宿泊しました。大勢の人に会った記憶は無いのですが、何か慌ただしく事務作業を行った記憶があります。この先輩はお酒が全然駄目だったのですが夜はイタリアレストラン等で適当に付き合ってくれました。群馬県高崎市か前橋市に家があったと思いますが、今から5年ほど前にはまだニューヨークに在住という話を聞きました。

以上のとおり当時のパスポートを見ると短期間に何回も出張しています。結構辛い出来事もありましたがそういう経験は思い出したくもないので意識的に投稿では触れませんでした。

ということで、また表題どおりベトナムの思い出に戻ります。ハワイの件が終わった2000年の4月ごろだったと思いますが、管財人代理のH氏から今度はベトナム・ハノイだと言われて、ハノイの合弁会社の件だけは嫌だったのですが、H氏からハワイと同じ役割分担で行こうと言われ気分を新たにして取り組むことにしました。来週からはまた「ベトナムの思い出」です。
  

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2013/07/06

会社更生業務(2) 1999年4月~2000年1月 東京 

   

当時いろいろ並行して進めていたのですが、当初1年間の私の主要業務は欧州事業の整理で、欧州の拠点についてはロンドンやミラノの会計事務所が管財人として破産手続きを行っていたので場所は欧州と東京で離れていましたが、こちらは管財人の指示で動いていて毎日のように管財人本人はもちろん管財人の部下の若手の会計士たちからも山のような質問や依頼の連絡がありました。連絡手段はメールやFaxでしたが欧州の場合はメールが主だったと思います。上記の拠点の他にオランダのペーパー会社があり、こちらについては何故か私的整理ということで、当方が全てアレンジする必要がありましたが、これがかなり大変な仕事でした。オランダの会社は財務用(資金調達)として設立されたらしいのですが、オランダはタックス・ヘブンとして便利だったようで航空機や船舶やその他のローン案件のブッキングをかなり行っていたようです。ロンドンの財務担当者がオランダ会社の管理をしていて、私もロンドンに駐在していたので自分の業務には全く関係なかったのですが、この会社の存在は知っていました。私が担当するようになって最初に取りかかったのが財務諸表の作成でした。たしか2-3年前から作成されていなかったので、遡りで作成する必要がありました。しかも会社の債権者(主に邦銀のロンドン支店2-3行)からは会計事務所による監査の要求もありかなり難航しました。難航した理由の一つに、会社の資産として何があるのかがよく分からなかったということがありました。何を馬鹿なことをと言われそうですが、JLCは破綻前に世界中のタックス・ヘブンを使っていわゆる「飛ばし」を行っていて、オランダ会社もその中に組み込まれていたという経緯がありました。更生業務の中で「飛ばし」の全体像を解明するのは私の仕事ではなかったのですが、オランダ会社に関連する流れを理解するためにはある程度全体像も把握しておく必要があり、もうそれは大変でした。「飛ばし」の仕組みについては数名の若手が実務を担当していたようですが、当時私が率直に思ったことは世の中には実に頭が良い人間がしかも同じ会社にいたということでした。その数名はもう他に転職していて、そのことが「飛ばし」の解明に手間取った原因の一つだったような記憶があります。そういった背景があったのですがJLCが破綻して、オランダ会社についてJLCロンドンの財務担当者とオランダ会社の債権者である邦銀ロンドン支店2-3行との間でかなり揉めたということがあったようです。財務担当者があるはずもない資産を有ると言ったことが揉めた最大の原因だったようで、特に某信託銀行ロンドン支店の担当者は不信感の塊で、私が担当になった後も電話会議ではこの信託銀行の担当者をなだめるのが大変な仕事でした。とにかくこういう場合は全てオープンにして透明性に徹底することが大事と思い、某信託銀行の担当者もだんだん軟化していた頃だと思いますが、私自身もオランダ会社にあると信じていた資産が飛ばしの解明の過程で実は無いことが判明し、目の前が真っ暗になったことがありました。その時には新設リース会社に移籍していた財務担当者に対してはもう怒りが収まりませんでしたが、幸い某信託銀行の担当者に対しては説明の限りを尽くして何とか分かってもらえたという記憶があります。もう時効だと思うので率直に言いますが、この財務担当者は虚言癖があったのではないかと思います。 虚言癖が言い過ぎであれば、その場しのぎで嘘も平気でいうタイプだったのかもしれません。とにかくこの件で仕事には透明性が大事ということを再認識した次第でした。整理の最終目標は債権者に対する配当ですが、オランダ会社については債権額に対して数パーセントだったような記憶があります。某信託銀行の担当者にしてみれば、融資したお金がどこに行ったのか分からない訳ですから、怒るのも無理はないということだったと思います。  

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2013/06/29

1999年7月~2000年3月 東京 ハワイ

  

1999年7月ごろだったと思いますが、ただでさえ忙しいのにハワイのゴルフ場向けローン案件の処理が新たに担当案件として加わりました。もともとJLC国内の不動産部隊が日本人社会の中で手がけて不良債権になっていたものが、更生会社の不動産チームに移管されて、不良債権ということで英語の世界になってしまうので、再度国際部に移管されたものです。それまでは日本人の弁護士が間に入って膨大な英語の契約書や裁判書類の翻訳等も作成されていてよく出来た翻訳ではありましたが、それでも翻訳は翻訳なのでオリジナルの英語版を見ざるを得ず、膨大な翻訳は時間とお金の無駄だったかもしれません。この案件はある有名な日本のリゾート会社が手掛けたものですが、ゴルフ場の開発許可が完全ではなくオープン出来ずにいました。 ちなみにLTCBも実に深く絡んでいました。LTCBは、本件だけではなく、このリゾート会社に対して信じられないないほど多額のエクスポージャーがあり、LTCBが破たんした原因の一つと言われていました。とにかく私が担当になった時はこの案件は一言で言って「ぐちゃぐちゃ」で、案件の出口としては担保物件のゴルフ場の処分に決まっていたのですが、ハワイと日本で訴訟合戦になっていてもうどこから手をつけていいのか分からない状況でした。この時期LTCBは一時国有化されていて我々と同じような状況でしたが、私の印象では我々以上に当事者能力がなく、多くの優秀な人材が流失していたせいもあったと思いますが、本件でLTCBとミーティングを持っても、大勢出席するだが一体誰が中心人物かもよく分からず、もう時効なのでぶっちゃけて言ってしまうと「雁首ばかり揃え」「口先だけ達者で実は何もしようとしない」のでミーティングをしても時間の無駄というのが正直な感想でした。ということでこちらが主体的に動かざるを得ない状況でした。この時期、管財人代理みたいな立場で国際部を管掌するH氏が更生会社に加わり私もH氏と一緒に本件の処理をすることになります。H氏は当初は経歴もよく分からなかったのですが、とにかく驚くほど英語が読み書きも含めて達者な老人(20歳年長)でしたが、よく聞いてみると元某石油メジャーの日本法人社長という経歴で管財人と旧知の間柄ということだったようです。英語力だけでなく色々な方面に卓越した能力を有していることはすぐに分かりました。本当はレベルが違いすぎて仲良くお付き合できるような間柄ではなかったのかもしれませんが、私は本件も含め多くの仕事を彼と一緒に行いずいぶんと懇意にさせてもらいました。ところでリゾート会社の社長は当時民事刑事の多くの裁判の被告人という立場だったと思いますが、マスコミでは結構有名で私も初めて会う時はかなり緊張したのですが(実はH氏もそうだったと後で言っていました)、会ってみると年下の私に対しても紳士的でマスコミを通じて私が持っていたイメージとかなり違うなというのが私個人の正直な印象でしたが、ただ実務的な細かい話は苦手なようでした。H氏によれば社長は老人キラーだということを言っていました。あれほど深くLTCBに食い込んだのでそうだったのかもしれません。仕事の分担としては、大まかな方針は政治的な話も含めH氏が担当し、私は実務面を担当していました。少し話が脱線しますが、実は日本には他にも本件に係る当事者が数人いましたが、H氏もこの社長も含め私以外は慶応大学出身(H氏は中学から大学まで、社長は小学校から大学まで慶応だったそうです)で、敵味方にかかわらず“慶応”という共通の基盤を部外者である私が感じたのは一度や二度ではなかったような気がします。“慶応”が本件解決の手助けになったと言っても過言ではなかったと思います。こうして数カ月はかかりましたが、本件は解決に向かうことになりゴルフ場は開発許可が不完全なまま売却されることになりました。数か月かかったとは言えむしろ短い期間だったかもしれません。今でもH氏がいなければあれほど短期間で処理できなかったと思っています。

2000年3月 ハワイ

本件の最終処理としてハワイで契約書のドキュメンテーションミーティングが行われ、管財人団の若手弁護士と一緒に参加しました。当時ハワイはリゾート関連資産の不良債権の山でその多くは日系の企業が絡んでいました。特に日本の某大手商社と某信託銀行は現地でも有名で知らぬ者はいなかったという状況でした。1979年の新婚旅行以来のハワイでしたがもちろん思い出に浸っている時間はありませんでした。ホテルはワイキキにありましたが、車で30分ぐらい(だったと思いますが)のところに弁護士事務所等があるオフィス街があり、もっぱらそこで過ごしました。ハワイには朝着いて直ぐに我々の弁護士事務所で打ち合わせをした記憶があります。ドキュメンテーションミーティングはおそらく翌日から2-3日間だったと思いますが、日本の当事者(JLC、LTCB、債務者、保証人、買主等)の代理人のアメリカ人の弁護士たちだけでなく、ハワイ州やホノルル市の弁護士も開発許可や滞納税金の関係で参加していて、もう訳が分からないというのが正直なところでした。最近は電子メール等が発達しているのでああいうドキュメンテーションミーティングはもうやらないようです。 こちらもかなり勉強して行ったつもりでしたがアメリカ人の弁護士同士の英語の交渉にはなかなかついていけず、法律面は弁護士に任せておけばいいのですが、ときどきコマーシャルに係る部分は我々だけ別室に入り弁護士から説明を聞いて結論を出してミーティングに戻るのでかなり時間がかかりました。H氏からは白紙委任状に近いものをもらってハワイ入りしましたが、そうは言っても日本では考えもしなかった問題が出てきたりして時差を利用してH氏への報告等も必要でした。実は現地で分かったのですが債務者であるリゾート会社がハワイの弁護士に対して多額の料金を滞納しており、取り下げる予定の訴訟をそのハワイの弁護士が取り下げないと言い出したりして、いろいろとあったのですがなんとか完了しました。空いた時間を利用して、ハワイの弁護士が問題のゴルフ場やランチ・ディナーのレストランに連れて行ってくれましたが、結局ハワイらしい思い出はありません。更生会社の出張だったのでしょうがないですが。リゾート会社の社長は会う時は何時も不健康そうな顔をしていましたが2005年に59歳で亡くなりました。新聞で病死のニュースを知りH氏にはメールで知らせたところ、H氏も新聞で読んだようで既にご存じでやはりショックを受けていたようです。一時はマスコミの寵児のようにもてはやされていましたが晩年(と言うほどの年齢ではなかったのですが)は大変だったようです。
  

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2013/06/22

会社更生業務(1)

    

1999年3月 英国ロンドン

1999年の3月にロンドンに出張しました。昔勤務していた英国法人の事務所に行ったところ書類やダンボールが山のように積まれていて、ただでさえ暗いのに更に暗い状況の中で前からいたスリランカ人の総務部長が書類の山に埋もれて残務整理をやっていました。もう1人イギリス人の営業部長もいた筈ですが、この時は会えなかったのではと思います(1年後に会いました)。会計士である管財人からはかなり長時間にわたりヒアリングを受け時差ボケもありクタクタになった記憶があります。通常の整理業務に加え、ある不動産担保権を巡り英国法人(すなわち管財人)が某邦銀ロンドン支店を相手に訴訟を提起した結果裁判所で争われることになり、その案件についてかなり突っ込んで聞かれた記憶があります。私自身はその不動産案件の組成には担当者として関わったので案件自体は了解していましたが、それを巡る資金の関係は全く知らずあまり役には立たなかったのではと思いますが、1999年の前半はその件でかなり忙殺されることになりました。

1999年4月 アメリカ・アリゾナ州フェニックス

 アメリカ法人については先輩の担当者がニューヨークに1人残って私的整理を進めていましたが、西海岸にもかなりローン資産があり、この中のフェニックスの郊外のゴルフ場は担保だったものを取得してオーナーになっていましたが、処分か何かに係るドキュメンテーションがあり、先輩がニューヨークから現地入りするのに合わせて、いろいろあり私も東京から行かざるを得なくなりました。フェニックスは同じゴルフ場の件でその数年前にも一度訪れたことがありました。サンフランシスコで乗り換えたのですが、空から見ると全米何番目かの大都市であるフェニックスが砂漠の中にあるのがよく分かり、よくこんなところに大きな街を作ったなと関心したものでした。先輩がニューヨークから来るよりも私が1日早く着いたのですがホテルの周りは砂漠で外出も出来ず1日中ボーッとしていた記憶があります。とにかくあとは弁護士事務所とコンサルタント会社の事務所で過ごしたことしか思い出せません。最後は先輩が運転するレンタカーでサボテンが生えている砂漠に出かけ東京の状況をいろいろ聞かれました。サボテンしか生えていない砂漠の中にはところどころに小さな集落がありました。住めば都といいますが私はあそこには住めないと思いました。

1999年5月~6月ごろ
英国法人の管財人が弁護士を連れて来日。目的は某邦銀ロンドン支店との訴訟の証拠として当時JLCの財務担当役員を初めとする数名との面談。面談対象の数名は、既に解任されていた担当役員を除き、全員が新設会社に所属だったと思います。書類つくりも含め準備にかなりの時間を費やしましたが、当然面談内容は裁判の証拠となることは対象者に事前に言ったわけですが、これを巡り日本の管財人団も含めかなりもめました。私は板ばさみになって散々文句を言われて、今にして思えば私の方が切れていればよかったのかもしれませんが、とにかく何とか面談までこぎつけました。面談は当然通訳を通じて行われ私も同席しましたが、私も初めて聞くことばかりで内心驚きの連続でした。当日の夜は英国人たちと有楽町のガード下で一杯やった記憶があります。翌日からは時間を見つけては面談のテープを聴きながら英語の部分を一生懸命日本語にする作業をしていました。当然ながら100%分からずに何度も聞いて大変な作業でしたが、何故そんなことをしたのか思い出せません。おそらく日本の更生管財人団の指示だったと思いますが。英国の管財人と弁護士はもう一度その年の秋ごろに来日しました。そのときは別の人物に対するヒアリングで1人はロンドン現法の財務担当者だった人物だったと思いますが、その他2-3人いたと思いますが思い出せません。英国人の管財人と弁護士はその2年前に破綻した日本の証券会社のロンドン現法の整理も担当していたようでその件もあったようです。
  

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2013/06/15

1998年10月~1999年3月 第1回目の資産譲渡

    

 会社更生法の問題だったと思いますが、暫くの間(1-2週間?)外部に対して全く動けない何も喋れない準備期間みたいなものがありました。終業時間後に年配者に誘われるまま居酒屋に行くと年配の社員が大勢集まっていて、何の解決にもならない愚痴や不平不満のオンパレードでした。そんなことよりも私にとって最も重要なのは家族でした。家族には迷惑はかけられなかったわけですが、私自身は何の根拠もなく漠然と何とかなると思っていたようで、不思議と平静だったような気がします。
 
 準備期間が過ぎると今度は猛烈に忙しくなりました。我々のレベルでの更生業務は主に2つあり①資産の査定②業務の継続のための裁判所の許可取得で、それらの業務に忙殺されました。8月にジャカルタの裁判所に提起した訴訟については管財人団とも相談の結果訴訟は取り下げることにしました。ちなみにジャカルタの弁護士に電話したところJLCの会社更生法申立の件は十分了解していて、大袈裟に言えば申立のニュースが世界中を駆け巡ったようです。とにかく会社が元気なときには起こり得ない法律問題が毎日のように発生しその対応に追われていました。一つ収穫だったのは、殆どの社員の士気は衰えることなく更生業務は猛烈な勢いで進み、私は今でもあの時の社員の団結力は賞賛に値すると思っています。
 
 会社更生申立からまだそれ程時間が経過していない頃に早くも米国メーカー系金融会社がスポンサーとして現れ、リース資産と人員(7-8百名?)を新設会社に譲渡する話が出てきます。あまりの手際の良さに、社内の中には会社更生申立を含めて一部の役員と社員が画策した出来レースではないかという批判がありました。私には真偽のほどは分かりませんが、出来レースでも何でもとにかく解決に向けて行動することが大事だったのではと思います。この資産譲渡を前提に全社員に対して希望を取ることになり管財人から面談を受けた記憶があります。選択肢は①リース資産を譲り受ける新設会社に移籍する②自動車等の子会社関連会社等に転籍する③このまま更生会社に残る、等だったと思います。私はあまり迷わずに③を選択しました。その時担当していた不良債権は譲渡資産に含まれずに更生会社に残ること、また長く担当していた国際関連資産・業務の整理も引き続き更生会社に残るので、個人的にはそちらの業務を行うことを優先したということでしょうか?年齢的にも50歳目前で、平均年齢が比較的若かった新設会社移籍組の仲間に入ることに若干躊躇したこともあったかもしれません。直感的に急いで結論を出さないようにしようと思ったこともありました。全員が希望どおりになったわけではありませんが、こうしてリース資産と社員の殆どは米国メーカー系金融会社が設立した新設会社への譲渡・転籍が行われました。記憶ではこの譲渡・転籍は1999年早々に行われ、新設会社と更生会社は銀座1丁目のビルで暫く同居することになりました。ついこの間まで同じ会社で働いていたわけですが、チャイニーズウォールみたいなものが引かれ、何か妙な感じだったような記憶があります。ところで私自身はこの分離とほとんど同時だったと思いますが更生会社の国際部に再び(?)配属されることになりました。JLCの国際部や営業部等は大幅に縮小されたわけですが、整理すべき海外拠点はまだ残っており、本社にブッキングしていた海外資産もまだほとんど全て残っていました。一方、国際関連業務を行っていた社員は新設会社に移籍した者も多く、外部への転職者もかなりいて人員が減ってしまったという背景があったようです。こうして私は昔担当していた欧州地区の拠点・資産の整理を行うことになりました。また米国の会社についてもニューヨークに1人残っていた整理担当者のサポートを行うことになりました。事務所については、1999年3月か4月頃に更生会社が有楽町駅前の新有楽町ビルに移転することで同居が解消されました。新有楽町ビルはJLCが1990年代半ばに銀座1丁目の自社ビル(詳しいことは知りませんが何かいわくつきの土地・建物だったようです)に移転するまで本社があり、私にとっては懐かしい場所でした。ハノイの合弁会社の件は嫌でも耳に入ってきましたが聞こえないふりをしていました。設立に関わったものとして非常に辛い話でした。
 
 こうして国際関連の更生業務を行うことになりましたが、私が1999年に担当した業務は①欧州の会社の整理②米国の会社の整理のサポート③(後から出てきたのですが)米国ハワイのゴルフ場関連ローン資産の整理等だったと思います。欧州の会社については英国・ロンドンに4社とイタリア・ミラノにその中の1社のイタリア現法があり、当時4大会計事務所の一つが英国とイタリアで管財人として破産法に基づく法的整理を進めていました。その他にオランダのペーパー会社があり、これも結構複雑でしたが、こちらは法的整理ではなく私的整理を行っていました。当初は、朝出社すると英国・ロンドンとイタリア・ミラノの会計事務所からはものすごい量の問い合わせがメールやFaxで届いていて、懸命に返事を準備してその日の夕方(欧州の朝)までに返信するという毎日が暫く続いた記憶があります。それに対応するだけでも相当に忙しい毎日でした。当時、日本国内では会社更生法の申立で社員や資産等は保護されることになりましたが、海外では全く逆で、特に英国法系の国では一時大変な状況になったようでした。こういった状況の中で、銀行からの出向の海外拠点長の中には会社更生の申し立ての前後に信じられない行動を取った人たちがいたようで、今でも思い出すと残念というか腹立たしくなります。
  

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