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2013/03/03
Ba Trieu Street



合弁会社で働いていた時の名刺は添付の写真のように今でも記念に持っています。住所はNo1 Ba Trieu Streetで日本式に無理やり発音すれば「バーチュー・ストリート」ですがタクシーの運転手には私の発音は全く通じませんでした。ビルに英語名がついていたような気もしますが思い出せません。3階建てのコロニアル風の建物で合弁会社は3階部分に入居していました。前の通りを通過する大量のモーターバイクの音がうるさかったのですが、広いバルコニーには鉢植えの植物が生い茂っていました。1階にはエアーフランスの事務所と名前は忘れましたが有名なカフェやお土産屋さんがありました。名前は忘れたのではなく最初から知らなかったのかもしれません。ハノイでは地名や店名がなかなか覚えられませんでした。運転手のMr.Cに「あそこの会社」とか「例のレストラン」とか抽象的に言っても連れて行ってもらえたせいもあったかもしれません。ホアンキエム湖の南側に面していたので、気が滅入った時や考えをまとめるときにはよく湖を歩いて1周しました。余談ですが英国駐在中はそのような場合会社の近くの大英博物館で悠久の歴史に浸りながら心を鎮めていました。結果的に数えきれないほど何度も1周したので靴磨きや物売りの子供たちや両替商のおばさんたちにすっかり顔を覚えられて、中には「ヘイ!ジャパニーズ」と生意気に声をかけてくる子供たちもいました。2階には何故か当時ハノイには乗り入れていなかった日本航空の事務所がありましたが途中で近くの近代的なビルに移転しました。2階にはアオザイを着たお喋りのウエイトレスさんが居たレストランがありました。日本人のY社長からランチに誘われるときには必ずこのレストランと決まっていて、昼は無理やり用を作って外出していましたが無理やりの外出にも限度があり、このレストランにはよく通いここのFried Riceは何度食べたか分かりません。お客で混んでいたという記憶はあまりなくランチの時間は二人だけということも珍しくなかったと思います。ビルのオーナーは国営の旅行会社だったと思いますが、そのせいか時々欧米人の団体の観光客グループに占拠されていることがありました。ある日珍しく浅黒い肌の東南アジア系とは違う東洋系のグループが入ってきたことがあり、ベトナム語や中国語や韓国語とは違う聞いたことがない言葉を喋っていましたが、若い男性添乗員が日本語を喋っていて観光客グループがどうもそれを理解していたようなのでびっくりして添乗員さんにこっそり聞いたところ、沖縄の南側の八重山諸島(だったと思いますが)の漁船の乗組員さんたちで上陸後の時間を利用して観光していたとのこと。全く理解できない日本語(方言)にY社長も私も唖然としたものです。私にとっては大学入学で遭遇した鹿児島弁と社会人になって東京で聞いた津軽弁以来の日本語のカルチャーショックでした。会社の勤務時間が終了すれば当然終わりでしたが、私が知っている範囲ではベトナム人は残業はしませんでした。Y社長と私の間にも残業はしないという暗黙の了解がありましたが(と理解していましたが)いつも30分ほどは残っていたので毎日会社の鍵をかけて帰るのは私の仕事になっていました。ちなみに英国でも普通のイギリス人は残業しませんが、日本人だけ残っていたのでイギリス人から日本人だけで何か良くないことをしていたのではないかと言われたことがありました。



Posted by tsukuma at
06:46
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