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2012/11/03
ベトナムと私の関わり(少し大げさですが)


私は1952年生まれで今年60歳になりました。日本の高度成長とその後の低成長とともに今までの人生を過ごしてきました。ベトナムという国は我々の世代には諸外国の中でもマスコミを通じて一番多く見聞きした国ではないかと思います。子供の頃よく行っていた映画館では本編の前に必ずニュース映画があり戦争のニュースをよくやっていましたが、あれはおそらくベトナムではなかったかと思います。中学・高校・大学の頃はテレビで毎日のようにベトナムに関する報道があり特派員報告でもよくベトナムのことを取り上げていました。サイゴン、ダナン、ハノイ、ハイフホンを初めとするベトナム各地の地名は行ったこともないのに耳にタコが出来るほど聞いていてすっかり身近な地名になっていました。また、テト攻勢、北爆、ホーチミンルート等ベトナムに関する用語はおそらく意味はよく分かっていなかったと思いますが頻繁にテレビ新聞等を通じて入ってきました。高校時代は日本でも学園紛争の嵐が吹き荒れ多くのスローガンの中に「ベトナム反戦」が必ず含まれていました。そのスローガンを叫ぶ人たちベトナムに行ったことがある人はおそらく居なかったと思います。私が大学に入学したのは昭和46年(1971年)4月で学園紛争はかなり下火になってはいましたが、それでも混沌とした雰囲気が広がっていました。少しローカルな話になりますが、私が通っていた大学は福岡市の中心から少し西の六本松というところに教養部があり1年半(医学部系は2年)をそこで過ごした後は東の箱崎にあった専門課程に進む仕組みになっていました(「あった」と過去形で書いたのは福岡市の隣の糸島市に全学が移転して現在はそこにキャンパスがあるそうです)。福岡市内の高校を卒業して自宅から六本松の教養部まで歩いて通学していてそれ程新鮮味はなかったのではと思います。教養部は全学部の学生が居たわけですが、たまたま台湾出身の医学部の留学生と知り合いになり彼を通じて多くの留学生を知ることになりました。殆んど台湾の医学部系の留学生でしたがその他のアジア出身者もいて、その中に1学年上の医学部のサイゴン出身のベトナム人がいました。年齢は少し上で22-3歳だったと思いますが、おそらく彼は私が初めて出会ったベトナム人ではなったかと思います。ちなみに日中国交回復は翌年の1972年で当時は私が知る限り中国本土からの留学生は居ませんでした(大学後半に居たような記憶があります)。第二次対戦前には多くの中国人留学生が在籍していて後に作家になり中国共産党の幹部になった郭沫若も医学部を卒業したそうです。私は当時郭沫若のことを知らなかったのですが台湾人の留学生から聞いて初めて知った次第です。台湾人でも同じ中国人として郭沫若を誇りに思っていたようです(そういえば東の箱崎にあった郭沫若が下宿していた古い建物の保存運動がありましたが結局取り壊したようでした)。六本松の教養部には留学生のお世話をする担当教官が居て、その研究室の隣に留学生の部屋があり私もたまに顔を出していました。同じ台湾出身者でも親が台湾出身か大陸出身かで台湾語が通じたり通じなかったり、台湾出身者と香港出身者が共通の中国語がないので日本語で話をしていたり(同じ中国語なので少し勉強すれば喋れるようになるらしいのですが)、私にとっても初めて知ることが多くて新鮮でした。言葉といえば福岡県出身者の次に多かった鹿児島県出身者が普段は標準語がうまいのに、鹿児島県出身者同士で話す鹿児島弁が全く理解できず日本語に聞こえなかったのが不思議な体験でした。鹿児島弁に比較すれば留学生たちの日本語は非常に分かりやすかったと思います。その中ではベトナム人の留学生の日本語は一番分かりにくかったという記憶があります。おそらく日本語とベトナム語とはかなり違う部分があったせいだと思いますが、その時はそんなことは考えもしませんでした。ベトナム人の留学生は上級生に2-3人いたという話を彼から聞いた記憶がありますが、私は会ったことはなかったと思います。彼もベトナム語を話す機会が少なかったのでベトナム語を話すときは考えながら話さないとベトナム語が出てこないと言っていました。専門課程に進んでからは箱崎のキャンパスは広く、しかも医学部系のキャンパスは少し離れたところにあり(路面電車で4-5駅)殆んど会ったことがなかったと思いますが、私の卒業間近に大学でバッタリ会った記憶があり丁度長く続いたベトナム戦争が劇的な形で終わった頃でサイゴンの家族と連絡が取れないと言っていました。書いていて思い出しましたが大学2年か3年のときにその時の仲間達と九州の中心部の九重にあった大学の山の家に泊まり(筋湯温泉というところだったと思います)九重山に登ったことがあり、その時に鹿児島大学のサイゴン出身のベトナム人留学生が一緒でした。片言の鹿児島弁を披露してそれを鹿児島出身の日本人が標準語に通訳して皆で大笑いをした記憶があります。そういえば彼は日本はテレビもラジオも外国語会話の番組が豊富で日本人は恵まれていると言っていて、こちらはそれを聞きながら体を小さくしていました(添付の写真はおそらくその時の写真?・・白黒だったのですね)。当時知り合いになった留学生や日本人も今は全く音信不通ですが元気にやっていることと思います(日本人の1人と東京の地下鉄でバッタリ会ったことがありましたがそれも随分昔の話です)。社会人になってからは、ベトナムとは全く縁がなく有楽町にあったサイゴンというベトナムレストランにたまにランチで行くぐらいでした(このレストランがあった日比谷パークビルは立替られて現在有名ホテルになっていると思いますが、サイゴンは隣の古いビルに移って今でも営業しているようです)。英国に駐在していた時は近くにチャイナタウンがあり、その中のベトナムレストランにたまに行っていました。但し、そのレストランはベトナム人が運営していた本物のベトナム料理店かどうかは定かではありません。また当時パリに出張してタクシーに乗るとかなりの確率で運転手がベトナム人でした。東洋人である私が乗ると必ず国籍を聞かれたのですが日本人だと言うと一様にがっかりしていたようで、私もフランス語が出来ないので会話はそれ以上進みませんでした。パリの街角では休息中の大勢のベトナム人のタクシー運転手がたむろしていたのをよく見かけました。社会人になって20年間はベトナムやベトナム人とは殆んど接触することはなかったのですが、1997年1月に突然ベトナム・ハノイ行きを告げられることになります。ベトナムが1975年のベトナム戦争終了後約10年間の紆余曲折を経て1986年にドイモイ政策を打ち出して更に約10年を経過していた時でした。
Posted by tsukuma at
09:12
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