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Posted by vietnhat at

2012/06/17

ホーチミンそしてハノイへ

韓国系リース会社の設立レセプション

2月22日(土)は、ホーチミンのとあるホテルで開催された韓国とVCB以外のベトナムの国営銀行との合弁リース会社の設立レセプションに参加しました。会社の名前はVietnam Finance Leasing Company(”VLC”)だったと思いますが、現在どういう状況かは全く知りません。1996年に施行されたリース法に基づき、VLCと韓国系もう1社がホーチミンで、我々の会社がハノイで設立準備中で、VLCが一足先に設立を迎えました。VLCの外国側パートバーは、韓国の銀行・リース会社が中心でしたが、複数の国が参加しており、レセプションの司会はたしかインドネシアの方でした。また、日本債権信用銀行も参加しており日本人H氏が副社長に就任していました。VLCの韓国人社長とH氏はたまにハノイに来ていたので、来るたびに食事をしていました。H氏は、私と同じ年齢だったと思いますが、日本債権信用銀行が破綻後銀行を退職したそうですが、2000年から2001年にハノイに滞在しておりその時偶然に再会しました。その件は、また別の機会に報告します。韓国系のもう1社は韓国輸出入銀行100%の会社だったと思います。当時100%の外資は原則認められていなかったのですが、何か特別な事情があったようです。

タクシーでメコンデルタへ

日曜日はオフでY氏もハノイに帰ったので、ホーチミン市内観光をと思ってタクシーをつかまえたところ、運転手からメコンデルタへ行かないかとの提案があり行くことにしました。タクシーの中からですが、一般の人々の生活は貧しいという印象を受けました。ところでタクシーですが、街中を走っているうちはまだ良かったのですが、郊外に出るとセンターラインを無視したスリル満点の運転になり(センターラインはなかったかもしれません)、何度か運転手にゆっくり走ってくれと懇願したのですが、他の車も同じような動きをするので生きた心地がしませんでした。この国で駐在・生活をするのは無理だと思った1回目の出来事です。メコンデルタまで3時間程だったと思います。メコンデルタはメコン河の河口付近にあり生まれて初めて見る大河で珍しい生活様式も見ることができましたが、またタクシーでホーチミンまで戻るのかと思うとそれだけで憂鬱になりました。ちなみにベトナム最後の2001年5月に再度ホーチミンからメコンデルタにタクシーで出かけましたが、このときは新しい道路が出来ていたようで、時間もそれほど掛からず恐怖もあまり感じませんでした。慣れもあったかと思います。

ハノイへ

月曜日いよいよ飛行機でホーチミンから任地のハノイに向いました。距離・時間的には東京・福岡間と同じぐらいかと思います。ハノイ・ノイバイ空港に到着したのは午後遅い時間だったと思いますが、Y氏が車で迎えに来てくれていました。運転手のMr.Kはハノイで初めて会った身近なベトナム人になります。ちなみに彼は現在は運転手ではなく、VCBリース子会社で経理部長をしています。空港を出ると韓国系の看板が目立ちました(1997年のことです)が、冗談ではなく、道路は水牛が占拠し、アヒルの集団が歩いていました。水田では田植えか何かをしていて、ビックリするほど多くの人々が働いていました。風景はホーチミンとはかなり異なり、どこか中国的な風景に見えました(但し、この時点で私は中国に行ったことはありませんでした)。経済的には抽象的な表現ですが、ホーチミンの70%程度との印象でした(あくまで個人の感じです)。車で最初に到着したのがハノイ市の西の外れにあるHITCというシンガポール系のオフイスビルです。ビルの廻りはハノイ的風景が広がっていました。このビルの2階にLTCBとJLCの狭い共同準備室があり、Y氏の秘書のMs.Lと私の前任者の秘書のMs.V(従って、この日から私の秘書になるわけですが)がいました。2人ともハノイ外国語大学の出身でMs.LがMs.Vより1歳上だったと思います。当時23-4歳の若い二人でした。 Ms.Vには慣れない土地でその後本当にお世話になりましたが、とても一度では書ききれないので都度報告します。二人に挨拶したあと、当面のホテルである大宇ホテルに向いました。2月のハノイは鉛色の空という表現をしますが、気温は低めですが天気が悪く始終霧雨が降っていてとにかく暗いという印象を受けました。ホテルまでの見慣れない街並みもどこか暗く正直気が滅入りました。ホテルは私が選んだわけではないのですが立派で、部屋から前面に小さな湖が見えるのですが、天候が悪いこともあり、先のことを考えると暗澹たる気持ちになりました。その日の夜は、中心部の古い西洋式教会の隣にあった日本レストランでY氏と食事をしました。とにかく、慣れない土地で、慣れない人と一緒だったので、大変疲れました。

ノイバイ空港
1997年当時のノイバイ空港はとても静かでした。混雑で遅延ということは一切なく、発着到着時間はJRの電車のように正確でした。ターミナルビルは古い倉庫のような建物で、首都の空港としてはお粗末だという人もいましたが、私はとても好きでした。ちなみに最後にベトナムを離れた2001年5月に、近代的なターミナルビルを建設しており完成間近という状況でした。2010年12月にハノイを再訪した時に、その新しいターミナルビルは若干古くなりかけていて、10年という歳月の重さを感じました。飛行場の中に、北爆の時の空爆で出来たという大きな跡が残っており、写真でしか見たことがない旧ソ連製のミグ戦闘機数機が並んでいました。ただ、飛んでいるところを見たことはないのですが。当時のノイバイ空港の風景が本当に懐かしいです。

神戸市営バス

ノイバイ空港で、飛行機とターミナルを結ぶ神戸市営バスに乗りました、ちなみに、日本で神戸市営バスに乗ったことはありません。バスの中にも、神戸市内の路線図や広告がそのままの状態で残っていました。但し、初めて乗ったときは気がつかなかったのですが、改造して運転席と乗降口を反対側にしており、そこまで改造するのなら路線図等も外せばいいのにと思ったのですが、もしかして譲渡した時の契約書に神戸の表示は残すことになっていたのでしょうか?空港に限らず街中でも、日本から持ってきたと思われる中古車をよく見かけました。日本の少子化の影響でしょうか、幼稚園バスもたくさん見かけました。もちろん普通のベトナム人には、それが日本の幼稚園バスだとは分かりませんが。その後ベトナムの法律改正で右ハンドルや改造車が走れなくなり、日本車は姿を消し、今では中古の韓国車でいっぱいだと聞いたことがあります。ただ、2010年12月にハノイを再訪したときには、日本式漢字、ひらがな、カタカナが書かれた中古の建設機械を多く見かけました。


  

Posted by tsukuma at 20:44Comments(1)

2012/06/17

ベトナム・ハノイへ



私がベトナムへ行くことになるまでの経緯は・概略以下のとおりです。
1.1990年代半ば頃、国営のベトナム外国貿易商業銀行(いわゆるベトコン銀行、以下”VCB”)と日本長期信用銀行(”LTCB")と私が勤務していた日本リース(”JLC")との間の間でハノイにおける合弁リース会社設立の話が持ち上がっていました。
2.ベトナム戦争終了後もアメリカはベトナムに対して経済制裁を行い、ベトナムはアメリカの銀行に口座を開設出来なかった時期があり、そのためにアメリカドルの決済ができずにドル建ての貿易取引に支障が出るのを防ぐために、LTCBが援助していたという話を聞いたことがありますが、詳しいことは分かりません。ただ、そういうことを通じてLTCBはベトナムとの関係を強めていったようです。
3.1996年(だったと思いますが)に、ベトナムでリース法が制定施行され、その法律に基づきリース会社の設立・営業ができるようになりました。LTCBとJLCの社内で合弁会社設立に向けてプロジェクトチームが作られて、派遣社員候補も各1名づつ指名され具体的にいろいろ動いていたようです。ちなみに、この時点で私は全く関与していません。プロジェクトチームと同じフロアーにいたので、何となくベトナムという言葉が聞こえていたような気はしますが。
4.私が具体的に関与するようになるのは、JLCで派遣候補者の後任を早急に決める必要が生じたことから始まります。
5.通算のベトナム滞在期間はそれほど長くないのですが、自画自賛になりますが、中味はそれなりの濃かったのではと自分では思っています。1997年2月から1998年4月まで合弁会社の設立等に参加、2000年7月から2001年5月までは逆に合弁会社の解散に従事し、その後一旦ベトナムから完全に離れたのですが、2008年11月に東京新宿であるベトナム人との思いがけない再会があり、2010年12月にはハノイに再訪することが出来て現在に至っています。

本ブログはタイトル通り「ベトナムの思い出」を綴るもので、企業・会社名への言及は必要最低限とします。LTCBもJLCも1998年に破綻し、今では存在しません。但し、ご存知のとおりLTCBは一時国有化を経て名前を変えて別の銀行になっています。多くの元行員・元社員等の皆様が破綻・再生について多数の本を執筆されているので、興味がある方はそちらを参照ください。また個人名は原則イニシャルで記載します。

あまりに突然のベトナム・ハノイへの赴任

1997年1月のある日、人事部から当然呼ばれ「ハノイ赴任」の通告。あまりにも突然の話でこちらもあっけにとられ、とにかく断らねばと重いNoと言ったが、命令だということで行かざるを得なくなりました。 ベトナムというバックグラウンドが全くない私が何故という点については、「新規合弁会社設立」と「海外」という2つのキーワードの経験者が他に居ないというものでした。私は、いくらでもいるだろうと反論したのですが、確かに海外の経験者はいくらでもいるのですが、2つのキーワードの両方の経験者が以外と少ないというのも事実でした。後で知ったことですが、ベトナム中央銀行(”SBV")による合弁会社設立の仮ライセンスが1996年12月に出て、本格的に合弁交渉が始まるのでLTCBから早く後任を決めろと矢のような催促があったようです。通常、ベトナムにおける外資による投資管理はMinistry of Planning and Investment( “MPI”)の管轄でしたが、ファイ
ナンス関係についてはMPIではなくSBV管轄になっていました。私は、その時点で44歳になっており、10年ほどヨーロッパに関する仕事をしておりイギリス駐在の経験も有りましたが、ベトナムを含むアジアにはプライベートでも行ったことがなく、途方にくれた記憶があります。家内もビックリ仰天していました。とにかくすぐに赴任ということだったので、パスポートの期限切れが近い(これは事実)という理由で抵抗しましたが所詮無駄でした。こうして、ベトナムのことを勉強する時間もなく、語学学校でベトナム語の勉強もできないまま、ベトナム・ハノイに赴任することになりました。英語圏・中国圏以外の国に赴任する場合は、事前に語学学校で現地語を勉強することになっていたようですが、私の場合は多分勉強しても無駄だったと思います。難解なベトナム語については後で記載します。

代々木のベトナム大使館

パスポート更新後、代々木の住宅街にあるベトナム大使館に出向きビジネスビザを取得しました。当時は、ビジネスビザ期間の最長は6ヶ月間で、出張でも赴任でも6ヶ月ごとに延長の必要がありました。大使館は倉庫のような建物で、ビザを貰いに来た人でいっぱいでした。旅行会社の人が多かったようです。ところで、この代々木のベトナム大使館には2008年頃再訪したことがありますが、場所は同じですが見違えるような立派な建物に建て替えられており、現在のベトナムの勢いみたいなものを感じました。なお、現在は短期の観光ビザは必要ないようです。

東京でLTCBのY氏と面会

この短い期間中、ハノイから一時帰国していたLTCBのY氏と面会。私より10歳近く年長で後日合弁会社の社長に就任しました。エコノミストとして海外経験も豊富で英語も非常に堪能でした。ホーチミンに1年ほど駐在しハノイに転勤したばかりとのことでした。私のベトナム赴任にあたっては、まずホーチミンで韓国系リース会社の設立レセプションに招待されているのそれに参加したあと、ハノイに赴任ということになりました。Y氏についてはLTCBから色々聞かされていましたが、第一印象は予想通りの人でした。

羽田空港から関空経由でホーチミン・タンソンニャット空港へ

1997年2月21日金曜日(当時のパスポートが残っており日付は正確。パスポートには日本とベトナムの出入国記録が多数押されているが、日本のスタンプは問題なく読めるが、ベトナムのスタンプはインクが滲んでいて判読できないものが多いようです。)。羽田空港で家内に見送られて、ベトナムに関して何の予備知識もないまま、関空経由でホーチミンに向いました。当時は両国の直行便はホーチミンと関空との間のみで、それも毎日ではなかったと思います。 ホーチミンに着陸する直前にメコンデルタと思われる地域が見えてきて、中学・高校・大学時代毎日のようにベトナム戦争に関するニュース等に接していましたが、いよいよベトナムかと思うと、とても不安な気持ちに襲われたことを、今でも昨日の事のように覚えています。飛行機を降りると暑くて汗が吹き出てきました。最後の税関を出るときにもX線での荷物検査がありました。麻薬やビデオ等の最終チェックをしていると聞いたことがありますが、ハノイ・ノイバイ空港で実際に見つかったビデオを検査視聴しているのを見たことがあります。2010年12月にハノイを再訪したときには、少なくともハノイでは、この検査は廃止されていたようです。 空港から宿泊先のサイゴンプリンスホテルに向かう頃には薄暗くなりかけていましたが、タクシーの中から生まれて初めて見る大量のモーターバイクが道路を疾走する光景をただ唖然として見ていました。ホテルに到着後の記憶は曖昧ですが、Y氏とY氏の後任としてホーチミンに駐在していたLTCBのK氏(Y氏の1-2年後輩)と一緒に近くの日本レストランで食事をしました。体がとても疲れていたことだけはよく覚えています。
  

Posted by tsukuma at 03:49Comments(3)