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2013/07/07
2000年2月 ミラノ、ロッテルダム、ロンドン




欧州全体が暗くて寒い2月に、エコノミー席で12-13時間かけて出張するのは結構大変なのですが、中間の締めくくりとして上記3都市に出張しました(結局この出張が欧州最後の出張になりました)。
ミラノ
到着した夜はミラノ駅の近くのホテルに泊まり、夕食は近くの中華料理屋へ行った記憶があります。欧州で一人の時は中華料理に決めていました。言葉は通じなくてもメニューには必ず現地語の他中国語の記載があり何となく分かります。翌日は会計事務所で長時間の打ち合わせ。イタリア人との英語での打ち合わせは本当に疲れます。向こうも同じことを思っていたのでしょうが。ランチは会計士たちとパスタを食べましたが一口にパスタと言ってもいろいろな種類があります。イギリス人や日本人はパスタを食べるときはフォークとスプーンを使いますが、イタリア人は、私が見た限り、フォークしか使わないようです。ミラノはファッションの中心地で観光名所らしいのですが、結局そういう場所には行ったことがなく、数回の出張はいつも冬だったのでミラノは暗いというイメージしかありません。
ロッテルダム
ミラノからオランダへ。アムステルダムにはスキポール空港という実に馬鹿でかい飛行場があります。ロンドンに駐在していた頃、ロンドンから英国の地方空港に行く場合にはスキポール空港を経由した方が早いという話を聞いたことがありました。アムステルダムには何回か行ったことがありましたがロッテルダムは初めてでスキポール空港の地下駅から電車で1時間ほどだったと思います。駅の近くのホテルに宿泊しましたが夕食はやはり近くの中華料理屋に行った記憶があります。ロッテルダムではオランダ会社を管理していた法律事務所と会計事務所を訪問し最後の打ち合わせを行いました。記憶が定かではないのですがロッテルダムまで実際にMeetingで行ったのは私が最初で最後だったのではと思います。とにかくオランダ人は英語が堪能で驚きます。弁護士会計士はもちろん(職業差別ではないので念のため)タクシーの運転手も実に分かりやすい英語を話します。
ロンドン
最後はロンドンに行きました。やはり駐在経験があるのでとにかく落ち着きます。たまたま東京の航空機案件の担当者(ロンドン駐在時代の同僚・後輩)と一緒になり同じホテルに宿泊しました。管財人とのMeetingはもちろんですが、ロンドンのペーパー会社等の銀行口座閉鎖等に走り回った記憶があります。また重要な仕事として、オランダ会社の債権者とのMeetingがありました。ブロードゲートと呼ばれる数棟のオフィスを中心とする複合プロジェクト(世界で初めてノンリコースローンが考案されたプロジェクトと言われています)にあった某信託銀行ロンドン支店で担当者と初めて会いましたが、予想に反して若くて小柄で落ち着いた物腰の人物でした(電話では全く正反対のイメージを抱いていました)。Meetingではとにかく誠実に対応し過去の経緯を全てオープンにしてかなり長時間を要したと記憶していますが何とか無事に終わりました(分かってくれた?)。出張最後には英国現法で営業部長をしていたイギリス人がホテルまで私と後輩を訪ねてきてくれました。私より10歳ほど年長だったと思いますが、ホテルのバーで一杯やりながらいろいろな思い出を語りながら涙を流していました。イギリスで人が泣くのをあまり見た記憶が無かったのですがこちらも胸がいっぱいになりました。
2000年4月 東京
1999年4月に大半の資産と人員が新設のリース会社に譲渡・転籍した後、更生会社に残った我々は1年間更生業務を行っていましたが、2000年4月に米国自動車メーカー系金融会社がスポンサーとして残りの資産と人員を引き受けることになりそちらに転籍することになりました。但し、私は更生会社から委託された形で引き続き更生業務を行うことになり表面的には何も変化はありませんでした。
こうして、ハワイの資産処分が終わり、欧州の拠点・資産の処分もかなり目途がついたこともあり、再びハノイの合弁会社の件の関与が始まります。その前に当時のパスポートを見ていて思い出しましたが、この時期ニューヨークに出張に出かけています。
2000年7月 ニューヨーク
なぜこの時期にNYに行ったのかよく思い出せないのですが、ニューヨークには先輩の日本人が一人残りアメリカ現法の整理を進めていました。1999年6月のアリゾナ州フエニックスで一緒に仕事をして以来だったと思いますが、何か重要なことが起こり人出が足りなったので急きょ出かけたような記憶があります。アメリカについては私はサポートということで、主に日本サイドでアメリカの件での東京地裁からの許可取得のための申請書等を作成していました。電話で行われるニューヨークでの債権者会議には日本から変な時間に参加していました。また債権者である邦銀の東京本社や大阪本社での説明には私が出向いていました。ニューヨークでは先輩の住居兼オフィスの近くの安いホテルに宿泊しました。大勢の人に会った記憶は無いのですが、何か慌ただしく事務作業を行った記憶があります。この先輩はお酒が全然駄目だったのですが夜はイタリアレストラン等で適当に付き合ってくれました。群馬県高崎市か前橋市に家があったと思いますが、今から5年ほど前にはまだニューヨークに在住という話を聞きました。
以上のとおり当時のパスポートを見ると短期間に何回も出張しています。結構辛い出来事もありましたがそういう経験は思い出したくもないので意識的に投稿では触れませんでした。
ということで、また表題どおりベトナムの思い出に戻ります。ハワイの件が終わった2000年の4月ごろだったと思いますが、管財人代理のH氏から今度はベトナム・ハノイだと言われて、ハノイの合弁会社の件だけは嫌だったのですが、H氏からハワイと同じ役割分担で行こうと言われ気分を新たにして取り組むことにしました。来週からはまた「ベトナムの思い出」です。
Posted by tsukuma at
05:37
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